メイヴィス(5)
数年が経った。
永遠に疼きつづけるように思えた痛みも今は薄い。
なりをひそめたかに思えた痛みが顔を覗かせるときも、以前のように身を切り血を流すような鋭さはない。鈍く、どこか甘やかなものに変わっていた。
かなしくもある。うれしくもある。寂しくもある。
* * *
夕暮れどき。狩りや仕事が終わって家路へつく人々、夕礼へ向う人々でプロンテラは賑わっている。
イスカと私も夕礼へ向うために中央通りを歩いていた。
街灯のひとつひとつに騎士たちが灯りを入れていく姿が見える。夏の夜の匂いをはらんだ風が吹いた。
いつもイスカがつれているファルコンは、今は一緒ではない。大聖堂へ入るというのでハンターギルドへ預けてきたのだ。
普段は一時的にでもファルコンを戻すのは嫌だからと、時節の礼拝にも顔を出さないのに。
それが気がかりで、足を止める。イスカも遅れて足を止める。
「良かったんですか? メイヴィスを放してまで、わざわざ」
「そりゃ、勿論。それだけの価値があるし」
自信たっぷりにおどけて頷かれる。こうしていると仕草や表情がまだまだ悪戯小僧のようで、少しおかしい。愛しい。
誘い合うこともなしに再び歩き始める。
中央通りを真っ直ぐに北上すると広場が現れる。まばらになった露店を眺めながら小さな声で会話する。肩や腕が時おり触れ合うのが心地良い。広場の真中に配された噴水が目に入った。
「イヅクミ」
囁くようにしてイスカが私を呼ぶ。
振り仰ぐと、不器用な手つきで手を握られる。緩やかに引っ張られた。初めて、足を止めていたことに気づく。
噴水の周囲に彼の姿がないかと探してしまっていた。
彼に未練があるわけではない。何を話したいわけでもない。
ただ会いたかった。
会って私を見て欲しかった。
あの頃とは違う私を、歩き出した私を見て欲しかった。
迷わないように支えるように引いてくれる手がうれしい。その手を頼りに歩きながら視線は周囲へ向ける。
幼い子どもの泣き声が聞こえた。その辺りだけ人が寄り付かずにいる。イスカを見上げると笑みと共に頷いてくれた。
僅かなさみしさを感じながら手を離す。
声の聞こえる方向へ、人に流されながらも進む。手を離してしまっても寄り添うようにイスカが傍にいてくれるのを感じる。申し訳なくもある。罪悪感もある。でも、うれしい。安心する。
小さな男の子が人通りの只中にぽつんと座り込んでいる。顔を埃と涙とで汚しているのが見えた。転んだのだろう、服にも汚れがついていた。これ以上は泣くまいと必死で唇を噛んでいる。
「どうしたの、大丈夫?」
声をかけようとした寸前に、労わるような男の声が聞こえた。
小高く結った茶色の髪に、涼やかな顔立ち。やわらかで穏やかな、聞いてるだけで心が安らいでいく声。座り込む少年の肩へそっと手をかけている。よく見ればバードの衣装に、緑の瞳をしていた。
彼だった。
記憶の中にあるのと寸分違わぬ彼がいた。傍には紫の髪の、あのプリーストがいた。
「おかーさ、っいなくな、っちゃっ……」
「迷子かあ」
「うっ、ふえ」
「大丈夫だよ。お兄ちゃんたちが一緒に探すから」
「……俺も入ってんのかよ」
「えー、勿論。当たり前。リエちゃんのい・け・ず!」
泣き声がぴたりと止まった。
涙を湛えたままの子どもが目を丸くして彼を見つめている。
それは、そうだろう。彼のような綺麗な顔をした人が、唐突に身をくねらせながら可愛い子ぶった口調を作って、甘えたように言うのだから。
私も言葉を失って立ち尽くす。
彼がこんな風におどけたところを見たことがなかったから。
紫の髪をしたプリーストが私の方を見た。僅かに胸が騒ぐ。数年前に酒場で感じたあの痛みが、疼きが、まだ少しだけ私の中には残っていたらしい。揺らぎを感じたかのようにイスカの手が私の背を一度だけ撫でて、離れる。それだけで不思議と気持ちが落ち着くから、不思議だ。
「気色悪いボケかますな馬鹿。ギャラリーがどん引きしてるぞ」
「見たい奴には見せておけば良いのさ」
「いやそうじゃなくて……。つかオマエが言うといやらしく聞こえるんだよ!」
「ほらほら大きな声出さないの。皆がこっち見ちゃうでしょ?」
「だーかーらー!」
「あはは。おにいちゃんたち、おもしろーい」
「ほら、子どもにまで笑われてるだろ」
むっとしたような声なのに照れたような、どこか愛しそうな声だった。
お互いにお互いを信頼しあっているのだろう。私との間にはなかった絆がそこにはあった。羨ましくないといえば嘘になる。けれど、それを築こうともしなかったのは私の方だ。
二人のやりとりが見ていて心地良い。
いつもどこか遠くを見ているようだった彼。その彼に見つめられていることにも気づかずに俯いていたプリースト。その二人が互いを見て、しあわせそうにしている。それが何故だか、とてもうれしかった。
「わあ、たかーい!」
「いてて。こら、髪掴まないで」
肩車された子どもが、彼の髪を掴んではしゃいでいる。おどけて痛がってみせる彼がおかしくて、つい笑みを漏らしてしまう。
その声を聞きつけたのか、彼がふとこちらを見た。
翡翠の瞳。
相変わらず美しい。引き込まれるようにして見とれてしまう。
「あ」
少し考えるような間のあとで彼が微笑む。
気まずさを感じさせない、何事もなかったかのような笑みを向けてくれたことが、うれしい。私の我侭で彼の今に影を落とすようなことは嫌だった。それは自意識過剰な杞憂だったのかもしれないけれど。
「久しぶりだね」
「お久しぶりです。その……元気そうで、良かった」
「君の方こそ――っと」
止まった言葉に彼を見る。
子どもが彼の後ろ頭に手をついて伸び上がっていた。探し人を見つけたのだろう。少し離れた場所へ向けて手を伸ばしながら、子どもがうれしそうに母を呼ぶ。茶の紙袋を抱えた女性が気づいて慌ててこちらへと向う。
地面に降りた子どもが母親に抱きつく。安心しきった様子で堪えていた涙を零すのが、何故だか他人事には思えない。気恥ずかしさに視線を彷徨わせる。イスカと目が合う。からかうような笑みに睨むふりで応える。
「本当に、何とお礼を言って良いか……。ほら、あんたも。ちゃんとお礼言ったの?」
母親に背を押されて子どもが口ごもる。何となく、照れくさくなるのだろう。俯いたまま小さな声で「ありがと」と呟いたのが、かろうじて私にも聞こえた。
「どういたしまして。これからは、はぐれるんじゃないよ」
彼が子どもに何かを手渡す。赤と白の縞模様をした、小さな包みだった。たぶん飴玉だろう。彼がそういったものを持ち歩いているのだと初めて知る。私はこんな些細なことも、知らなかった。
親子が人波の合間に消えていくのを見送った。
彼が私を見る。
「もう一度会えたら君に渡したいものがあったんだ」
「渡したい、もの……?」
「これ」
懐から取り出されたものを見て息を呑む。あの日、彼の部屋に置いていったペンダントだった。中央に埋まった石は夕日の中でもなお赤い。
受け取ると僅かにあたたかかった。
「ありがとう、ございます。あの……、」
「うん?」
「絵を、一枚持ち出してしまって」
「ああ……、あれか。良いよ。あげる」
「あんなに美しい絵なのに」
「どうせ仕舞いっぱなしになってただろうし。気に入った人に持っていてもらえる方が良いからね」
すれ違う感覚。彼と私の違いが、今は好ましいものに思える。
もう一度頭を下げる。
「あの」
頭を上げるときの勢いで口を開く。今更だと囁く声が心の中でした。それでも、と自分を励まして続きを口にする。
「貴方の名前を、教えてもらえませんか」
「……良いよ」
少し驚いたように瞬いてから笑みを浮かべ、彼が頷く。やわらかな笑みと共に。今更何をと言われたらどうしようかと、心のどこかで案じていた私を恥じた。
「メルヒオル」
とん、と親指で胸を示しながら彼が言う。囁くような声なのに雑踏に消えることは決してない。彼に相応しい存在感のある名だった。
綺麗な名だと、心の内で何度か反芻した。
「君は?」
彼から返される当たり前の問いに鼓動が速くなる。意識的にゆっくりと息を吐き出して気を落ち着けた。大丈夫。
「イヅクミ、と」
「良い名前だね。改めてよろしく……かな」
「出会って何年も経つのに、今になって名乗りあうというのも変な感じですね」
顔を見合わせて、小さく笑い合う。こうして真正面から彼を見ることはあまりなかったかもしれない。彼が私をきちんと見ることも、あまりなかったような。
遠くから時を告げる鐘の音が聞こえた。
「あ……、もうこんな時間なのですね。そろそろ行かなくては」
「夕礼に?」
「ええ。あの……、もし良ければ、来ていただけませんか?」
不思議そうに彼が首を傾げる。少し考えるようにしていたが、また淡く笑んで頷いてくれた。
「良いよ」
「お連れの方は……構わないのですか?」
「俺は別に、構わないけど」
お前は何なのか、誰なのか、と問うような視線が、私とメルヒオルとの間を行き来する。それを宥めるようにメルヒオルが頭を撫でた。目を細めている様が猫のようで、見ていて微笑ましい。
「準備があるので、私たちは先に向いますね」
「了解。また後でね」
軽く手を挙げて見送ってくれる。ずっと昔からこんな風に気軽な間柄だったかのように。そう接してくれる彼と、そう接してもらえる自分とが、うれしかった。
メルヒオルたちの談笑を背に聞きながら、イスカと二人、連れ立って歩く。
緩く繋いだ手のひらのあたたかさを感じられることが、うれしかった。
* * *
「主よ、わたしたちを憐れみ赦してください。どうか今夜もわたしたちを守り、すべての危難を防ぎ、安らかな眠りを与え、明日の務めを果たす力を養ってください」
唱和する声が夕暮れの大聖堂に響く。
こうして礼拝に参加するのは久しぶりのことだった。
司式者として参加するのは、初めてだったかもしれない。プリーストになると同時に、うたうのを止めてしまったから。
うたえないまま礼拝に参加するのは嫌だった。
「ご起立ください」
ページ数と賛美歌の名とを読み上げながら、胸の奥が僅かに痛むのを感じる。
この期に及んでまだ、うたえるだろうかと怯える私がいた。うたい始めた瞬間に感じるかもしれない想いに怯えていた。彼と過ごしたあの頃に感じていた想いが蘇るのではと怯えていた。
後ろの方でメルヒオルと紫の髪の彼(そういえば結局名前を聞いていなかった)とが寄り添うようにして座るのを見つけたときには、なお更その思いが強まった。二対の瞳が私を見つめている。
パイプオルガンがメロディを奏でる。
信者席の中ほどにイスカを見つけた。さざなみだっていた心が不思議なほどに鎮まっていく。
大丈夫。
そう思えた瞬間、イスカの瞳がやさしく微笑んだ気がした。
大丈夫。
背を押されるようにして口を開く。
「しずけき夕べの しらべによせて
歌わせたまえ、父なる神よ」
最初の一音は微かに掠れた。その細やかな震えのひとつひとつが、いとしく思えた。恐怖も不安も鈍痛もない。そんなものを感じる間もない。一音一語、口にするごとに込み上げるいとしさに泣きそうになる。
ようやく再会できた。
うれしい。うれしくて、たまらない。
彼の歌声が聞こえる。どれだけ高音でもどれだけ低音でも、ぶれることも苦しげな様子もなかった。どこまでも澄んだ、あおい月のような声。
彼のような美しい声ではないかもしれない。彼のように、誰をも感動させられる歌は、うたえないかもしれない。それでも。
うれしくて、たまらない。
聖堂にいる人みなの声の中、たしかに響く私のうたを聴いていた。
心地良い。
夏とはいえ、もう夕暮れ。聖堂の中はランプの灯に照らされていて薄暗い。けれど私には、どこまでも明るくあたたかな光に包まれているように感じた。
胸の内が騒ぐのは怯えや醜い嫉妬からではなく、ただただ、うたえることへの果てしない高揚感と、よろこびからだった。
「鳥はねぐらに、人は家路に、
帰る夕べこそ いとしずかなれ」
澄んだパイプオルガンの音と、人々の声と、私の声とが混じり合う。美しい言葉を、美しい音で神に捧げることの出来るしあわせに浸った。随分と長いこと忘れていた感覚だった。
楽しくてたまらない。
このままずっと、うたい続けていたい。
そう思えるようになったことが、うれしくてたまらない。
名残惜しみながら最後の一音を歌いきる。
パイプオルガンの余韻が響く大聖堂の中、誰へともなく胸中で呟く。
――ただいま。
おかえり、と、どこかで聞こえた気がした。
それは、あの夜明けに聞いた小鳥のさえずりに、似ていた。
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