メイヴィス(4)
「どうして……泣いてるの?」
彼の静かな声が問う。あるかなしかの戸惑いが滲んでいた。
大きな手が伸びる。
身を引きかけて留まる。やさしい指が髪の先へ触れた。それだけのことで頬へ血がのぼるのを感じる。わかっているのに。彼が私に何ら特別な感情をもっていないことなど、わかっているのに。
わかって、いたのに。
私に触れる彼の手の甲へそっと、手を滑らせる。包むようにして触れると彼は怪訝そうに瞳を細める。そんな風に見ないで欲しいのに。悲しい。きっと、そんな風に見られることしか出来ない自分が。
「――……さい」
掠れた声で呟く。
生涯口にすることなどないと思っていた言葉を。言うつもりなどなかった。言いたくなどなかった。なのに、どうしようもないほど心の底から言いたかった。
小さすぎて聞きとれなかったのか。
それとも、信じられなかったのか。
彼の瞳の怪訝そうな色が濃くなる。
「……抱いて、ください」
何でもないことのように言おうとした。けれど声は掠れたまま震えを帯びた。恥ずかしさよりも惨めさに、愛しさよりも悲しさに。
「どうして?」
「そうして欲しいからです。私が」
「……そう……」
それが君の望み?
彼の問いが残酷に響く。最後に体を重ねて思い出にしようと思ったわけではない。体だけでも繋がりたいと思ったわけではない。ましてや体の関係を盾に、紫の髪のプリーストから目を逸らさせようとしていたわけでは、決してない。
私自身にもわからない強すぎる想いに突き動かされていた。
制御しきれない感情。
制御しようともしなかった。
愚かな選択をしようとしていた。
それでも構わない。心の中で何度も、くりかえした。
本当の望みなど、もうわからなくなっていた。
わからないふりをしていた。
手を重ねたまま彼の手は、私の頬へ触れる。ゆっくりと二度、三度、撫ですさる。長い指先が耳の下をくすぐっていった。それだけで吐息に熱が篭る。
頬から手が離れる。重ねていた私の手が逆に彼の指の内に捉えられた。指を絡ませ合うようにして手を繋ぐ。もう何度も歩んだベッドまでの短い距離が、やけに遠く感じた。
私の上へ覆いかぶさるようにして彼がベッドへ上がる。
無言のまま彼の手が法衣の襟元を緩める。前を開かれ、露になった肌に彼の指が滑る。くすぐったさの後を追うようにして熱がこみ上げてくる。
最初は喉へ、肩へ、鎖骨へ。煽るように指先が緩やかに這う。次いで脇腹まで一息におりてから、胸元へ。
決定的な刺激は与えられないまま徐々に体は汗ばんでいく。
これが夢なのか、実際に体験していることなのか、わからなくなる。
触れてくれる指をたしかに感じていたのに。
「っ――……あ、……、ぅ」
高く響いた己の声に我にかえった。
いつのまに下衣までを脱がされていたのだろう。自身へ指が絡み、刺激される。疑問さえも慣れない悦楽に呑み込まれていく。撫でられた内股が濡れて冷たい。その液体が私自身が零したものだと思うと、恥ずかしいよりも、惨めでいたたまれなくなる。
彼の触れ方はどこまでもやさしかった。
やさしすぎて、かなしくなるほどに。
「……ん、っあ、ぁあ……は、っ」
手を伸ばして、縋りつく。
広い背中はいつもと同じ低い体温のまま。
つめたい手が触れる度、かなしみが心に落ちる。
彼の手に反応して体があつくなる。
けれど心は、つめたくなっていった。
与えられる刺激が緩やかだからなのか。夢中で喘ぐ私を冷静に見ている私がいた。零す涙がつめたい。
「ぁ――……」
口を開いても掠れた声が漏れるばかりだった。彼の名を呼びたいのに、私は呼ぶべき名をもたない。彼もまた私の名を知らない。自ら望んだことなのに無性に悲しい。
乱れた様子の一欠もない彼の顔を見たくなくて目を閉じた。瞼の裏が赤いように思う。赤だったろうか。青だったようにも、紫だったようにも、緑だったようにも思える。
彼の手はやさしい。
いっそ無理に組み敷いて、いたわりの欠片もなく、いかにも義務的にただ行為を進めてくれたのなら、こんなにも悲しくなったりはしなかっただろうに。そんな勝手なことを思うくらいに、やさしい。
そのくせ触れる手に熱が篭ることは、ない。
肌に時折かかる息にも。
どうして抱いて欲しいなどと言ったのだろう。彼と肌を重ねても感じるのは悲しみと、身勝手な後悔ばかりだった。彼の手が触れる度に、つめたい体温を感じる度に、彼と私とが違う生き物なのだと知らされる。私がひとりきりなのだと、感じさせられる。痛みを覚えるほど明確に彼と私の違いを教えられる。
今までになく深く体を繋ぎ合っているのに。
今までになく私は、どこまでも孤独だった。
* * *
目を覚ますと既に部屋は暗かった。
体はだるく力が入らないが、情事の名残を感じさせる跡は何ひとつなかった。何ひとつ。何も、残らなかった。わかっていたのに。わかっていたはずだったのに。なのにどうしてこんなに胸の奥が痛むのか、わからなかった。
身を起こす。そこでようやく裸のままだと気づく。法衣が皺にならないようにかけておいてくれたのだろう。上掛けのうえに置いた腕の白さが自分のものに思えず、一瞬、吐き気がこみ上げた。
部屋の中で聞こえるものは、私の鼓動と吐息だけだった。
隣の部屋のオルゴールも今日は歌うのをやめている。
彼の姿はなかった。
酒場へ行ったのだろう。うたを歌いに。
紫の髪のプリーストへ、あいに。
「痛……」
指に痛みを覚えて視線をやる。シーツを握り締めた指が力の入れすぎで震えていた。その手の甲を、もう片方の手でそっと撫でさすって指を解す。手のひらが、指が、甲が、それぞれに痛みを訴えていた。
そんなものよりも胸の奥が痛かった。
ヒールしようと祈りの言葉を紡ぎかけて、やめた。
体の奥にわだかまるこの感覚を消してしまったら本当に何も、何ひとつ残らなくなってしまう。いつかは消えてしまうものであっても、今はまだ、身の内にあって欲しかった。
もう二度と、彼から与えられることのないものだから。
ベッドから降りると足元がふらつく。
窓から入る僅かな明かりを頼りに部屋の中を歩く。壁に、法衣がかけられているのを見つけた。上着を羽織って裸身を隠す。泣きたいけれど涙は出てきそうになかった。
そのまま壁際に座り込んで窓の外を見ていた。
街の灯が薄っすらと、遠くに見える。あのどこかに彼の歌声がある。彼の視線を捉える人がいる。何て、遠い。
膝を抱き寄せて顔を埋める。僅かに腰が痛んだが気にならない。ロザリーを指先で撫でた。硬い冷たい感触は少しだけ、彼に似ていた。
――ここを出て行こう。
壁に手をついて立ち上がる。
灯りはつけないまま身支度を整えた。
メッセージを残そうかと迷う。残すとしたら、何と書くべきだろう。私は今、彼に何を伝えたいのだろう。考えても答えは出なかった。
結局、メモを残すのはやめた。
忘れない内に未練が出ない内に彼からのWisを拒否しようとして、改めて思い出す。彼の名前を知らない。名を知らずともこんなに悲しくなるのなら、いっそ名前を聞いておけば良かった。彼のことだから名前まで綺麗だっただろう。
灯りをつけて荷物をまとめた。
忘れ物がないだろうかと部屋をチェックしてしまう。何度も、何度も。まだ、もう少しだけ、ここにいたいのかもしれない。
しばらくの間そうして立ち尽くしていた。
ふと、部屋の隅のキャンバスの山が目につく。その中に小さなキャンバスを一枚見つける。何気なく手にとってみた。黒と茶と白の三色が鳥のかたちをつくっていた。
「メイヴィス……」
私の顔の大きさほどもない小さな窓の中で、淡い色彩で描かれた鳥はいきいきと歌っていた。
不意に涙が零れそうになる。
かなしくて、かなしくて。
けれど涙はもう出てこない。
枯れ果てたように、泣き方を忘れたように。
思い切り声を上げて泣いたら気持ち良いだろうと予感はあるのに。
今泣いたら、そのまま何もかもが崩れてしまいそうだったから。
唇を噛んでやり過ごす。
かなしさも、苦しさも、すべて。
感情を溢れないように何度も呑み込む。つられて呼吸も密やかになっていく。まるで息をひそめればメイヴィスのさえずりが聴こえると信じているように。
場違いな のどかな想像に、少しだけ笑えた。
* * *
ランプの火が消えるくらい長いこと考えに考えて、私はこの絵を持ち出すことに決めた。盗みを働くのだという明確な意識はなかった。ただ、重苦しい罪悪感が澱のように心の内に溜まっていく。
それを見て微笑う私がいた。初めて感じた身を焦がすほどの罪悪。これがあれば一生、何があっても彼を忘れることはないだろうから。たとえこの身から彼の感触が消えても。たとえ彼の顔を忘れてしまっても。
こんなにも鮮やかな記憶を残した彼を忘れるはずなどない。わかっていても、欲しかったのだ。私が彼と出会ったことが、私が彼と過ごしたときが、私が彼と交わした言葉が、たしかにあったのだと証明してくれるものが。何も残らなかったわけじゃないと教えてくれるものが。
ネックレスを外し、サイドテーブルへ置く。
まだアコライトになったばかりの頃に買ってからずっとつけていたものだった。金の鎖に真紅の石が美しい。冒険者になってからの私と共にあったもの。
宝石を支える台座へ指先を滑らせる。微かに感じたぬくもりは私のものなのか、ランプの火の名残なのか。わからないまま何度も触れた。
窓の外で小鳥の鳴く声がした。
触発されて顔を上げる。
灯りが消え、暗いばかりだった空が白んできている。そろそろ彼も戻ってくる頃だろう。顔を見たい、声を聞きたい。けれどそれはもう、してはいけない。
彼を悩ませるために傍にいたいんじゃない。
かなしくなるために傍にいたいんじゃない。
だから、もう。
「さようなら」
聞く者のいない部屋で、別れを告げた。
扉を閉めるとき窓の外で一度だけ、小鳥のさえずりを聞いた気がした。
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