きみのとなり(前編)
うた、は神さまと話すためのことば。
歌いかければきっとこたえてくれる。
こたえてくれなくても、歌うことに意味がある。
俺の母はそう教えてくれたし、俺も、そう思う。
だから、歌うだけで満足できた。
少なくとも歌は、俺がいなくなっても、人の中に残るだろうから。
ねえリエちゃん。
リエちゃんは、俺がいなくなっても、俺の歌を覚えていてくれる?
たとえば、俺のことを忘れてしまっても……。
* * *
夢うつつに、そんな言葉を聞いた。気がした。
それと、悲しいくらいにやさしく撫でる指の感触。まだ髪に残っている。
寝起きで重たい頭をもたげる。眩しいくらいの夕日が部屋の中いっぱいに差し込んでいる。俺が居候している妙なバード、メルヒオルの部屋だ。
ええと、確か……。
そう、昼食の後、いつものようにうたを歌ってもらっていたんだった。聞いている内に眠くなってしまって、そのまま寝てしまっていたらしい。
起こせよ、勿体無い。文句を言おうとして辺りを見回す。
誰も、いない。
兄貴が死んだと知った後で部屋に戻ったときみたいに。
がらんとして、誰もいない。
ここはメルヒオルの所属しているギルドと、もうひとつ別のギルドが共有しているというギルドハウス。これは昨日聞いたから、知っている。この建物の中の、他の部屋にはまだまだたくさん人間がいるんだろうってことも、知ってる。
知っているんだが部屋は空っぽで、俺の中も何故か知らんぽっかりと、何か大切なものをなくしたように虚ろで、どうしようもなくてとりあえず、溜息をついておく。こうでもしないと別の何かを零してしまいそうだった。
しかしもうすぐ夕食時。
もしかして、単にメルヒオルは夕食の支度をしているのかもしれない。というか、たぶんそうなんだろう。狩りに行くなら俺に一言くらい書置きか何か、残しているだろうし。
そう思うと少し元気が湧いてきて俺はベッドから降りる。
寝起きの体がちょっと重い。
着ているのは、真新しいプリーストの服。あんな、男に抱かれてばっかだった俺なんかが、また、こんな風に法衣を着て良いのかと、迷ったりもした。何もかも返上して、どこかで世捨て人みたいにして生きるべきじゃないかと。
迷いはまだ消えない。
それでもやっぱり、もう、俺にはプリーストとして生きる道以外を考えられない気がして、法衣に袖を通した。おかえり、と、どこかで声が聞こえた気がした。俯いて泣く俺をメルヒオルは何も言わずに待っていてくれた。それが無性に嬉しかった。
首にはまだ、巻かれたままの包帯がある。
たぶん、明日にはもう、とらなくてはならないんだろう。
それを考えると憂鬱になる。行く先が定まらずに見上げた満月みたいな、不安定な気持ち。俺には馴染みの深いもので、メルヒオルに拾われてからはずっと忘れていた感情で、それが少しずつ近づいてきているのが俺には恐ろしくてたまらない。あそこにはもう戻りたくない、そう叫ぶ俺がいる。
ここを出て行かなくてはならない日が来るのが、恐ろしい。
ああ、でも、それはもう、明日になってから考えよう。
こうして思考の切り替えが出来るようになったのも、メルヒオルに逢えたからかもしれない。そう思いつつ俺は部屋を出る。ギルドメンバーの部屋があるのは二階。ふたつのギルド共有のキッチンとリビングは一階にある。メルヒオルがいるとしたらたぶんキッチンだろう。あたりをつけて俺は階段を下りていく。
調理中のあたたかい匂いがない。
機嫌良さそうな鼻歌も聞こえてこない。
肩を落としながらキッチンを覗いても、やっぱりメルヒオルの姿はない。
買い物かもしれない。でも、用意周到なメルヒオルが、こんな時間に食材を買いに出かけたりするだろうか。壁にかかっている時計を見たらもう五時を回っている。
やわらかなクリーム色の壁紙に、ちょっとだけ浮いて見える模様なんかを見つめながら俺は立ち尽くす。何となく、動くと全部消えてしまいそうな気がした。メルヒオルに拾われたことも、あの綺麗なうたも、今ここにいることも、全部消えてしまいそうで……。
突然、だだだっと威勢の良い足音がして、感傷にひたりまくっていた俺を現実に引き戻す。階段を揺らしたその音は華麗に着地を決めて廊下をばく進してキッチンへ迫ってくる。次第に大きくなる足音に、このままだと衝突してそのまま俺が消えるんじゃないかとか、そんな妙な心配をしてしまう。それくらいの迫力だ。こんな迫力のある足音を聞いたのは、初めてグラストヘイムに行ったときに、前庭でたまた深淵の騎士に遭遇したとき以来じゃないかと思うくらいだ。
素早さがないと定評の俺も反射的に横へ飛び退って避けていた。いやだって本当、深遠とかどうでもよくなるくらいの勢いだったからな。
避けざまに振り向いて真っ先に飛び込んでくるのは、炎みたいに鮮やかな赤い髪。キッチンの入り口で急に止まったせいで長い髪がなびいて、ちょっと綺麗だった。
確か、メルヒオルと同じギルドにいるダンサーの人だ。
「メルヒオル、いるのはわかっている! 武器を捨て投降したまえ。君は完全に包囲されている! 諦めて、隠した酒をすべて提出したまえ!」
腹の底から出る張りのある声が、間近から聞こえてくる。俺は少し眩暈がしてふらついたりして、壁に手をついて懸命に体を支える。この辺、体力のある奴らとは違って、ちょっと勝手が悪い。
「ちなみにお姉さん、昨日はちょーっぴり飲みすぎちゃったから、今日は軽めに<ゲフェンの秘宝>が良いわぁ。確か、まだ二本くらい開けてないのがあったでしょ?」
頬に手を当て、身をくねらせてねだるダンサー。俗に言う「可愛い子ぶりっこ」というやつだ。俺よりもいくつか年上のはずだが意外と似合っていた。
ちなみにこの<ゲフェンの秘宝>というのは名前のとおり、ゲフェン地方で作られている果実酒だ。有名というよりは、知る人ぞ知る、といった趣がある。俺も飲んだことがあるが、桃の風味のする甘口のもので、淡く効いた炭酸がついつい杯を重ねさせる。
たしかにアルコール度数は低い。低いんだが……飲みすぎたからといって更に酒を飲むのはどうなんだ。ちょっとだけ、つい数日前までの俺を思い出したりも、した。自分でも怖くなるくらい酒を飲んで、男を誘って、また飲んで。何も食べない日の方が多いくらいだった。
なんて、そんな俺の姿を重ねるのが申し訳ないくらいに、目の前のダンサーは嬉しそうで活き活きとしている。たぶん心底、酒が好きなんだろう。もう「酒を飲むために生きてます」と全身で主張しているみたいだ。こういう人はきっと酒のために死ねるなら本望なんだろう……。
「……って、あら? いないじゃない」
「気づいてなかったのか!?」
「リエちゃんはいるのにメルヒオルがいないなんて、徒歩の深淵の騎士みたいじゃない」
「どういう意味だそれ」
「えー? 何か気持ち悪いって言うかー、ありえなーいって言うかー」
何を当たり前のことを、とでも言いたいのか、やる気なさそうな口調でダンサーが答えてくれる。いや待て、何でほんの数日前に転がり込んだ俺がそんなこと言われてるんだ?
頭の中を疑問に埋め尽くされた俺をおいてダンサーは台所を検分する。よほど酒が飲みたいんだろうな。俺は見なかったふりをしておく。
と、玄関の方から慌てた足音が聞こえてくる。
そのまま例によってキッチンへ。今度は轢かれる心配はなさそうだったから、俺は余裕をもって振り返った。そこにいたのは、少しくすんだ金髪に茶色の瞳のプリースト――ヴァレリオだった。俺の新しい法衣を届けてくれたのもこの人で、珍しく俺に理解というか、偏見をもたずに接してくれた人の一人だった。
何でこんなところに、と少し考えてから思い出す。メルヒオルのギルドと一緒になってこのギルドハウスを購入したのが、ヴァレリオのいるギルドなのだと、そういえば教えてもらっていた。
ヴァレリオは俺の方を見て少し瞬いてから、あのあたたかそうな笑みを向けてくれる。それが照れくさくて少し不貞腐れた顔のまま俺は「よお」とだけ、声をかける。
「こんばんは。もうだいぶ具合が良くなったみたいだね」
素直に俺の快癒をよろこぶその声が、少し、胸に痛い。
本当はこの傷が治らなければ良いと思っているなんて、きっとこいつは思いつきもしないんだろう。そんな些細なことでまた、俺は自分のことを貶めそうになって、慌てて首を振る。急に首を振り出した俺にヴァレリオは目を丸くしていたが、この際気にしないでおく。
「これから夕食かい?」
「いや……」
今は特に食欲がない。だからもう一度軽く首を振っておく。
それになんとなく、これから食べるなら一緒に食べようか、みたいな流れになるのが怖かった。なんとなく、まだ、そういうことに抵抗があった。つまり、俺がそうやって普通のことをしていて良いのか、みたいなものが胸の中にわだかまっている。
「それより……。メルヒオルがどこに行ったか、知らないか?」
「え?」
「さっきからずっと、姿が見えないから……」
尋ねるかどうしようか迷って、結局尋ねてしまう。
俺の問いに戸惑っているのか、俺の問いの唐突さに戸惑っているのか、ヴァレリオが少しの間口を閉ざす。それとも、もしかして、何か言えないようなことでもあったんだろうか。事故にあったとか。もしかして、兄貴みたいに、何かあった、とか。
不意にヴァレリオの手がぽんぽんと俺の肩を叩く。えっと、もしかしてこれは、励まされてるのか? 励まされるくらいに不安そうな顔をしていたんだろうか。
「メルヒオルはアマツに行くって言っていたが……」
「は……? ア、アマツ……?」
「ほら、もう桜が咲く頃だろう。それを見に行ったみたいだよ」
「花見酒ってのも良いわねー。私も今から行って来ようかなぁ」
「そうだな。ギルドで花見というのも良いかもしれない」
「どうせなら、ヴァレリオのギルドとうちのギルドとで、合同でやっちゃいますか」
「それも良いな……、後でアルに相談してみるよ」
「ところでヴァレリオ、お酒の場所知らない? メルヒオルがまーた隠しちゃって」
「うーん……。マガリはもう少し、お酒を控えた方が良いかもな」
唐突にアマツに行ったメルヒオルの行動が理解できずに俺は固まる。固まった俺をまったく気にせず、ダンサー(どうやらマガリという名前らしい)が口を挟んできて、そのまま会話を始める。
お陰で俺は存分に固まり続けることができた。
だって、そうだろう? 今までは、俺が途中で寝ても絶対に外に出ることすらしなかった(らしい)奴が、急に出かけるなんて。それも、アマツなんて異様に遠い場所にまで。
何でだよって疑問がその内に怒りに変わりそうで、ちょっと怖くなって俺は一度考えるのを止める。さすがにそれは、傲慢だと思った。だって、自分で何度も思っているとおり、メルヒオルはただ俺を拾って手当てしてくれただけなんだから。それだけなんだから。
それだけなんだ。
……それだけのはずなのに、なんでこんなに喉が苦しいんだ。
* * *
何ならアマツ行きのポタを出そうかと、ヴァレリオが聞いてくれた。
ちゃんと会話をする元気もなくなって俺は黙って首を振って、そのまま部屋に戻ってきた。メルヒオルの使っている部屋に、だが。
部屋には勿論、誰もいない。
真っ暗になった誰もいない部屋は、雪の降る夜みたいだと思う。暗い中で雪の結晶が落ちてくるのを見つめているときみたいな切なさが胸に積もる。
メルヒオルはひとりになりたいのかもしれない。単に俺と距離を置きたくなったのかもしれない。そりゃそうだ。こんなにべったり依存されたら、たまらないだろう。普通の奴なら。
わかっていた。
なのに、甘えていた。
メルヒオルがいつもやさしく笑うから。
メルヒオルがいつも歌ってくれるから。
ひとりになるのが怖かった。
また眠れない夜をくりかえすのかと、怖かった。
自分を壊そうとする自分をみるのが、怖かった。
「メルヒオル」
耳の奥まで痛くなりそうな静けさに耐えかねて名を呼ぶ。唇を動かした程度の小さな呟き。なのに、ひとりきりの部屋に滑稽なほど響いた。胸が軋む。
法衣を脱いでハンガーにかけ、寝巻きに着替える。背の高いメルヒオルのものを借りているから袖とか裾とか余っててちょっと悔しい。悔しいから折り曲げたりしないでそのままにして、ベッドに転がる。二人で眠っているときは狭い気がしていたが、ひとりで寝転がるとやたらと広く思える。
目の奥が、ぎち、と痛む。大きな塊を呑み込むように唾を呑み込む。苦しい。頭まで毛布を被って、その下で体を丸める。密封された荷物みたいでちょっと息苦しい。でも、こっちの方が良い。
心臓の音が聞こえる。
メルヒオルのものなら、とても落ち着くのに、どうして俺のだけだとこんなに不安になるんだろう。うたに聞こえないんだろう。それがまた、悔しい。
ぎゅうと胎児みたいに手を引っ込めて小さく小さく身を縮めて、俺はきつく目を瞑る。メルヒオルのうたう声を心の中でなぞろうとする。はっきりと覚えている歌声。なのにどうして思い出せないんだろう。もどかしさに細い息が漏れた。
部屋の明かりはつけていない。暗闇が俺を包む。俺を押しつぶそうとしているみたいに闇は刻一刻と濃くなっていく。負けないように力を入れて瞼を閉じる。
眠れないのは、昼寝をしてしまったから。
それだけだ。
それだけだ。
考えるな。
もう何も。
目を閉じて睡魔が来るのを待てば良い。
言い聞かせながらじっとしている。睡魔は来なかった。いや、何度か来るには来たが追い返してしまったのかもしれない。「俺が欲しいのはお前じゃない」。どこかで俺が叫んでいた。
なら、俺は
何が欲しいんだろう……?
問いかけが虚しく響く。その一切を拒絶したくて俺は耳を塞いで更に身を縮める。
このまま消えてしまえれば良いと、願いながら。ああ、だけど、そうしたらもうメルヒオルに逢えない。声が聞けない。撫でてもらえない。早く夜が明ければ良い。ああ、だけど、明日になればメルヒオルに逢えるという確証もない。
毛布を体に巻きつけるようにして俺は身動きもしないでいる。全身を覆っているのにあたたかくならない。しんしんと降り積もる寂しさに俺は身動きもとれないでいる。この冷え切った体に再びぬくもりが宿ることはあるのだろうか、そんなことを、考える。
涙は不思議と出なかった。
遠くからは微かに、談笑の声が聞こえてくる。俺とは遠い世界。俺だけが透明な檻に隔離されているみたいだ。強張った指先で、首からかけたままのロザリーに触れる。
――こんな俺でもまだ、貴方を信じて良いですか。
こたえなんて、あるはずもない。でも少しだけ胸の詰まりの表面が溶けたような気が、した。やさしい指先が髪をそっとかすめるように撫でるみたいに、何かあたたかいものが胸にさしこんだ。それは錯覚みたいな、幻みたいなものだったかもしれないが、俺には確かに救いだった。
僅かな救いにしがみついて俺はただ、夜が明けるのを待つ。
夜が明けることなんてあるんだろうか。
そう心に浮かぶ度に俺は、ロザリーを握る。
心の中で、メルヒオルのうたを辿ろうとする。
何かが少しずつ変わっていく。
やさしい嘘みたいな、そんな感覚を指の間に閉じ込めようとする。
そうして、思う。
――夜が明けたら、アマツへ行こう。
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