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メイヴィス(3)
口論とすら呼べないささやかすぎる衝突の後にも、彼と私は何事もなかったかのように暮らしていた。少なくとも表面上は。
けれど、本当は軋みをあげていた。
合わないピースを無理に押し込んだみたいに。
違うピースなのに、そぐわない絵柄なのに。
たまたま偶然、形や色が似ていたばっかりに。
キュウキュウと悲鳴をあげている。
切なく、安っぽい、かなしい泣き声を。
進むに進めず、退くに退けない。
せめてそれを嗤ってくれる人がいてくれれば良かった。そうすればなけなしの自尊心をかき集めて、彼の前から姿を消すことも出来ただろう。
……そんな言い訳をして私は毎日を彼の元ですごした。
「狩りの誘いが来たので、少し行って来ます」
「そう。気をつけてね」
「貴方は行かないのですか?」
「ああ、うん。狩りへ行かなくても当分は生活できるからね」
一緒に来ないかと誘ってみたかった。
それをさり気なく拒む言葉に私は先を続けられずに口を噤んだ。
いっそ、思い切って誘ってみれば良かったのかもしれない。しなかったのは私が弱いからだ。明確な拒絶をされるくらいなら曖昧なまま、自分から退いた方が良い。いつからだろう。こうして予防線を用意するようになってしまったのは。
「行ってらっしゃい」
そう言って彼は見送ってくれた。別れの言葉ではなかった。狩りが終わった後も戻ってきて構わない、ということだろうか。そんな小さなことが嬉しかった。そんな小さなことで喜ぶ私が、かなしかった。
* * *
清算広場へ行くと馴染みの顔が私を待っていた。
やわらかな布を思わせるやさしい紅色の髪と、チョコレート色の瞳。ハンターの装束に身を包み、頭上近くにファルコンを待機させている。イスカだ。
私に気づくと軽く手をあげて微笑みかけてくれる。
「久しぶり」
「お久しぶりです」
会釈をして微笑み返す。気づかない内に笑うことを忘れていた。記憶を辿りながらのぎこちない笑み。イスカの目にはどう映っていただろう。
「今日はどこへ行きますか?」
「んー。ニブル、そろそろペアでチャレンジしてみたいかな」
「ニブル……ですか」
「行き飽きた?」
「そういうわけでは……。ただ、その」
「ああ」
口ごもる先に続く言葉を察してくれたのか、イスカが頷く。
「グロリアがなくても俺の鷹はよく飛ぶよ」
明るい、太陽みたいな笑顔だった。ファルコンを腕へ留まらせてその喉元を指先でくすぐっている。自慢するようなその口調が心地良い。
歌を捨てた。
だから当然のようにグロリアも使えない。使おうと思ったことすらなかった。
歌おうと思うと、全身の血が凍りついたように動けなくなる。声を忘れたかのように音ひとつ漏らせなくなる。それでいて胸のあたりだけが傷みに似た熱をもって疼くのだ。
その感覚を人に話したことはない。けれどイスカは何も言わないのにそれをわかってくれているようだった。何故かはわからない。嫌ではなかった。どちらかといえば、うれしくもあった。
ウンバラ行きのワープポータルを出す。
イスカが光の柱に姿を消す直前、ありがとうと呟いた。照れたようなぶっきらぼうな響きは不思議と好ましいものだった。
「バンジーで行きますか?」
「せっかくだから、幹の方、回って行こう」
特に急ぎというわけでもない。それに、幹の内部を見たことはなかった。断る理由もなく私は頷きを返す。イスカの後ろについて慣れない道を進んでいく。
先を歩くイスカの背を追って懸命に歩く。走っているといった方が近いかもしれない。初めて遭遇するモンスターたちに見とれる間もない。何か、焦っているのだろうか。尋ねようにも声をかける暇がない。
「もう少し、だから」
途中でイスカが振り向いて言う。私は無言のまま頷く。お互い体力のないせいで、少し息が上がっていた。こんな風に走るのはどれくらいぶりだっただろう。追われるでもなくただ走ったのは……。
道の向こうに、緑の門が見えてきた。
門かと思われたのは大樹の集まりだった。二本の巨大な樹が道の両側に生え、枝葉が幾重にも交差してアーチを描いている。
濃い緑の更に先には階段が見える。イスカが一段降りてから、私を振り返る。僅かな身長差が逆転した。
「足元、見にくいから気をつけて」
「あ……、はい」
「おいで」
差し出された利き手が私に向けて伸ばされる。
イスカにこんな風に気遣われるのは初めてで、恥ずかしいようなむずがゆいような、奇妙な感覚が胸の奥に渦巻く。決して不快なわけではない。けれど。
迷いながらも指先だけ軽く、その手に触れさせる。
儀礼的な触れ方にイスカも儀礼的に、支えるように僅かにだけ力を返す。エスコートされているようで面映い。
短い階段を降りきると数歩分の通路があり、また階段がある。今度はそれを昇る。枝葉が重なりあっていて光も届かない。途端に視界が開ける。
むせかえるような緑の香の中に強い水の香が混じる。次いで、水の音が聞こえた。岸に打ち寄せる微かな音は無邪気なささめき合いにも似ていて心地良かった。
「ここは……」
「魔物もいないし、静かで綺麗なところだろ」
「そうですね。空気も澄んでいて」
「こちらへ」
階段を過ぎて、視界を遮るものがなくなってもイスカは手を離さなかった。こちらからさり気なく手を引こうとすると、さり気なく緩く、握られる。その意図まではわからない。無理に振り切ることも躊躇われてそのまま歩いた。
水の音が強くなる。
俯いていた視線を上げると遠くに水しぶきが見えた。滝、だろうか。見上げても果てのないそらの上から、とうとうと落ちてくる。天の海から流れ落ちたものだろうか。それとも木々の流す涙なのだろうか。
イスカに手を引かれるまま道の行き当たりまで進む。
「ここで少し休んでいこう」
そっと自然に手が解かれる。触れていた熱のなくなった指先がつめたく感じた。隠すように指先を握りこむ。
イスカは水辺に座って靴を脱ぐ。たとえアクティブでなくても魔物のいる場所では決してしない行為。ここが本当に、魔物のまったくいない場所だと察せられる。もちろんそれは辺りに漂う清廉な空気からもはっきりとわかることだったが。
イスカが澄んだ水に足を浸す。腕にはファルコンを留まらせている。
「その鷹、名前は何と言いましたっけ」
「ん? ……メイヴィス。こいつ、メスなんだ」
「メイ、ヴィス……」
ファルコンをまじまじと見つめる。見えない瞬きをする黒い瞳が私を捉える。瞳の大きさは狩りの間と変わらないはずなのに、鋭い印象を感じない。ファルコンもくつろいでいるのだろうか。
「そう、メイヴィス。うたつぐみのこと。鷹なのに、ってギャップが隠し味風味」
肩越しに振り向いてイスカが笑う。控えめながらも自信を感じさせる表情は少しだけ、彼に似ていた。
手招く指先に誘われてイスカの隣へ腰かけたのは、そのせいもあっただろう。僅かに触れ合う肩から伝わる熱は彼のものよりも少し高かった。
座って見上げる滝は壮観だった。
だいぶ距離はあるだろうに細かな水の粒子が頬に髪に跳ねる。冷たいけれど芯のところは、あたたかい。安心して心地良いと思える冷たさ。それは彼にも似ていた。
イスカが水の流れを指す。
「見てて。そろそろ、時間だから」
「何がですか?」
「良いから」
それきりイスカは黙ってしまう。私もそれに倣う。
押し殺したようなイスカの呼気が聞こえる。それにつられて自然と私の呼吸も、イスカのペースに合わさっていく。鼓動の音までも重なり合いそうだった。それが怖くてわざと、息を乱した。
光がさした。
日の高さが変わったからだろうか。
滝のあげる飛沫に、虹がかかって見える。
空にかかるのとは違う感覚。手を伸ばせば届きそうな距離。幼い頃に憧れた虹の先端へ本当に辿りつけそうな、そんな気さえしてくる。
息をするのも忘れて見つめていた。
「綺麗だろ」
イスカの声が間近でする。声が出せずにただ頷いた。
草笛の音が聞こえてくる。イスカが吹いているのだろう。そういえばイスカは草笛が上手かった。道端に生えるどんな草も楽器に変えてしまう。
澄んだ音が気まぐれに集い、散り、やがて曲になる。
聞き覚えがある。
彼が噴水広場で歌っていた曲。イスカも知っているのなら、たぶん彼のオリジナルではなかったのだろう。それが少しだけ寂しい。
やがて、虹が消えた。
溜息をひとつついて私はようやく視線を動かせるようになる。イスカの方を見ると笑みを湛えた瞳が私を向く。最後の一音が終わる。イスカは手にしていた草葉を水面へ捨てる。緩やかに円を描きながら葉はどこかへ流れていった。
「その曲、何と言うのですか?」
「メイヴィス。古い民謡かな。歌詞はあっても歌える人、少ないけど」
「どうして……」
「古い言葉で発音が難しいのがひとつ。あとは歌う人の技量の問題」
綺麗な、誰からも愛されるだろう歌。
なのに、誰からも触れられることがない。
まるで彼のような、うた。
「歌詞の意味を知っていますか?」
「え? ああ……、うん。一応ね」
教えて欲しい。そう頼むとイスカは、聞いたことがあるのかと、少し驚いた様子で私を見た。それからイスカは物語るように、歌に込められた想いを教えてくれた。
愛し合っている男女がいた。離れている時間の方が少ないくらい仲睦まじかった二人。けれど女は病にかかり、衰えていく。やがて女は姿を消した。治らないことを知っていたのか、それとも……。男は女を捜した。生きているのなら一目会いたい。そうでなくても、女がどうなったのかを知りたかった。そして男は永遠の旅に出る。メイヴィスと呼ばれた女を捜して。
「かなしい、うたですね」
「そうだね」
綺麗すぎて、かなしい。
イスカの落とした呟きがぴたりと私の心にはまる。
「そろそろ行こうか」
「ええ。日が暮れない内に」
イスカが靴をはいてから立ち上がる。私へ向けてまた、手を差し伸べてくれた。何故だろう。思いながらもその手に軽く触れて立ち上がる。
滝の音を背に聞きながら歩き出した。
離すに離せない手を繋いだまま。
* * *
日が暮れた頃、私は彼の部屋へ戻ってきた。
見慣れた部屋に、見慣れた彼の姿はなかった。窓は開け放たれたまま、レースのカーテンだけが一人遊びをしている。
予想に反して狩りは危なげなく終わった。それほど魔物が湧かなかったこともあるが、やはりイスカの罠の使い方が巧かったからだろう。
装備を外して荷物と一緒に置く。窓辺へ膝をつき、狩りから無事に帰って来られたことへの感謝の祈りを捧げた。そこまで済んでようやく、一息つける。
部屋の隅にイーゼルが出されていた。
描いている途中に席を外したのだろうか。キャンバスがそのままにされている。まだ絵の具の匂いも新しい。
迷う。
見ても良いのだろうか。
置いたままにしているのだから見られて困るものではないのだろう。
けれど。
描きかけの絵を覗くことはそのまま彼の心を覗くことのようで。
踏み込んではいけない場所へ触れてしまいそうで。
見ることで何かが変わってしまいそうで。
迷った挙句に、イーゼルの正面へ回り込む。
「っ」
息が止まった。
輪郭のない淡い水彩の絵。ひとつひとつの色が緩やかに流し込まれ、ぶつかり合い、混じり合い形を保っている。
酒場、だろうか。確かに見覚えのある場所なのに、見たことのない、この世とさえも思えない場所のような印象を受ける。不思議と不安はなかった。今にも変っていきそうなのに、この世界は決して揺らぐことがないのだろう。これが彼の瞳を通した世界なのか。圧倒される。
彼と共に毎日通った酒場。見慣れたカウンタの席に座る、紫の髪のプリースト。色彩から周囲の喧騒までも聞こえてきそうなのに。キャンバスに描かれた人物は紫の髪の彼だけだった。
寂しさと孤独。
このプリーストのものなのか、それを見ている彼のものなのか。
二人の視線が混じりあい、ぶつかり合う。絵の色彩のままに。
「どうして……」
呟きが落ちる。
人物は描かないと、言っていたのに。
立てかけてあるいくつかのキャンバスが目に入った。ふらふらと近寄って、見てみる。見てはいけないと思うのに止められない。
そこに描かれていたのも、例のプリーストだった。
酒場の中で酒を飲んでいる姿もあれば、想像したものだろうか陽だまりでまどろむ姿や、窓から遠くを眺める姿もあった。そのどれもがやさしい色をしていた。
「うそつき」
涙が落ちる。
彼を責めるつもりなどない。名も知らぬプリーストを恨むつもりなどない。ただ、悲しかった。最初から彼はあのプリーストのことしか見ていなかったのだと、はっきりと知ってしまったから。
「ただいま……と、おかえり」
背後で、扉の閉まる音がした。
ぼうっとしたまま振り返る。
「どうしたの?」
尋ねてくれる彼の声が、遠い。
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