メイヴィス(2)


 触れ合う唇のつめたさが、わけもなくかなしかった。
 互いの熱で僅かずつぬくもり始めていっても、最初に感じたそのつめたさこそが彼の本質ではないか。そう思うと胸の奥に痺れたような痛みが走る。
 唇の合間を彼の舌先がくすぐる。薄く開いてみせても舌先はそれ以上先へは進まなかった。唇に感じていた低い熱が引いていく。

「やめよう」

 歌の一節のように彼は静かに呟きを落とす。その声に抗って誘えるはずもなく――たとえその声がなくとも誘いの言葉など知るはずもなく、私は顔を伏せるようにして頷く。
 彼の指が私を離れるつめたさがそのまま、さみしさに変わった。
 気づかないふりをして私はベッドにもぐりこむ。法衣に皺が寄るだろう。それでも構わなかった。月のない夜よりもなお黒いこの黒に私のすべてを隠していて欲しかった。それが幼く滑稽な強がりだと知っていても。
 衣擦れの音が響く。
 やがて上半身を裸にした彼がベッドへ入る。
 長くしなやかな腕が私を抱き寄せる。かなしいくらいに性的な気配のしない動きだった。彼の胸へ頬を寄せても、心音の乱れは聞こえない。
 言い訳もなく謝罪もなく彼は瞳を閉じる。
 就寝の挨拶もないまま寝息が聞こえだす。
 彼はどうして私を連れて帰ったりしたのだろう。帰り道についてきた捨て猫を拾い上げるように何気なく、意味もなく、手を握ったのだろうか。
 言い訳も謝罪も挨拶も欲しかったわけではない。必要だったわけではない。ない方が良かった。それなのに何故私はこんなにも奇妙なまでにかなしみを覚えているのだろう。
 目を閉じても眠れるはずがない。
 空が白み部屋が明るくなるまでずっと、彼の鼓動と、彼の寝息だけを聞いていた。その音に決して重なることのない私の鼓動と、私の吐息がかなしかった。

 * * *

 絵の具の匂いに目が覚めた。
 眠ってしまったらしい。身を起こして室内を見回す。もう既に日は陰り始めているようだった。部屋は少し暗い。ベッドから離れた位置にキャンバスを置いて、彼が絵を描いている。
 私が起きたことにも気づいていないのか、黙々と筆を動かしている。
 白い憂い顔が、遠い。
 声をかけることも近づくことも出来ずに私はベッドに座ったまま窓の外を眺める。彼の瞳に見えるものを見てみたい。そう思うのに何も出来ない。
 ギルドにアルケミストでもいるのだろうか。敷地いっぱいを取り囲む塀に謎の植物の蔓が絡み付いている。そうした奇妙なものの中に普通の薔薇や、その他の花々が混じって咲いている。
 窓から手を出せば触れられそうなほど近くまで枝が伸びている。風が吹く度に木漏れ日がちらつく。眩しさにかむずがゆさにか私は目を閉じる。遠くで子どもたちの笑う声が聞こえた。
 隣室も窓を開けているのだろう。幼い頃に好きだった歌のメロディが、微かな軋みと共に流れてくる。話し声も。
 壁の向こうがどんな部屋か想像をめぐらせる。たとえば僅かに汚れた窓際に置かれた、天使を模った小さなオルゴール。ねじを巻かれた分だけずっと歌い続ける。聴く者がいても、いなくても。ずっと。

「……おはよう」

 いつのまにか彼がベッドサイドに立っていた。
 動揺を隠して顔を上げる。何もなかったかのように笑う顔へ、私もそれを真似て微笑み返す。唇が触れ合う以上のことなどなかったのだから、たしかに何もなかったには違いない。

「おはようございます」
「よく眠っていたみたいだったから、起こさなかったけど」
「絵も描くんですね」

 目でキャンバスを示す。その動きを追うこともなく彼は私を見たまま頷く。趣味だよ、売れるわけじゃない。おどけたように言う声の裏にたしかな自信を感じる。心地良かった。

「どんな絵を?」
「風景画。人は、描かない」

 相変わらず何でもないことのように言うのに、何故か先回りして釘を刺す言葉のように聞こえる。私自身も気づかずにいた想いを見透かされたかのようだ。頬が熱くなる。

「何故ですか?」
「君はどうして歌うのをやめたの?」
「それ、は」

 言葉に詰まる。真っ直ぐな問いに、視線に。
 きっと彼は歌うのが怖くなったことなどないのだろう。
 自分の存在を認めさせるために、他人からの評価を得るために、他人と張り合うために、……。そんなドロドロとした汚い感情に足をとられて立ち尽くす者のことなど、知りもしないのだろう。
 いつのまにか歌いたいから歌うのではなくなっていた自分に、歌うよろこびを忘れていた自分に、他人ばかりを気にしていた自分に、傷つくことも怯えることも哀しむことも、ないのだろう。
 周囲の期待に、信頼に、希望に応えようとして自分の歌を見失う苦しみも。
 そのせいで応えられなくなっていく恐れも。
 歌うたびに歌えなくなっていく。どこで何を間違えたのかも気づけないまま、間違えたまま進まなければならない恐怖も。歌をなくして色あせた世界も、心も。
 彼は知らないに違いない。

「貴方には、わからないことです」
「わかることなら聞く必要はないからね」

 シーツを握り締める。一度口を開いたら止まらなくなりそうだった。彼を傷つけるための言葉ならどんな酷いことでも言えそうだった。そんな私が恐ろしくてたまらなかった。
 彼はそれ以上何も尋ねなかった。
 少しの間をおいて、溜息をついて、それから笑った。

「夕飯には少し早いけど、ご飯、食べに行こう」
「…………はい」
「来て。洗面所はこっち」

 やわらかな声で手招く彼について顔を洗い、支度を整える。
 昨日と同じ道筋を逆に歩いて、昨日と同じ酒場につく。昨日と同じように入って、同じ席につく。当たり前のことなのに違和感があった。
 昨日と同じ男がやってきて食器を並べていく。何種類かのパンに、バター、ワイン。楕円形をした白い皿には数種類のチーズが数切れずつ盛り付けてあって綺麗だった。
 私の前にだけ小さな器に入ったじゃがいものグラタンが置かれる。彼はたぶん、それほど空腹ではないのだろう。ありがたく厚意を受け取っておく。
 昨日と同じに食事は進み、昨日と同じように彼は、他の客にせがまれて演奏を披露する。店中の者がそれに聞きほれる。選曲だけが昨日と違った。
 彼は席に戻ってきて、残っていたワインを飲む。視線がさり気なくカウンタへ向くのを私は見ていた。
 カウンタには昨日と同じように、紫の髪をしたプリーストが一人で座っていた。視線にも、先ほどまでの演奏にすら気づいた様子はなかった。
 その姿を見つめている彼を、私は見つめていた。見つめるしか出来なかった。それ以外に何が出来たというのだろう。
 まるで恋しい人を見つめるようなその瞳を前にして。

「そろそろ帰ろうか」
「はい」

 その短い言葉を一度交わしたきりの、夕食。
 何も感じないふりをして席を立った。

 * * *

 彼の部屋へ転がり込んでから一週間がすぎた。
 その一週間で彼について知りえたことは少ない。
 たとえば、彼の料理は美味しいが、量や食べ合わせといったものにまったく気を遣わないため、あまり頻繁にご馳走になりたいものではなくなっていたこと。
 たとえば、蜂蜜で味付けをした卵料理が好きだということ。
 たとえば、
 酒場に行くと、あの紫の髪をしたプリーストを常に目で追っていること。
 ……その程度だ。
 彼の口から聞いたことがある彼の情報というものは極端に少なかった。けれど私も同じだったように思う。互いに、己のことを喋らず、相手のことを尋ねず、ただ側にいた。
 それだけのことで満足していた私と、
 それ以上のことを欲する私とがいた。
 想いをどう言葉にすれば良いのか、想いをどう伝えれば良いのか、私は知らなかった。たぶん、うたを諦めたとき、私の言葉をも諦めてしまっていたのだろう。
 昼の間、彼は絵を描いていた。私はそれを眺めていた。
 夜になると食事をとりに酒場へ行き、彼は演奏する。名も知らないあのプリーストが来ると、そちらばかりを彼は見つめ、私はそれを見つめる。

 毎日がそのくりかえしだった。

 そう。出ていくきっかけも掴めないままずるずると居座ってしまった。明日には出ていこうと思いながら眠りにつくのに、朝になって彼に普段どおり「おはよう」と声をかけられると、別れを告げられなくなる。
 本当は出て行きたくなどなかったのだから、当たり前だ。
 部屋にいる間、彼は歌わなかった。
 代わりに、各地で聞き集めたのだろう伝承や民話を話してくれた。互いが互いに己のことを話さなくても済むようにと気遣ってくれていたのかも、しれない。
 絵筆を動かしながら彼はゆっくりと語った。
 私は彼の指の動きと、唇の動きを視線で追う。何ということもない些細な動作のひとつひとつが色めいていて美しかったのだ。
 彼の指は慈しむようにやさしく筆を揺らし、
 彼の唇は愛撫するようにそっと言葉を紡ぐ。
 彼の向かい合うキャンバスになりたかった。
 彼の吟じた詩のひとかけらになりたかった。
 次第に強くなっていく想いが恐ろしかった。
 私は、
 彼が好きなのか。
 彼が妬ましいのか。
 彼になりたいのか。
 ひとつとしてわからないまま、私はせがむ。

「何か歌って頂けませんか」
「どうしたの、急に」

 彼はキャンバスから目も逸らさずに尋ね返す。
 私では彼の視線を奪うことは出来ないのかと落胆する。たとえ一瞬でも良いから、私だけを見て欲しかった。そんなことは過ぎた願いとわかっていても。

「歌を聴きたいのです。貴方のうたを」
「君も一緒に歌う?」
「それは……」

 反射的な拒絶の言葉を苦労して呑み込んだ。

「私はもう歌えない。だから代わりに、歌ってください」

 己の醜さに気づきたくなくて、見たくなくて、歌うのを止めた。それでも私は歌が好きだった。好きすぎて憎むくらいに。
 一切関わることをやめてしまえば良いとわかっている。そうすれば私の中のくだらない競争心や嫉妬も、抑圧も、なくなるだろう。少なくとも見てみぬふりをすることは出来る。
 それでも私は歌を渇望した。
 それでも私は歌が好きだった。
 だから彼に、うたをせがんだ。

「……駄目だよ。君のうたは、君が歌うんだ」

 けれど、
 やわらかに、残酷に、彼は拒絶する。
 私だって本当はわかっている。歌えなくなったのは自分のせいだと。身勝手な期待に押しつぶされて、見苦しい感情に負けて、一番大切だった歌を手放した愚かな私。それをすべて見透かしたような彼の瞳が怖かった。嫌いだった。好きすぎてどうしようもないくらいの憎悪を抱いた。
 その頃の私は今よりも子どもで、幼稚だった。

「歌えない。……歌えません」
「何故?」
「貴方は、どうして私を連れて帰ったんですか?」

 感情のままに言葉をぶつけてしまった。あれほど堪えようとしたのに、結局。我慢しきれずに。幼い子どもの癇癪のように。
 彼はようやく視線を私へ向けた。

「君がそれを望んでいたから」
「私の望みを叶えるために?」
「そう」
「なら何故、歌ってくれないんです」
「何故って」

 きょとんとした表情で彼は首を傾げる。
 視線が正面から合う。
 グラスの中の氷が音を立てるみたいに密やかに、彼は笑った。

「君はそれを望んでいないから」

 そんなことはない。
 言おうとして開いた唇から、声が出ない。
 見透かされた。恥ずかしい。悔しい。
 けれど、うれしい。
 わかってくれたのだと。
 私のことを、わかってくれていたのだと。

「どうして……。貴方に……貴方に何がわかると言うんです」

 それなのに口にしていたのは彼をなじる言葉だった。彼はそれに応えなかった。冷たい、と彼を責めた。彼が、とびきりのやさしさで私の要求を跳ね除けてくれたことを、ちゃんと感じていたのに。わかっていたのに。
 彼の沈黙が会話を打ち切った。



















2006/05/10
 はちみつたまごー(*´¬`)