罪過(5)


 息詰まる沈黙が続いた。このまま永遠に停止して抜け出せなくなってしまうのではと危惧するほど長く感じる。
 不意にカインを離れた手が、残されていたボタンを外す。見上げる先で、早くしろと顎で指示される。のろのろ顔を伏せた。下着の合わせ目から舌を差し入れ黒ずんだモノを舐める。僅かに舌先を滑らせるだけで震えが返ってくる。
 喉の奥が苦しい。気づかない内に呼吸を止めていたようだ。いちいち己に命じなければ溜めこんだ息を吐きだすこともできない。このまま口を結びつづければ消えてなくなれはしないだろうか。そんな考えがまた過ぎる。

「ん……」

 鼻先で布地をかきわけ、露になる熱にぎこちなく舌を絡める。慣れない、しかし確かに覚えのある味が口内に残っていた薬の苦味を消した。
 ようやく先端を探りだした。くすぐるように舌先を這わせる。懸命に感情を抑えつけて淡々とおこなう。どれだけ心を殺そうとしても惨めな思いは消えない。
 長いこと恐れつづけていた男の側にいる緊張や、脅迫され従わされている屈辱に心はひどく昂ぶっている。反して体は鈍っていく。いっそ考えるのも感じるのもやめてしまえ。言い聞かせても効き目はない。感情を制御するのは得意なはずだった。そのはずだったのに。

「おい」

 不意に声がかけられた。カインは細い肩を強張らせ動きを止める。這わせていた舌を僅かに離し、俯いたままでつづきを待つ。言葉の代わりに手がおりてきた。強い力がカインの髪を掴み上げる。

「散々てめえだけ悦くなっておいて、ご奉仕の仕方は教わらなかったのか? ちゃんと根元まで咥えろ」

 苛立ったような荒い語気にカインの全身が硬くなる。命令を遂行しなければと思うのに、頭に上手くそれが伝わらない。何もかもが遠く、霞がかって感じる。どうすれば良いか明確に示されているのに、どうすれば良いかわからない。
 つくられた清涼感に冷たかった胃が、底の方からじわじわとあつくなっていくのを感じた。薬に潤されたはずの喉は干からびそうなほど渇いている。心がざわついて仕方がない。
 鼓動が速い。闇の中から伊吹の姿を見出したときの冷たい脈動とは違う。激しい運動をしているときのように全身を火照らせる類のものだ。

「言われたことも満足にできねえんじゃ暇つぶしの玩具にもなりゃしない」

 やはり外に刺激を求めるか。言外に告げられるのを聞いた。咄嗟に顔を上げ、カインは伊吹を見つめる。夜の瞳の奥に、怯え潤んだ目をしたカインの姿が映っていた。
 言葉が出てこない。
 露出した先端に唇を触れさせる。

「……ふ、……。っん」

 生々しい感触を口内へ導いていく。躊躇いに止まりかける動きを無理矢理に勢いづけ、つづける。

「っ……ぐ」

 途中で喉を詰らせそうになる。顎の付け根が痛い。苦しくてたまらなかった。舌の上で、それは質量を増していく。伊吹の熱に触れた箇所から順繰りに、やがては全身が腐敗していきそうな気さえした。
 初めて咥えさせられたときのように、髪を掴まれ口内を蹂躙されることはない。カインの動くに任せ、伊吹は鷹揚に椅子に腰かけている。
 この男を達せさせることができなければカインが解放されることもないのだろう。仕方なしに、慣れない動きで伊吹自身を刺激していく。

「ぁ、……っく、ん……」

 渇ききっていた口内がやがって濡れていく。僅かばかり硬さをもちだしたモノに唾液が絡み、それでも余ってカインの唇や顎を汚す。
 嬲られ、熱に喘がされた記憶がいくつも浮んでは消える。忌まわしいはずの記憶が過ぎるごと、下肢が疼くのは何故だろう。
 顎や舌の感覚がなくなるほど咥え、刺激しつづけても伊吹に満足した様子はない。動きを止める度に伊吹は腰を突き出し、カインの喉奥を先端で擦る。
 止められないまま涙が零れた。

「一晩中そうして咥えているつもりか? もっと舌を使え」
「……ん、……。く……ふっ」
「そうだ。……上手いじゃねえか」

 伊吹の呼気が微かに震えた。上ずったように弾んだ語尾にカインの心は沈み、惨めな思いが強まっていく。ぬらぬらと光り滑りの良くなったモノを狭い口内で懸命にしごく。

「ふ、っ……」

 小さな水音が幾重にも響く。聖性の強い場所にはあまりに不釣合いだった。カインは罪悪感を募らせていく。
 拙い口技にもやがて伊吹は反応を示し始める。僅かずつ硬度を増していくそれに、カインの内に篭る熱もまた増していく。気のせいだ、慣れぬことをする緊張に体温があがっているだけだ。己に言い聞かせてはみたがカインは、それが本当ではないことを知っていた。無理に押し入り、全身を侵し、やがては喰らい尽くしていく熱を心も体も覚えている。
 舌が伊吹のモノに擦れ触れる度ただそれだけの刺激でカインの熱も煽られていく。腰の辺りが疼く。ぞっとした。また熱に我を忘れてしまうのだろうか。えもいわれぬ恐怖が快感めいた震えをもって足元から這い上がってくる。

「――……っ」

 口の中で膨張するそれに、舌の存在を思い出すことさえ苦しい。鼻から下が自分のものではないかのようだ。せめて早く終わらせようとすることさえ上手くいかない。
 頭の先から意識が抜けていく。抜けたところを空白が埋めていく。

「出すぞ」

 息苦しさに霞んだ世界に、尊大な物言いが降ってくる。目を瞠るカインを見て伊吹が嘲笑った。意識の底に焼きついたいやらしい笑みに重なる。
 体が震えた。

「大切な聖堂を汚したくねえなら、しっかり咥えて全部飲めよ」
「――っ、……。……ぅ……」

 喉の奥に熱が張りつく。痛みさえ覚える勢いに涙が滲んだ。遅れて、口中に吐き気のする生臭い味が広がる。反射的に身を捩り逃れそうになった。あの時と違って押し戻す手はない。己の意思のみで咥えつづけなければならない。
 口の中に充満するこの液体は一滴たりとも飲みこめそうにない。そう思うのに、後から後から溢れてくる白濁液に押し込まれるようにして嚥下してしまう。
 冷たい涙が零れる。

「零すんじゃねえぞ」

 言いつける声は、頬を濡らした雫よりもなお冷たく胸を刺す。
 最後の一滴を滲ませた先端をカインは舌先で拭った。己の内へ体液を受け入れるのは嫌だった。この男の体液で聖堂を汚すのも嫌だった。比べてどちらがより嫌悪感のある行為なのかは、わからない。
 舌の下に僅かに残った精液を、吐き気を堪えて飲み干す。

「良い子だ」

 猫なで声が、くつろげられた襟元から入り込み肌をも撫でてざわつかせる。口中にも肌の表面にもざらりとした感触が残るようだ。纏わりついて離れない。ティカップの底に溶け残った砂糖に似ていた。
 緊張のつづいた後にふと訪れたやさしさが、疲れた心に染みこんでいく。獰猛でぎらついたこの男が見せる作り物めいたやさしさと穏やかさに縋ってしまいそうになる。縋ってしまいたくなる。
 ――それだけはしたくない。してはいけない。

「ちゃんと躾ければ良い犬になりそうだな」

 きっとなるだろう。確信を秘めた声に胸が悪くなる。どれだけ要求を受け入れさせられたとしても、心までは堕ちるまい。唇を噛んで心の内に呟く。
 直視しては憎しみをぶつけてしまいそうでカインは目を伏せる。
 見てはいけない。不吉なものと目を合わせてはいけない。そんなに見つめては、きっと不幸が起きる。幼い頃にくりかえし聞かされた声が蘇る。誰から言われたのだっただろう。
 ああ、あの日、テロのあった日にこの男を正面から見つめてしまったのが良くなかったのだ。漠然とした後悔と自責の念が沸き起こる。もしもあの日伊吹と目を合わさなければ、今ここで屈辱を味わうこともなかったはずだ。
 あの日にすべてを間違えたのだ。
 ぱたりと涙が落ちた。
 冷たい雫が細い顎をなぞり滑らかな喉へ流れる。赤黒く変色した跡を冷やし癒すように撫でた涙は、黒々とした首輪と肌の僅かな隙間に溜まる。
 惨めな冷たさだった。
 何よりも惨めなのは、その微かな水の伝う刺激にさえ反応して体内の熱が大きく脈打つことだった。

「どうした。もう芸は終いか」

 飽きさせるなと暗に囁かれる。背筋がざわりと粟立った。
 この男は何故こんなにも犬扱いをするのか。詮ないことを考える。答えなど決まっているではないか。カインのプライドを、心を傷つけ貶め嘲うためだ。それ以外に何がある。
 からかいの問いかけに応えたくなどない。しかし応えなければならない。

「……何を、すれば良いのですか」
「それくらいてめえで考えろ」
「……」

 考えようとしても頭に熱が篭ってわからない。風邪をひいたときのように思考が纏まらない。煙のごとく立ち上っては霧散する。
 何故こんなにも体が熱いのだろう。落ち着かないのだろう。

「は、……。っ……ぁ」

 ああ薬の所為かと、ようやく思い至る。あつい吐息が零れた。どく、と血がざわつくのがわかる。薄い肌の下を血が巡っているのだと自覚させられる。
 赤く生命の色を宿していた血が、身に受けた穢れを吸って黒ずみ虫のように皮膚の下を這い回っている。そんな錯覚に囚われそうになる。

「……っ!」

 皮膚を剥ぎ取り血をすべて流してしまいたい。そうすれば何もかも、なかったことにはできないだろうか。激情に駆られカインは首元へ手をやった。切りそろえられた短い爪で白い肌を掻こうとする。
 強くこめた力に返るのは、やわらかくも決して破れることのなさそうな革の感触だった。カインに纏わりつく首輪はしなやかに抵抗する気力を奪っていく。何をしても逃げられはしないと囁く。

「……ふ、……あ、ぁあ……っ」

 細い体が不意に震えた。
 心臓が脈打つ度、下半身の疼くのがわかる。熱が吐息を震わせ、湿らせる。同時に、何かを求めて体は乾いていく。ほしくてたまらない。が、何を欲すれば良いのか具体的にはわからない。

「嫌、……。っ……ぅ」

 弾む息の合間に声が漏れる。目元があつい。涙が滲む。嫌だ。嫌で嫌でたまらない。――もう何を厭っているのかもわからない。
 ぼやけた視界に革のズボンが入る。何かして気を紛らわせなければならない。そうしなければ、もう自分ではいられなくなってしまう。自分を保てない。そんな気さえした。
 唇を噛む。痛みで正気に戻れるのならどれだけ良かっただろう。薄く血が浮くほど強く噛み締めても痛みは疼きを増すばかりだった。もっとしてほしい。真綿を詰め込んだような頭の中でそればかりが大きくなっていく。

「ん……。……ふ、っ――あ……」

 上半身を立てておくこともできず蹲る。襲ってくる熱の波に耐えるのが精一杯だ。伊吹に見られていることも忘れてしまう。
 冷たい床に膝頭を擦りつける。掃き清めたはずのタイルに小石があった。法衣の布地ごしにその硬さが肌を刺し、食いこんでくる。誰かの靴が持ち込んだのだろう。小石であれば簡単に取り除くことができる。
 伊吹との出会いはカインにとって、この小石のようなものだった。何とすれば取り除くことのできるとも知れない小石。
 逃れたい。
 何から逃れれば良いのかも、もうわからない。
 噛み締めた唇は気を紛らわすだけの意味もなさない。荒い息が次から次に落ちる。あつい。全身がひとつの器官になったかのようだ。それでいて、細胞よりもなお細かく解けてしまいそうでもある。揺らめく湯気のようだ。実体さえも定まらない。
 私は一体誰だっただろう。
 私は何なのだろう。
 疲れきった溜め息のように呟きが心に落ちる。
 とりとめなく流されていきそうになるこの思考を、心を、体を、繋ぎとめてくれる何かがほしかった。そうしなければ泡となって消えてしまうかもしれない。それも良い。いっそ消えてしまえれば楽になる。
 ゆると首を振り、暗がりへ落ちていく思考を払う。やわらかな銀の髪に何かが触れた。熱に潤む瞳を上げる。黒い革に包まれた足が見えた。

「ぁ……」

 揺らぐことなどなさそうな、どっしりとした足。何故カインの足はこんなにもほっそりとして頼りないのだろう。情けないと思うだけの余裕はもうない。
 衝動の波は強くなり、波の訪れる間隔は短くなった。
 雪の中に身を埋めれば穢れごと、熱がすべて移りはしないだろうか。僅かに残された理性さえも夢想をやめない。そんな都合の良いことが起こるはずなどないのに。

「……は……」

 すり、と頭を摺り寄せる。硬い革が頭皮を擦り、熱を僅かばかり抑えてくれる。熱を出した幼子がタオルケットに鼻先を埋めて安穏を求めるがごとく、カインは伊吹の脚へ頭を押しつける。ほっと息が零れる。

「本当に犬ころみてえだな」

 大きな手が髪を撫でる。仕草はひどくやさしく、慈悲さえ感じさせた。あまりの自然さに、カインもそれを当然のように受け入れてしまいそうになる。

「こんな風に、犬みてえに扱われる方がすきなのか?」

 嘲笑が降ってくる。胸が軋む。肺が苦しい。痛い。
 誰が好き好んで犬扱いされるものか。言い返そうとして開いた唇から零れたのは、己のものとは思えない、甘ったるい熱のこもった声だった。
 夢の中にいたようだった意識が、冷水を浴びせられたようにはっとする。
 が、それも一瞬で元に戻ってしまう。

「あ……。たすけ、て。……っくださ、い」

 思わず零した声に冷笑が返った。
 ぎっと音が立ちそうなほど強く髪を引かれ、カインは息を呑む。目を瞠る。

「どうしてほしい」
「たすけて。……ぁ、ふ……。ぅ。たす、け……て」

 苦しい、とそればかりをくりかえす。それしかできない。

「あつい。たすけて。もう……」
「てめえが救いを求めるのは誰だ?」

 誰か。
 誰だろう。

「てめえは誰に助けてほしいんだ」

 誰だっただろう。
 ……もう、わからない。



















2006/11/01
  一回抜いてすっきりしたから、伊吹はちょっぴり寛大になった。