メイヴィス
彼に関する記憶は、
彼と同じように曖昧で、とらえどころがなく、やさしい。
たとえば、
ベッドでつまんだチョコレートボンボンのチェリー酒の香り。
空が白んでいくときのあの、水気を含んだやわらかな風。
隣室から聴こえるオルゴールの、微かに軋む懐かしいメロディ。
まどろみの中で聞いた切ないくらいやさしい、彼のうた。
何もかも忘れても、これだけは忘れることができないだろう。
私は彼を愛していた。
* * *
雑踏の中、不意に聞こえてきた歌声に、私は足を止めた。
プロンテラの中心に位置する噴水。その付近ではよく、バードやダンサーたちが歌や曲芸を披露して、人々の注目を集めている。その類には決して関わらないようにしている。足を止めることさえ普段なら決してない。
それなのに今日に限って立ち止まったのは何故だろう。
歌声のもつアンバランスさに惹かれたからだろうか。噴水の音にもかき消されそうな弱々しさを見せながら、決してその歌声を見失うことはない。明るい、少しテンポの速い曲にあわせて歌う声は、それでいてどうしようもないくらい、悲しそうだった。
歌詞は聞き取れない。古い言葉なのだろう。
声に導かれるようにして私は噴水の側へ進み出る。周囲には、私と同じようにして立ち止まる人々がたくさんいた。
人々の中心にいたのは年若いバードだった。
栗色の長い髪を高い場所でむすんで尻尾のようになびかせている。髪のあちらこちらに水滴がはねて、きらきら輝いているのが美しい。緑の瞳を伏せ、高い背を僅かに丸め、噴水の縁に腰かけている。使い込まれた様子の楽器を愛撫するように白い手が動くたび、教会のオルガンも色あせるほど美しい音が響く。桜色の唇が言葉を紡ぐたび、泣きそうに掠れた歌が零れる。
祈るように願うようにメロディは続く。
曲に合わせて語るような、曲が彼の言葉に合わせているような、メロディ。不思議な響きに耳を傾けているうちに、今の言葉に比較的近い部分だけ、浮かび上がるように聞き取れてきた。
メイヴィス……どこに。
愛しい人。
……歌を……光……。
今は……。
中でもとりわけ多くくりかえされたのが「メイヴィス」だった。
前に一度、メイヴィスという名の女性と会ったことがある。だから、たぶんこれも名前なのだろう。いなくなってしまった恋人を探している歌、だろうか。
そんなことを考えながら聞いていた。最初は。
歌が続く内にそんなことはどうでもよくなっていた。言葉の大半は、知っているけれど知らない言葉。歌の意味もよくわからない。
それなのに、込められた感情だけが伝わってくる。
言葉を介していないせいだろうか。音から声から直接響いてくる想いに、呼吸のペースを乱される。思考を乱される。気持ちを、乱される。
自分がなくなっていくような、自分だけが孤立していくような、溶けていくような、固まっていくような、相反する感覚。愛しいのか、切ないのか、それすらもわからなくなっていく。
ただ、ひとつ。
その場に膝をついて泣き崩れそうなほどの強い想いだけを、知っていた。
もうずっと昔に忘れたはずの感情を。
四肢を引き裂いていくような、強い感情を。
自分が誰なのかもわからなくなるほどの……。
「――……大丈夫?」
私の肩に指が触れる。
微かにあついその指の僅かな重みだけが、私を世界に繋ぎとめる。
「さっきからずっと、そこにいるけど。気分でも悪くなった?」
「っ……」
視界に、先ほどのバードが入り込む。月光のようにやわらかでどこか冷たい顔が心配そうにしている。何気ない言葉だというのに、歌と同じくらいに心地良い。
黒い法衣の上には長い指が触れている。先ほどまで楽器を奏でていた指が。どくりと、心臓が跳ねる。初めての感覚に戸惑う。
言葉もなく立ち尽くす私へ彼は笑いかける。
「今日は少し日差しがきついからね。暑い日にぼんやりしていたら駄目だよ」
「あ、」
涼やかな葉ずれのように笑って、彼は立ち去ろうとする。指が離れる。その感触が惜しくて、手放しがたくて、手を伸ばしていた。
彼の、印象よりも太い指を掴んで、私は立ち尽くす。
「その……」
今になって指を離すわけにもいかず、かといって話すべき言葉も見つからない。彼の顔を見るのが恐ろしくて俯く。私を映した彼の瞳を見ることが、怖かった。
呆れているかもしれない、気持ち悪がっているかもしれない、嗤っているかもしれない。それを確認することが、そのときの私には、何故だか妙に恐ろしいことに思えた。
「おや」
けれど彼は、
「可愛らしいプリさんが釣れた」
掴む私の指ごと手を持ち上げて、微笑んだ。
明るい声に導かれて視線を上げる。澄んだ瞳が出迎えてくれる。幼い頃に木陰で昼寝をした大樹の、日に透けた若葉のように綺麗な笑顔だった。
思わず、見とれていた。
我にかえって真っ先に思ったのは、いつのまに演奏が終わっていたのだろう、音が止んでいたのだろうと、そればかりだった。
きっと、彼から絶え間なく聴こえてくる音楽に聞きほれていたからなんだろう。柄にもない青臭い感傷的な感情に素直に首肯できるくらい、私は既に彼に心を奪われていた。
「釣ったなら、持ち帰って世話をしてください」
「ナンパ?」
「貴方が望むなら」
また少し、目を伏せる。自分が何故こんなことをしているのか、言っているのか、わからない。わからないまま欲しいと思った。
「俺は、何も望まないよ」
俯いた私の上から降る声は、先ほどまでの明るいものとは違っていた。憂い入るような、悲しみを堪えるような、深い孤独を噛み締めるような、不可解な響きをもっている声。
私には触れられない場所にいる彼と向かい合う感覚がある。
彼の指先が動く。力もこめずに掴まっていた私の指は緩やかに解かれていく。そのまま立ち去るのだろうか。急激にしおれていく心にまた、戸惑う。
「歌うこと以外は、何も」
呟くように静かに言葉が落とされる。
離れた指がそっと、私の手を握る。何でもないことのようにさり気なく、何気なく。赤い手袋越しに伝わる彼の、少し低めの体温が心地良い。
そろそろと顔を上げる。彼はまた、微笑する。
「行こう。美味しい酒場を教えてあげる」
「え……?」
「俺は、釣った魚はちゃんと世話するタイプだよ」
君が望む限りは。そう言って彼は歩き出す。私の手を捉えたまま。引っ張られるように数歩前へ出てから、私は足を止める。少し遅れて彼もまた。
「貴方はどうして歌うのですか」
無意識の内に問いが零れる。
「歌っていないと息が出来ないから」
背を向けたまま何でもないことのように彼は答える。
一瞬の鋭い沈黙の後で、彼は振り返る。緑の瞳がやわらかく微笑む。
「君は違うの?」
「私は……、もう歌うのを、止めたから」
「そう」
それ以上何も問わずに彼は前を向く。
私の歩調に合わせるようにゆっくりと、彼は歩く。法衣と揃いの生地で作られた手袋越しなのに、直に触れられているかのように胸の奥が痛む。
歌わないと息が出来ないから。
歌うのをもう、止めたから。
ふたつの声が絡み合い、混じり合う。それでいて完全に混ざることはない。やがて解れていくふたつの声は、彼の声から、昔の自分の声に変わる。
歌っている間だけは自由でいられた。歌っている間だけは楽に呼吸が出来た。歌っている間の高揚が大好きだった。歌うことしか考えられない。そんなときが、あった。
私はもう歌わない。
私はもう歌えない。
ただひたすらに自分を忘れて歌うことの出来た頃の私さえ妬ましい。
思うままに歌うことの出来る彼までが、妬ましくてたまらなくなる。
そんな自分が、恐ろしい。
「……ここだよ」
いつのまにか彼は足を止めていた。彼の背にぶつかるようにして私も立ち止まる。今になって気づいたが私よりも大分、背が高い。
見慣れない狭い路地。日が沈んで薄暗い周囲を、建ち並ぶ店の灯りがぼんやりと照らしている。看板もメニューも出ていない店が多いようだった。彼が足を止めたのも、そうした中の一軒だった。
橙色の灯りの中、短い階段が地下へ向けて伸びている。古びゆくままに放置されたようでいてさり気ない手入れをあちらこちらにされているような、気難しい印象の店構えだ。
彼の手が私を離れる。
先に立って彼が階段を下り、扉を開ける。慣れた手つきだった。肩越しに振り向いて私を手招く。彼の向こうには未知の世界があった。
明度の低い照明の中、無数の男たちがグラスを片手に談笑し、料理をつまんでいる。そこかしこから様々な煙草の香りが立ち上り、アルコールと混じり合う。
まだ日が沈んで間もないというのに既に席の大半は埋まっていた。
店の者には何も言わずに彼は店の奥へ足を進める。小さめの丸いテーブルへつく。私も彼を真似て、向かい合う席へ腰を下ろした。すぐ側には、古びた小さなピアノがある。
「良かったのかな」
「何がですか?」
「君みたいな真面目そうな聖職者を、こんなところに連れ込んで」
半分は冗談、半分は真剣といった様子で、彼が首を傾げる。結った長い髪がさらりと、白い首筋へ流れる。胸の奥がまた痛む……痛いほどに心臓が跳ねる。
同じ男だとは思えない、どころか、同じ人間とも思えない。
「真面目という、わけでも」
「そうかな」
笑いながら彼が顔を上げる。視線の行方を追う。薄いシャツの袖をまくりあげた初老の男がにこりともせず、彼の側に立っていた。彼が何かを言う。ひげを生やした男は何度か頷いて、カウンタの向こうへ姿を消す。
「勝手にしちゃったけど良かった?」
「え、と……」
「注文」
「……はい」
絶え間ないざわめきが店内を満たしているのに、彼と私の間には明確な沈黙があった。音だけでなく空気までもなくなっていきそうな気配のある、沈黙。
少し離れた場所では、既に出来上がっている冒険者たちが大声で歌いながら、合間に笑っている。あるいは笑う合間に歌っているのか。それさえも、羨ましい。
「大丈夫?」
「はい」
それだけでまた会話は止まる。
明るい印象のある彼がそれほど喋らないのは意外だった。もっと饒舌な性質だと思っていた。勝手に。けれど、見ている内に、黙りこくる彼の方が本当のようにも、思えてきた。
黙ったまま料理を待ち、運ばれてきた料理を言葉少なに食べる。色の濃い液体の入ったグラスを彼は三度換えた。強いアルコールだろうに、彼の頬には僅かに朱がさしただけだった。
料理を食べ終え、彼がグラスを半分ほど空けたところで、一人の男が近づいて来る。騎士の軽装をしていた。何事かを囁いて、男はピアノを親指でさす。彼は気だるげに頷いて席を立ち、ピアノの前に座る。
長い指先が重たげに、それでいて無造作に蓋を開ける。黄ばんだ鍵盤の上に彼の指先が触れる。古びたピアノのどこから、と首を傾げるほどに澄んだ音がひとつ、騒がしい店内へ響く。ひとつだった音はたちまち数え切れない数になり、重なり合う。
煙のように立ち込めていたざわめきが、彼の音が広がるのと同時に消えていく。見るともなしに彼へ視線を送り、仲間内で目配せをし合う。
歌のない短い曲がひとつ終わる頃には、酒場の中は静まり返っていた。
それに気づいているのかいないのか、無頓着そうに彼は鍵盤に指を滑らせ続ける。悲哀の篭った曲から、甘やかな恋を思わせる短い歌、果てには各地の民謡まで、様々な音で酒場は満たされた。
彼が席を立つときの僅かな音に、ようやく息をすることを思い出したかのように、溜息が漏れる。私も、酒場にいた他の人々も。平静を保っていたのは恐らく彼自身と、カウンタに一人座っていた紫の髪のプリーストだろう。法衣を着た者は、年若いそのプリーストと私以外にいなかったから、余計に目に付いた。
疲れきったような寂しそうな青白い顔は、何故か妙に、目の前の彼とだぶって見えた。それが何故なのか私にはわからない。ただ、見ていて無性に切なさがこみ上げてくる。
「今日はもうお終い」
新たに寄せられたリクエストに明るく一言だけを告げて、彼は残っていた酒を一息に飲み干した。空になったグラスをテーブルへ戻し、代金を置く。先ほどの店員が出てきて、無愛想なまま酒瓶を一本、押し付けるようにして彼へ渡した。彼は苦笑しながらそれを受け取る。
「行こう。だいぶ、遅くなったから」
惚けたように座っていた私を手招いて彼は言う。
壁時計へ目をやると、もう九時を回っていた。いつのまに、と吐息をつく。彼は首を傾げながら弱い笑みを浮かべる。疲れたかと気遣うような眼差しに、僅かに微笑み返して目を伏せる。
どこへ、と問うこともせずに彼へついていった。
いくつかの路地を通り抜け、古い大きな屋敷へ着く。
「ギルドハウス」
「……部外者を入れて、構わないのですか?」
「皆、そういうことは気にしないから」
他人事ながら心配になった後で、本当に他人事だったと気づき笑みを漏らす。胸の奥にじわりと苦いものが広がるのに気づかないふりをして。
黒い門をくぐり、怪しげな草花の栽培されている(かろうじて合法そうだった)前庭を抜けると、ノッカーのついた重厚な扉が出迎える。よほど大きなギルドなのかと更に不安が募ったところで、彼がまた笑みを零す。
「本当は大手ギルド向けの屋敷だったんだけどね、色々あって今は俺のいるギルドと、もうひとつのギルドとで共用している」
「そんなところに……」
邪魔して良いのだろうかと言いかけて、口を噤む。
彼は何も気にしていない様子で玄関を抜け、階段を上っていく。このまま入り口に一人きりで留まることも出来ない。慌てて後を追うと彼は階段の途中で足を止め、私を待ってくれる。
二階の隅にある部屋まで着くと、彼は扉を開けてまた私を先に部屋へ入れる。このギルドハウスには、個室ごとの鍵はないのかもしれない。
マッチを擦る音がして部屋がぼんやりと明るくなる。
窓際にベッドとサイドテーブルがひとつずつ。楽器ケースらしきものが隅の方にいくつか。布をかぶせてあるものはキャンバスだろうか。そういえば部屋の中に僅かに絵の具の匂いが残っている。
本は不思議と見当たらなかった。
唯一の例外は、ベッドサイドの小さなテーブルの上に置いてある、二冊の本だった。一冊は私にも馴染み深い聖書のようだった。もう一冊には背表紙に何も書かれていない。どちらも古く、分厚く、何度も丁寧に読み込まれたものであろうことは、見てすぐにわかった。
「ちらかっていてごめんね」
「いえ……、片付いている方かと」
入り口で立ち尽くす私にベッドを示し、彼は窓を開く。涼やかな風が入り込み、私の頬を撫でてまた外へ出ていく。彼はしばらく窓辺に立ち尽くしていた。
何も見ていないのかもしれない。
何かを見ていたのかもしれない。
それを尋ねることさえ憚られて私は黙ったまま、彼の横顔を眺めていた。雲の合間から零れる月光と、室内を照らすランプの灯りとに照らされた顔。あたたかいのか、つめたいのか、惑う。
ベッドの端に腰かけて、どれほどの時間が経っただろう。
不意に彼が私を向く。
「そういえば自己紹介がまだだったね」
「あ……」
歌と容貌に気をとられすぎていて失念していた。
それが伝わったのだろうか。彼の唇が笑みの形に動く。
「……名前は、良いです」
私の声が言っているのを、他人事のように聞いていた。
名乗りかけたのだろう彼の唇がそっと閉じられる。何故と問うように首を傾げる仕草にまた、胸の奥がざわめくのを感じる。
「名前を聞いたら別れが辛くなるだろうから」
「……そう」
そうだね、と、彼は目を伏せた。遠い記憶に思いを馳せているようでもあった。そんな彼の姿は、手を伸せば簡単に触れられるのに、決して触れられないほど遠く感じた。
彼の手が私の肩へ触れる。顔を上げると、伏せられた彼の顔が近くにあった。
不自然に思う間もなく唇が触れ合う。驚きに跳ねる心臓と裏腹に、心は当然のことのように受け入れていた。あるいは、待ち望んでいたことのように。
|