きみのとなり(後編)


 長い長い、長すぎる夜が明けた。
 カーテンを閉めないままの窓からさしこむ光の色が少しずつ変わっていくのを、毛布の下から俺はずっと見つめていた。明け方の夜は綺麗だった。今までは気づかなかったその深い深い青に、溜息が漏れた。
 まだ少し早い朝。
 焼きたてのパンの良い香りがしている。ぐう、と腹の虫が鳴って俺は咄嗟に視線を巡らせる。笑うなよ、と釘を刺そうとして、俺は唇をきつく閉ざす。頬が熱い。
 丈のあわない寝巻きで廊下へ出て洗面所まで行く。ぼんやりしてたらその途中で裾を踏んづけてすっころんだ。痛ぇ。それもこれも全部メルヒオルが悪い。だってあいつ、むかつくくらい背が高いし、いつもからかってくるし、ジョークはどれも寒いし、……急に姿を消すし。
 冷たい水で顔を洗う。濡れた前髪をかきあげながら古びた鏡を見る。額に幾筋か髪がへばりついていてちょっと情けない。流れ落ちる水の跡が泣いた跡みたいで、俺は慌てて袖で顔を拭う。何度も拭っていたら、擦れて目元が少し赤くなって、仕方ないから手を止めた。
 部屋へ戻って法衣に着替える。しょぼくれた気分が少しだけ落ち着いた。一睡も出来なかったせいで頭も体も重いが、何とかなるだろう、たぶん。
 時々壁にぶつかりつつ、ふらふら一階へ下りていく。小さいとはいえふたつのギルドが共用できるくらい建物は大きい。階段を下りて食堂へ向かう。
 朝型の冒険者はあまり多くはないようで(俺もそうか)、食堂には誰もいない。更に奥へ進んでキッチンを覗く。やっぱりメルヒオルの姿はない。代わりに、ヴァレリオがひとりで朝食の用意をしていた。
 くすんだ金の髪はきちんとセットされていて寝癖なんてないし、賛美歌を口ずさむ小さな声に眠気も感じられなくて、まるでそこだけずっと朝が続いていたみたいだった。
 入り口のところで立ち尽くしていると、俺に気づいて振り向いた。

「おはよう、アウレーリエ」
「あ、ああ……。おはよう」
「俺が作ったもので良ければ、何か食べていくかい?」
「…………じゃあ、少しだけ」
「了解。スープなら平気かな」

 小さな声でのいらえに、ヴァレリオは嬉しそうに微笑む。火を消したばかりなんだろう湯気のたつ大鍋からスープをよそってくれる。その姿は少しだけメルヒオルに似ていた。外見は、全然、似ても似つかない。何ていうか、人に喜んでもらうのがとことん好きなんだろうな、という感じだ。

「食堂の方で待っていてくれるかい」

 かけられた声に短くこたえて食堂に引き返す。隅の方に座っていると、ほどなくしてヴァレリオが戻ってくる。俺の前に並べられたのは、あたたかいパンプキンスープの入ったスープ皿に、クラッカーの盛られた小皿。簡素だがどちらも美味しそうで、俺の腹の虫は盛大に鳴いた。
 それを聞いてヴァレリオがまた微笑む。嫌な感じの笑みじゃなくて、もっとこう、照れくさいけど何か嬉しいみたいな、そんな笑みだった。
 短い食前の祈りを呟いてスプーンをとる。空腹ではあったが食欲はない気分だったのに、一口スープを食べると、後は無言でひたすら食べ続けてしまった。恥ずかしい。
 じっと見られていると食べにくい。
 そんな俺をわかっているみたいに、ヴァレリオはまたキッチンへ引き返す。俺は食堂にひとりでいるのに、続きのキッチンから聞こえてくる調理の音とか、ちょっとした気配に、繋がっている感じがしてそれがとても安心する。
 スープは最後の一滴まで、クラッカーは最後の一欠けらまで食べてしまう。それを見計らったみたいなタイミングでヴァレリオがコーヒーを持ってきてくれた。
 ソーサーに乗ったカップはちょっとこったアンティークもので、拘っているな、という感じだ。メルヒオルの用意とは全然違う。メルヒオルの場合は入れ物にはまったく気遣わないというか、無頓着というか、そのくせ人にはわからない拘りみたいなものを感じるというか……要するに前衛的というか。

 それにしても……、
 俺はどうしてこんなに、メルヒオルとばかり比べているんだろう。
 まるで、そのことしか考えられないみたいに。
 これじゃあ、まるで……。

 そこまで考えて俺はまたふるりと首を振る。何か予感を振り払うみたいに。
 顔を上げるとヴァレリオがまたきょとんとしていた。気にするなと言う代わりにぎこちなく笑みを浮かべてみせる。……嬉しそうに微笑み返された。何故か照れる。
 誤魔化してコーヒーを飲む。

「熱」
「あ……、大丈夫か?」

 どうやら淹れたてだったらしい。舌の先がじんじんする。ちょっと泣きそうになりながらカップをソーサーへ戻した。熱いのは苦手だ。
 心配そうな顔をするヴァレリオに「大丈夫だから」と頷いてみせる。そうしないと今すぐにでも口をこじ開けてヒールとかされそうな勢いで心配されていた気がする。さすがに俺でも、というか俺だからというか、それは情けない。
 舌が落ち着いたところでようやく、俺はまともにヴァレリオの目を見た。綺麗な目だと、思う。明るい澄んだ茶色で、曇りひとつなくて、ちょっと悔しい。

「ヴァレリオ、は……」
「ん?」
「アマツ行きのポタ、もってるんだよな」
「ああ。いるなら、良かったらいつでも出すよ」

 今いるかと尋ねるようにヴァレリオが首を傾げる。
 俺は少し躊躇う。
 借りを作って良いんだろうかとか、そんなことを考えたわけじゃない。ただ、言葉では拾うことの出来ない感情のかけらたちみたいな、そんな感じのものが積もって、俺の足を止める。
 いつもなら転ぶのを恐れて、足を止めたままでいるんだろう。
 でも、今は……、
 無様に這ってでも進みたいと、思う。
 この先にある何かを掴むために。
 それが何かはまだわからないが。

「じゃあ、ちょっと……頼む」
「了解。準備が出来たら、声をかけてくれ」

 悪い、とか、謝罪の言葉を口にするのも申し訳なるくらい快く、ヴァレリオは引き受けてくれた。俺もいつかこんな風になれるだろうか。ふと思う。
 なれないかもしれない。
 でも、なれたら良い。そう思えるように、なった。
 今まで最低の生活をしていたんなら、これ以上落ちることなんてない。
 手を伸ばせば伸ばしただけ、光に近づく。
 ……そうだったら良い。

 ぬるくなったコーヒーを一気に胃に流し込む。
 まだ少しぼんやりしていた頭がはっきりした。俺は飲めないが、バーサクポーションなんかを飲んだら、こんな感じになるのかもしれない。そんな馬鹿な想像を出来るくらいには、少なくとも目が覚めたし、元気も出た。
 大丈夫。まだ歩ける。まだ進める。
 胸の奥に聞こえる歌を探しに行こう。
 指先をそっと、ロザリーへ触れさせた。

 * * *

「それじゃあ、気をつけて……」
「悪いな」
「困ったときはお互いさま、だろう?」

 お人よしそのものって感じでヴァレリオが笑う。俺があんたを助けたことなんてないだろ、とつっこみたいのをぐっと堪える。
 そうか、これから先に何かあったら、今度は俺が助ければ良いんだもんな。今までずっと「未来」なんて、考えたこともなかった。もしかしたら「現在」すら考えられてなくて、ずっと過去の自分だけと向き合ってきたのかも、しれない。
 なんて弱くて、愚かだったんだろう。

「……アウレーリエ。君に、主のご加護があるように」

 あたたかな声が俺を包む。
 わけもなく胸の奥が痛んだ。
 ヴァレリオが短い祈りを紡いで、ワープポータルを出してくれる。眩い光の柱に少しだけ目が辛い。そう、目を伏せるのは、それだけの理由だ。別に泣きそうになったわけじゃ、ない。

「…………ありがとな」
「どういたしまして」

 去り際に短い言葉を交わしてワープポータルに乗り込む。
 視界が暗転する直前に見たのは、どこまでも青く澄んだ空だった。
 そのあまりの青さに目が眩んで、俺は一人よろめく。
 転ばないように踏ん張った足から伝わるのは、プロンテラの石畳とは少し違う硬さの地面。風に乗ってひらひらと淡い色の花びらが、どこからともなく降り注ぐ。行き交う人々の服装も見慣れないものに変わっている。キモノとかいうやつだ。
 アマツ。
 転職前に一度だけ来たことがある。
 あの頃と全然変わらずにあるこの場所が、何故だか不思議に思えた。
 当たり前のことなのに。
 当たり前のことに、ようやく気づくだけの余裕が出来たのかもしれない。
 溜息をついて気持ちを切り替える。ただでさえ広い、しかも慣れない土地で人を一人探さないといけないんだから、ここで立ち止まっている暇なんてない。
 口が自然と聖句を紡ぐ。体が軽くなるような感覚は、速度増加を使う度に感じるが、未だに慣れずにいる。またよろめきそうになりながら小走りに進む。
 古くからあるんだろう茶店や道具屋に紛れて、見慣れた服装の商人たちが露店を並べている。大陸のもので珍しいからか、子どもたちが肩を並べて覗き込んでいて、微笑ましい。
 通りすがり、何とはなしに後ろから覗いてみた。
 敷布の上には色とりどりの石とアクセサリが並べられている。

「っ……」

 跳ね返る日差しが俺の目を射る。目の底が痛んで思わず足を止める。
 一睡もしていない身にこれはきつい。

「そこのお兄さん、ひとつ買っていかない?」
「あ?」
「お兄さん綺麗な顔してるし、きっと似合うわよぉ」

 んなわけあるか。そもそも綺麗ってのはたとえばメルヒオルみたいな奴のためにある言葉で、俺にはまったくもって似合わない。
 いやそれ以前に綺麗なんて普通、男には使わないだろ。あ、俺もメルヒオルに使ってたか……。いや、俺がメルヒオルに使う分には良いんだ。何でかはわからないが、とりあえず良いんだ。

「これなんてどう、オパールで作ったネックレス。あでも、貴方、目が金色っぽくて綺麗ね。どうせならこっちかな……。ほら、見て見て。サードオニキスのブレスレット。綺麗でしょ。目の色とぴったりで素敵よ」

 黙りこくって考えている間にも、ブラックスミスの格好をした女は延々と喋ってくれていた。言われて女の手元へ渋々視線を向ける。確かにその手に輝いているブレスレットの色は俺の目の色に似ている……かもしれない。
 でもだからって別に欲しくはならない。

「しかもこれね、効能が素敵なの」
「はあ……」
「友愛とか夫婦愛なんかを高めてくれるそうなんだけど、どう?」

 どうと言われても。

「何か恋人と喧嘩してしょぼくれて傷心旅行に来たみたいな顔してるし、ぴったりじゃない?」

 そんな顔してんのか、俺。
 思わず真剣に心配になって、自分の頬をぺたぺた触ってしまう。それを見て女が腹を抱えて笑い転げている。寝てないから調子が出ないんだよ。悪いか。
 ひとしきり笑い終えてから女が顔を上げる。あまりの笑いっぷりに、覗いていた子どもたちが走り去っているんだが、その辺を気にした様子もなく、まだ顔が笑っている。笑い上戸なのかもしれない。笑われた俺はよい迷惑だ。

「あー、笑った笑った」
「そんなにおかしいかよ……」
「そりゃもう、ここ数日で一番笑ったもん」
「…………」

 それ以上何かを言う気力もなくなって俺は肩を落とした。
 このテンションについていけない。

「……あんた、ずっとここで露店やってるのか?」
「そうよぉ。貴方みたいに見ていくだけで買ってくれる人が少ないの」
「いや……」

 買わない理由は他にもあるんじゃないかと思ったが、言わないでおく。自分から喧嘩を避けるようになったなんて俺も成長したものだ。もしかしたら人によってはこれを退化したとか、保守的になったとか、言うのかもしれないが。
 この女BSが店を出しているのは人通りも多い、大通り。もしかしたらこの辺りをメルヒオルが通ったのを見たかもしれない。そんなことを期待してしまう。

「やたら背が高くてやたら顔が綺麗な、変なバードを見なかったか?」
「貴方小さいから周り皆、背が高くて大変じゃない?」
「っ……。か、髪は茶色。高い場所でポニーテールにしてる」
「ちぇ」

 俺が怒るのを期待していたんだろうか。女BSが、いかにも「つまらない」と言いたそうに口を尖らせている。よく堪えた、俺。思わず自分に拍手喝采する。……ああ、やっぱり寝てないせいでテンションが変だ。

「まあ、あれよ、あれ」
「……何だよ」
「情報が欲しいなら、これ、買っていってよ」
「はあ?」
「情報料。基本でしょ」

 基本なのか?
 疑問はとりあえず口に出さずにしまっておく。ここで下手に刺激をして、手に入るはずだった情報を逃したりするのは嫌だからな。

「いくらだよ」
「そうねー、まけて500kってとこかな」
「ぼったくりだろそれ」
「ええ!? この艶、この細工、この美しさ! これだけ揃ってたったの500k! なのにこれの何が不満なの」
「何もかもが不満だ!」

 魂を込めて叫ぶ。叫びすぎて苦しくなって、肩で息をしていたら咳が出て、余計息苦しくなって涙が滲む。まんじりともせずに一晩を過ごしては妙なことをつらつら考えていたせいか、涙腺が弱くなってる気がする。

「あら、泣いちゃった」
「泣いてねえよ」
「はいはい。6kにまけてあげるから泣かないでね」
「泣いてねえって」

 それ以前にやっぱりぼったくりだったんじゃないか。言うと前言撤回されそうだったから言わないが。……大人になったな、俺……。
 ポケットから財布を取り出して、6000ゼニー、耳を揃えて女BSへ手渡す。

「ほらよ」
「毎度〜。はい、手ぇ出して」
「何だよ……」

 渋々左手を出すと、ぱちんと音がして何かが手首にはまる。見ると、さっき勧められていたサードオニキスのブレスレットが手首に輝いていた。

「いらねえよ」
「良いじゃない、別に。肌白いから映えて、似合うわよ」

 自分の膝の上で頬杖をつきつつ女BSが笑う。そういえばこいつの髪の色、ちょっとだけメルヒオルに似ている。そう思うと何となく少しだけ、拗ねていた心が宥められるような気がした。
 ……何故だろう。

「ああ、そうそう。バードね。昨日見たわよ。夜くらいかな……船着場からやってきて、あっちの方にふらふらいっちゃった。今日は見かけてないけど」

 女BSが指したのは、神社へ続く道だった。
 前に来たときローグに付き添われて、わざわざキツネ退治の方法を聞きにいったのを覚えている。そのローグのことは非常に思い出したくないし、さっさと忘れたいんだが。
 それにしても、6k払って結局、メルヒオルが本当にアマツに来ていた、ということしかわからなかった。ぼったくられた感は消えないが、言っても仕方のないことだから諦めておく。
 機嫌の良さそうな女BSへ別れを告げて俺はまた歩き出す。
 今がまさにピークといった風の桜並木を歩くと、何となく落ち着かない。場違いなんじゃないか。そんな思いが消えない。メルヒオルみたいに詩人だったりしたら、こういう景色が似合うんだろう。
 ああ、まただ。
 さっきからずっと、メルヒオルのことしか考えていない。
 何でだよ。
 これじゃあ、まるで……。
 浮かびかけた言葉の続きを溜息で封じ込める。
 顔を上げる。
 何か、聞こえた。
 そよ風に流れる桜の花びらの合間に、微かに聞こえた。
 道行く人々は気づかない様子で桜に気をとられている。
 他の連中には聞こえていないんだろうか。
 高く低く響くかすかな歌声。
 懐かしさと切なさとに胸が潰れそうになる。

「どうしたね、兄ちゃん」
「歌が……、聞こえないか?」
「さあのう……。何も聞こえやせんが。兄ちゃん、寝ぼけてキツネに化かされとるんじゃないかね」
「いや、……空耳だ。たぶん」
「春だからってぼさっとしとると、すっころぶよ」

 少し耳が痛いじいさんの忠告に目を逸らしつつ、止まっていた足を進める。音は小さすぎてどこから聞こえてくるのか、さっぱりわからない。
 それでも、
 胸の奥に確信めいた何かがあった。
 小走りに進んでは、路地を見つける度に足を止め、辺りを見回す。しばらく運動なんてしていなかったせいで息の切れるのが早い。寝不足も祟って余計にきつい。まだ少し肌寒いくらいなのに汗が滲む。手の甲で額の汗を拭う。
 進めば進むだけ、うたは大きくなっていく。
 うたに近づいていく。
 それは、幼い子どもが空を飛べると信じているくらい、
 滑稽で、悲しくて、虚しい、勘違いなのかもしれない。
 そんなまともな考えだってまだ浮かぶのに、何だって俺はこんなに、一生懸命になって、必死になって、往来を走ったりしているんだろう。
 ……泣きそうになって、いるんだろう。
 うたがきこえる。
 遠く、近く、まるで、手招きしているみたいに。
 喉が苦しい。
 額を伝う汗が目にしみる。
 うたがきこえる。
 ああ……、
 メルヒオルの、うただ……。
 滑稽なほどの確信が生まれる。
 もう二度と忘れることが出来ないくらいに俺は、このうたを知っている。
 このうたを、求めている。
 何で、
 何でこんなに……。
 これじゃあ、まるで……。

「…………リエ、ちゃん……?」

 もういくつめかもわからない角を曲がって、勢いつきすぎてすっころびそうになって、壁に手をついて支えて、みじめなくらい肩で息して……そんななりふり構わないで走ってきた俺を、きょとんとした表情が出迎える。
 明るい日差しの下で、緑の瞳が懐かしい。

「何……、どうしたの、そんな……ああ、大丈夫?」

 桜の下から立ち上がって、楽器放り出して俺の方まで近寄ってくる。バードなら楽器大切にしろよ、と、いつかみたいに俺は思う。
 メルヒオルの指先が髪に触れる。
 やばい。
 きもちよい。
 髪からゆっくり、背中を撫でる。とん、とん、とあやすみたいに指先が背中を叩く。それに合わせるように体が勝手に、呼吸を整えていく。
 げほ、とあまり聞こえの良くない咳を何度かして、ようやく息が収まる。

「リエちゃん……?」

 呼ぶ声に、俯いてしまう。
 一度俯いたら今度は顔が上げられなくなった。
 メルヒオルの手がそっと、背中を押す。俯いたまま二人して桜の木の下まで歩いて行った。メルヒオルがさっきと同じ位置に腰を下ろす。手招きをされて、隣に腰を下ろそうとして

「っ……何すんだよ!」

 急に手を引っ張られた。
 思いのほか強い力に抗えるはずもなくて、メルヒオルの腕の中へそのまま転ぶようにして受け止められる。文句を言いながら顔を上げたら間近で緑の瞳が見下ろしていた。
 閉じ込めるみたいな腕に反射的に抵抗してしまう。
 嫌なわけじゃない。
 むしろ、逆だ。
 わかってる、この腕から離れるときがくるのが、怖い。
 離れなければならないなら、最初から触れたくない。
 なのに、触れてしまったから、振りほどけない。
 メルヒオルから離れようと突っ張っていた腕に力が入らなくなる。代わりに、引き寄せるメルヒオルの腕に力が入る。膝の上に座って、肩口に顔を埋めて、……何やってんだ俺。走りどおしだったから髪はぐちゃぐちゃだし顔は赤いだろうしで、みっともない。子どもみたいに抱っこされてるのに、なのに、何か知らないが、妙に安心して、泣きそうになる。

「離せよ」

 これ以上、離れるのが辛くなる前に。
 これ以上、弱いところを見せる前に。
 これ以上、泣き顔を見せないうちに。

「嫌だ」

 きっぱりと言い切る声が頭上から降ってきた。
 いつもとどこか違う感じで、戸惑う。
 微かに伝わってくる鼓動が、少し早い、ような。

「リエちゃんが悪いんだよ」
「……は?」
「リエちゃんが、俺のことを追いかけてくるから……」

 唐突な言葉に理解が追いつかない。伏せていた顔をそろそろと上げる。首が痛いと思っていたら、メルヒオルが少しだけ腕から力を抜いてくれる。
 そのままの姿勢は辛かったから、メルヒオルの足の間に膝立ちする。力こそ弱まったもののメルヒオルは腕をどけようとしない。いつも見上げていた瞳が同じ位置にあって、何だか不思議だ。

「離せって」
「嫌だって」

 口を開いた瞬間に却下された。
 こんな風に子どもじみたメルヒオルを見るのは初めてで、混乱する。混乱は段々、怒りに変わっていく。何で急にこんなことするんだと八つ当たりしたくなる。

「何で、だよ」
「………………から」
「え?」

 初めて聞く弱々しい声に胸の奥が疼く。淡い色の花びらが風に乗って視界の端を流れていく。その中に埋もれるほど、微かな声。
 聞き取れなかったわけじゃない。
 きっとメルヒオルの声なら、どこにいても聞き取れる。
 ただ、
 あまりにも予想外で、
 自分でも不思議なくらいに動揺していて、……。

「……リエちゃんの包帯を、外したくなかったから」

 聞き取れなかったと思ったのか、メルヒオルがもう一度、囁いてくれる。耳元で。くすぐったい。でも、不思議と嫌じゃない。もっと、と、思ってしまう。
 だから、黙ったままでいる。

「包帯を外して、リエちゃんが何もなかったみたいに出ていくのをちゃんと見送れる自信がなかったんだ。引き止めてしまいそうだった。……リエちゃんは、そういう煩わしいことは嫌いだろうから」

 ああ。嫌いだよ。
 今までだって、一晩の相手をさせた奴から引き止められる度に、鬱陶しいと突っぱねてきた。そうだよ、寝るために抱かれるとき以外、こうやって他人に触れられるのだって嫌いだったんだ。
 なのに、今は、二度と離れたくないと思うくらい、気持ち良い。
 これじゃあ、まるで……
 ……まるで、俺がこいつのことを好きみたいじゃないか。

「リエちゃんに嫌われるくらいならって、せっかくアマツに逃げてきたのに……追いかけて来ちゃうんだから……。困った人だよ、まったく」

 照れくさそうに呟いて、溜息をつく。その声が、吐息が、耳に直に伝わってくる。くすぐったくて普段なら殴り飛ばしていそうなのに、今はもっと感じていたい。
 責任転嫁してくるような言葉なのに。
 それでも、心地良いと思う。

「……なよ」
「……え?」

 呟くつもりもないのに言葉が唇から零れる。
 今度は、メルヒオルが聞き返してきた。
 言い直すかどうか、迷う。

「勝手に逃げるなよ!」

 迷っていたはずなのに口は勝手に、叫んでいた。
 メルヒオルがきょとんとしているのが視界の隅っこに見えた。八つ当たりしたい気分はどんどん高まっていって、俺はメルヒオルの胸元を掴んで、続ける。

「寝てる間に勝手にいなくなるなよ」
「リ、リエちゃん……?」
「アンタがいなくなったせいで、今日は一睡も出来なかったんだからな」

 うわ、本当に八つ当たりだ。
 わかっているのに、止められない。

「放っておいてくれって言ったのにアンタが無理矢理拾って、手当てして世話したんだろ!? なら、最後までしっかり面倒見ろよ、甲斐性なし!」

 言葉を叩きつけるみたいにして叫んだ。
 でも、昨日から言いたかったモヤモヤはたぶん、これだけじゃ晴れない。わかっている。だから俺は言葉を探す。どうしても言いたかった言葉。俺のどこかにある言葉。どうしても、伝えたい言葉。
 探して、探して、探して、見つけた。

「それに……」

 本当は探すまでもなく、最初からそこにあったのかも、しれない。

「それに、まだ……作ってくれるっていってた歌を、聞いてない」

 語尾が震えた。自分の声じゃないみたいに、弱々しい。さっきのメルヒオルの声なんかよりも、きっとずっと、もっと弱々しいに違いない。情けない。
 メルヒオルの服を掴んでいた指から力が抜ける。顔を見る勇気がなくて、手を下ろすのと一緒に視線も俯く。俺自身も、どんな顔をして見たら良いのかわからなかった。
 沈黙が続く。
 メルヒオルのものかも自分のものかもわからない鼓動だけが聞こえる。
 ふ、っと、花がほころぶみたいに密やかにメルヒオルが笑みを漏らす。俯いたままの俺の頭を何度も撫でながらメルヒオルが笑う。

「……何、笑ってんだよ」
「リエちゃんが可愛いから」
「可愛くねえよ。どこに目つけてんだ」
「こっち向いて」

 顔を上げる。満面の笑みを浮かべながら「ここ」と緑の目を指差すメルヒオルがいた。呆れて言葉も出ない。でも何故か妙におかしくて俺は、吹き出すようにして笑いを零す。
 拗ねて、ひねくれていた心が嘘みたいに和らいでいく。
 二人で目を合わせてはまた笑う。
 笑顔を見られるのは恥ずかしくて、俯く。
 顔を上げたらまた目が合って、笑う。
 何度もくりかえした後、メルヒオルは不意に、笑うのを止めた。雑踏の中で気づかないくらい僅かな一瞬、音が消えるように、唐突に。

「好きだよ」

 当たり前のように呟かれる。
 メルヒオルの緑の瞳と、その向こうに広がる青い空と白い花が、綺麗だった。ひらひら、花弁が舞って、喉が詰まる。
 ぽた、と顎を水滴が伝う。喉を通って胸元まで伝ってきて、冷たい。雨でも降るんだろうか。こんなに良い天気なのに。

「……泣かないで」
「泣いてねえよ」
「泣いてる」
「ゴミが入ったんだよ。風が強いから」

 自分でも何で涙が出るんだかわからない。俺を見てメルヒオルが、降り始めの雨みたいにやさしく笑う。その笑顔があんまり綺麗で、やたらと、うれしかった。
 口の端に笑みを浮かべながらメルヒオルが顔を寄せてくる。それがまるでキスするみたいな角度だったから、つい、反射的に目を閉じてしまう。いつもなら、キスされたって何されたって目を閉じてやることもないのに。
 頬にやわらかな感触が触れる。

「期待、した?」
「っ……し、してない!」

 顔が熱い。むかつく。
 でも、目を閉じても感じるくらい鮮やかなメルヒオルの笑顔がそこにあって、それを思うと俺は急に、うれしくなる。涙が出てくるのも、うれしいからなんだろうか。わからない。
 唇がまた頬へ触れる。
 軽く触れて、軽く涙を吸うだけの、他愛ない口づけ。
 両の手の指先が俺の頬へ触れる。触れられただけなのに俺はもう、身じろぐことも出来なくなる。この手を振り払うことなんて簡単なのに。それが出来ない。……したくない。
 どこからこんなに、と思うくらいぼろぼろ、後から後から涙が零れる。
 頬を伝い落ちるそれを、メルヒオルは飽きもせずに唇で追う。くすぐったい。むずがゆい。心地良い。
 何度も、何度も、何度も、永遠みたいに何度も、メルヒオルは口づける。見た目よりもやわらかなその唇が触れる度に、心の棘がひとつずつ、溶けて消えていく。まるで最初から傷なんてなかったみたいに、跡形もなく、すべて消えていく。

 ――神さま。

 心の中で叫ぶ。何度も、何度も、何度も、それ以外の言葉を知らないみたいに何度も、叫ぶ。神さま、神さま、神さま。今まで口にしたどんな聖句よりも、もっと、純粋に、祈りに近い。
 もっとも原始的な祈り。
 もっとも原始的なうた。
 それは、獣の咆哮にも、似ていた。
 うれしいのか悲しいのか、それすらもわからないまま俺は泣いていた。声も出ないほどの強い感情に身動きも出来ず、ただ涙だけが落ちる。メルヒオルに触れた箇所だけが、世界と繋がっていた。そんな気がするくらい俺は、もう、何もわからなくなっていた。
 そうやって泣きじゃくって、どれくらい経ったんだろう。

「リエちゃんは……、俺のこと、……」

 メルヒオルが不意に口を開いた。
 何を聞こうとしているのかは、わかる。それくらいは俺にだってわかる。それに対する答えだって、もう、どうしようもないくらいに決まっていて、揺るぎようがない。
 でも、だが、しかし、今は、まだ。

「うたを」
「どう……」
「俺のために作ったうたを、聞かせてくれたら、答えてやる」

 あと少し、ほんの少しだけ、覚悟を決める時間が欲しかった。
 それがわかったんだろうか。
 メルヒオルはまた、やわらかく笑って、それから髪を撫でてくれた。

「君のためのうたを、君のためだけに歌うよ」

 笑みを含んだ声が耳元に近づく。くすぐったい。身を竦める俺にメルヒオルが喉を鳴らして、また笑う。大きな、繊細そうな手が、草の上に落ちた楽器を拾い上げる。俺は自然と体を離す。
 身の置き所がわからない俺を、メルヒオルは手招く。訝しげに見ると今度は、自分のとなりをぽんぽんと叩く。腰を浮かしては見るもののそこへいく勇気が出ない。

「おいで」

 真っ直ぐに、俺を見つめてメルヒオルが言う。
 一瞬の、真剣な表情。
 広がる俺の動揺を抑えようとするみたいに、メルヒオルは微笑む。それにつられて俺は立ち上がる。あたたかい陽だまりの中へ、招かれるままに足を踏み入れる。花びらがいっせいに降ってくる。俺を赦すみたいに、歓迎するみたいに。
 それは、幼い子どもが空を飛べると信じているくらい、
 滑稽で、悲しくて、虚しい、勘違いなのかもしれない。
 それでも、となりへ座った俺を、メルヒオルは笑顔で迎えてくれた。
 それだけで良い。
 ぽつ、ぽつ、といくつか音が紡がれる。弦の調子を整えているのだろうか。楽器のことは、俺にはよくわからない。でもそんな試しみたいな一音一音だけで、やたらと気持ち良い。
 最初はばらばらに落とされた音が、次第にまとまっていく。一度だけ手が止まって、音も止まる。呼吸を整えるみたいな間を感じた。僅かな緊張感が心地良く染み入る。
 メルヒオルの瞳がちらりと俺を向く。
 見つめ返す代わりに俺は、メルヒオルの肩へ頭を預ける。
 小さな笑みの気配と一緒にメルヒオルは目を伏せた。
 俺は目を閉じる。

 そして、うたが始まる。



















2006/04/20