罪過(4)
聖堂内をまだらに照らす灯りが揺らぐごと、現実感が失われていく。これは夢なのだと、今から行われることも夢なのだと何度も言い聞かせる。喉に、鎖骨に、胸の内に宿る鈍い痛みがそれを阻む。
整然と並ぶ信者席も、その中央を貫く通路も、それらを見守るステンドグラスも何もかもが、この場所の神聖さを、主の偉大さを誇らしげに主張している。ほんの数ヶ月前までは、カインも自身の内に同じものを見出すことができた。それが今はカインを拒絶しているようだ。
変わってしまったのはカインひとりきりなのだと思い知らされる。
信者席の最前列に伊吹が腰を下ろす。大きく開かれた股が場にそぐわない。が、いかにもこの男らしい自信に溢れた座り方だった。
「来いよ」
呼ぶ声に、重い足取りで進む。
伊吹に向かい合うようにして立ち尽くした。まさか聖堂で懺悔をしようなどとは欠片も考えていないだろう。祈りを捧げることもないだろう。ならば何故このようなところに留まるのか。
炎の揺らぐ音さえも耳に届きそうだ。
居心地の悪さにカインが喉の奥で咳をする。こんなにも静寂が深くては懸命に脈打つ鼓動も簡単に押しつぶされてしまうに違いない。聖職者らしからぬ、己らしからぬ思考が喉を渇かす。
転職試験で対峙した魔物の幻影たちも、退魔師として対峙した魔物や死人たちも、こんなに不安にはさせなかった。相手の力の強大さに命の危機を覚えることもあったが心の中心は常に穏やかであった。神の加護をその身の上にはっきりと感じることができた。
だというのに伊吹を前にするとこんなにも不安になる。
何故なのか、今にしてようやくわかった。
夜の闇にも似た囁くような声が真に揺らがしたのはカインの心よりも、存在そのもの。あり方そのものだったのだ。
「喉が渇いているのか」
「……いいえ」
「飲め」
か細い否定を無視して伊吹が小瓶を取り出す。カインの受けとりやすいようにと気遣いひとつないのが いかにもこの男らしい。
仕方なしに一歩踏み出し、手を伸ばす。
香水の瓶のように華奢で緻密な細工を施されたそれは、カインの手の内にも簡単に隠れるほど小さかった。中には淡く青く色づいた液体が七分目まで入っている。微かに聞こえた水音は粘り気がある。思い出すのは、あの日路地裏で騎士に飲まされた薬。
「てめえの好物だろう?」
顔色をなくすカインを揶揄する声は、僅かに弾んで聞こえた。
人をいたぶるのがそんなに楽しいのかと問い返すことさえ虚しい。尋ねたところで返る答えは決まりきっているのだから。
震える指で小瓶を受け取る。
重量など微々たるものだ。にも関わらず鉛のごとく感じられた。
「遠慮せずに飲めよ。さっきの言葉が本当だってえなら」
飲んでみせろ、飲めるはずだ。無言の内に強制される。この男の用意するものだ。まともなものであるはずはない。瓶を持つ手が強張る。
迷い続けるカインに焦れたのか伊吹の手が動く。威嚇するようなわざとらしい大きな動きにカインの細い肩が震えた。
「――っ! 飲み、ます……」
カインの動揺を他所に、伊吹の手はそのまま信者席の背もたれへと回される。何を勘違いして怯えているのかと嘲うよう口の端が歪む。無骨な手の指先が僅かに揺らぐ。簡単に引っかかったことが恨めしい。
コルクの蓋を引き抜く。濡れくぐもった音が響いた。蓋は中ほどまで液体を吸っていた。細まった瓶の口から淡くミントの香が漂う。嗅ぐだけで僅か、鼻の奥がすうとする。その様は鼻薬のようでもあった。
「滅多に手に入らない高級品」
「……え?」
「騎士の奴にも飲ませてもらっただろ。あれを作ったケミの最上ランクの薬だ」
瓶の口に触れさせていた唇が自然と離れる。
何を言われたのか理解するまでに時間がかかった。あのとき騎士は何と言っていただろう。眼前に焼きつき、時が経っても薄れる気配のない記憶が、今は奇妙なほど遠い。火のはぜる音が水底で聞いているようだ。夢の中にいるように何もかもが曖昧で、色も音も失せていく。
以前に伊吹に飲まされた薬も、騎士に飲まされた薬も……そのアルケミストの作った薬にはすべて、常習性のある成分が含まれているという。
「飲み、つづけると……どうなるのですか」
「さあな。薬が欲しくてたまらなくなるか、薬がなくても効果だけは残るか……。どちらにしても、そんな澄ましたお綺麗な顔はできなくなるだろうなあ」
突き放し、他人事として楽しむ声にカインは動きを止める。そんな風にはなりたくないと心も体も小瓶の中身を拒絶する。
飲まなくてはいけない。思えば思うほど体は動かなくなる。この男の気の済むようにしなければならないと命じても指先ひとつ動かない。
何故、自分がここまでしなければならないのか。そんな考えがまた浮ぶ。
守りたいからではないのか。
――何を。
人を、街を、信仰を。
――教えを守るために、教えに背くのか。
そうしなければ皆を守れない。
――ならば誰が私を守る?
私は誰に守られる?
「どうすんだ。止めるってえなら今の内だぜ」
痛むほど強く打つ鼓動が、一瞬でも心動かされたことを証明している。この冷たい誘惑に縋ってしまいたい。見も知らぬ「守るべき者たち」は本当に守るべきものなのだろうか。カインが我が身を犠牲にしてまで守らずとも案外何とかなるものではないのか。
黒い思考が蛇のようにカインに纏わりつく。気づかない内に聖職者としての道を外れようとしていた。そのことに気づいてカインは身を震わせる。己が己でなくなっていくようだ。
動けなくなったカインを伊吹の視線が舐めまわす。先ほどの毒蛇めいた思考はこの視線にも似ていた。身を竦めるカインを促すでもなく伊吹は黙ったままでいる。それがかえって恐ろしい。
視線を伏せると、瓶を持った指が震えていた。
逃げるなら今だ。
この瓶を床へ叩きつけて割ってしまえば良い。今しかない。
なのに体は動かない。
逃げてはいけないと誰かが言う。守った先にある意味などなくても良い。本当に人々が守られるのならそれだけで意味深いことだ。
瓶を取り落としそうになっていた指に力が篭る。朱色の手袋の下で細い指の関節が痛んだ。早く決めなくてはならない。早く行動に移さなくてはならない。けれどきっかけがないと動けない。自分から決めたのではなく、強制されて仕方なくするのだと思っていたい。
それは赦されない。
「……飲みま、す」
掠れる声で呟く。聞いているのかいないのか伊吹は何も言わない。ただ黒い瞳だけがカインを見つめている。カインの僅かな身じろぎひとつ逃さぬようにと微動だにしない視線が張りつく。皮肉げに歪む唇が残酷に面白がっている。
今度は力の入れすぎで指が震えた。
薬を口へ運ぶ。極僅かに厚みのある瓶の縁に唇をつけるだけでミントの香が強くなり、むせ返る。清涼感のある分、以前の甘ったるいだけの匂いよりはましなのだろうか。強烈な香りにそれも判ぜられない。
飲んだ後に訪れるだろう変化を予感して今から既に吐き気がする。
震える手で瓶の底を上げる。長いことカインが握り持っていたにも関わらず、瓶の中身は奇妙に冷たいままだった。とろみのついた薄青い液体が少しずつカインの口内を侵していく。
「う、……っ」
「高いんだ。零したり残したりするなよ」
瞬間的に吐き出しそうになるのを目ざとく見つけられる。どこかで聞いた言葉だと、僅かに残る冷静な部分が思う。喉が震える。無理に飲み込んだ。息苦しさと苦みばしった味に涙が滲む。
緑ハーブにも似た草の臭いが口中に広がっていく。以前の薬では極端な甘さばかりに気がいって気づかずにいた。頬の裏や舌の付け根が痺れるような感覚に眉間を寄せる。
「飲めねえんなら、また下の口から飲むか?」
からかいの言葉にカインの肩が哀れなほど跳ねる。
どのように犯されたのか詳細に知られているのかと気が重く沈む。
ちゃんと飲むからそれだけは許してくれと懇願するように伊吹を見やる。いやらしい笑みを見せつけられるばかりだった。
仕方なしに一口ずつ薬を飲んでいく。
一息に飲んだ方が苦痛は短いとわかってはいても、とてもできそうにない。
少量ずつ飲むたびに心臓がどくりと脈打つ。その場に倒れそうになる。眩暈がした。飲んだものを今すぐに吐き出してしまいたい。それは叶わない。
心の中で、神に助けを求める己の声を聞いた。
救いの手が差し伸べられることなどないと知っているのに。
「飲み、まし……た」
口の中に残る苦味と、不自然なまでの清涼感に吐き気が強まる。わけもなく覚えた惨めさに幼い子どものように泣きじゃくりたくなる。
目じりに溜まった涙を乾かすべく瞬きをくりかえす。
虚勢を張るのをやめることができない。こんなときでさえ。
「何突っ立ってんだ?」
不意にかけられた声に過剰に反応してしまってさえ、なお。
「跪け」
「……嫌です」
「てめえは口答えできる立場か? 同じ目線で話せる立場か?」
「私が跪き頭を垂れるべき主は貴方ではありません」
それだけは譲ることができない。許容できない。言い切る声の端が惨めに震え掠れたとしても。
ようやく返した言葉は伊吹に一笑に付されて終わる。
「今までは、な」
大きな手が伸びる。身を引く間もない。むき出しにされていた首輪をつかまれる。次の瞬間には、下へ叩きつけるように強く力をかけられていた。痛みと勢いに抗うことができず膝をつく。
「これからは俺の前に跪け。てめえの主は俺だ」
「っ……」
反論しようと口を開くと首輪をきつく引かれる。皮膚が擦り切れそうになるほどの力に呼気ごと言葉が止まった。
力ずくで従わされるくらいならいっそ何もかも捨ててひれ伏してしまおうかと、ふと過ぎる。そんなことをできるはずはないのに。
僅かに身じろぐだけで首輪に力が加わる。仕方なく、伊吹の膝の合間に身を縮めるように跪く。微かに漂う香は体臭なのか、狩場でつけた死臭なのか。血の匂いにも似たそれは、この場所に酷く不似合いだった。
「いくらお綺麗なプリーストさまでも、そろそろ奉仕の仕方くらい覚えただろ? 滅私奉公はてめえらの得意分野だもんなあ」
首輪から離れた手が銀の髪を掴む。俯くことさえ許されない。視線を合わさせられる。強張るカインの表情を見て伊吹が鼻から息を抜く。
見下されている。
怒りよりも先に恐怖が過ぎる。それが口惜しくてたまらない。
「手は使うなよ」
何をしろと具体的には言わないまま伊吹が要求してくる。何を求められているのかわかってしまう。わかりたくなどなかった。されど何をすれば良いととぼけて問うこともできず、そんな真似はしたくないと跳ね除けることもできず、ただ諾々と従うしかない。
硬い仕草で伊吹の股間へ顔を近づける。
縮まる距離に血の匂いが濃くなった。彼の流した血が、流させた血が赤黒い霧となって伊吹の体に纏わりついているがごとく立ち込める。再び込み上げてくる吐き気をどうにか宥めすかす。
ジッパーに舌を触れさせる。鉄の匂いが鼻腔をくすぐる。古くぬるい味に顔を顰めた。舌を絡め歯を立てる。かちりと小さな音が立った。俯くようにゆっくりと下へ引く。金具の擦れる音が響く。胸の軋む音に似ていた。こめかみが痛む。
「……、……は……」
ジッパーを最下部まで開けきる。漏れた溜め息が安堵のものか、これからしなければならないことを憂いてのものか、自身にさえ判断が下せなくない。
布地を舌でかきわけ、まだ熱の少ない肉棒へ触れさせる。微かにすえた匂いが伝わってくる。鼻先をちらつくファスナーが鬱陶しい。
ボタンを外そうと舌を伸ばす。感覚の鈍った舌にも革の味が伝わる。噛んでみても舌で押してみてもボタンは頑として動きそうにない。
何度もボタンへ舌を絡める。付着した唾液が口の端を濡らす。
どうしても外れないボタンにカインは仕方なく顔を上げる。冷たい瞳がカインを見下ろしていた。
「……ボタン、を」
「ボタンがどうかしたか」
「外せな……い」
「だろうな」
ようやく口にした言葉に返るのは素気ない声だった。そのくせ、どこか面白かるような粘りがある。どうしてほしいと問うような視線がカインを向く。黒い、あのように奥底までも黒い瞳でどうしてものが見えるのだろう。益体もないことをふと思う。
会話が止まる。黙ったままのカインに、闇をはめこんだ瞳が、どうしてほしいのかはっきり言えと促すようだ。
顔が火照る。
伊吹の要求に従ってやっているというのに、何故そのために必要なことを己から頭を下げて懇願しなければならないのか。そもそも何故このようなことを自分がしなければならないのか。――そんな考えが未だに浮ぶ。決めたはずの心は簡単に動く。決して揺らぐことはないと思っていた心なのに。
長い躊躇いの後でカインは口を開く。
「自分で……外していただけませんか」
「何を」
「ボタンを」
それだけではまだ足りないと言うように伊吹が笑う。
屈辱が心を汚していく。汚泥を塗りつけられるがごとき不快感があった。
「……どうか、……お願い、します」
ひび割れそうな心を抑えつけ、求められるままに言葉を紡ぐ。理不尽な要求に応えなければならない身の上が哀しかった。喉の奥に空気の塊が詰っているようだった。圧迫感を伴う鈍い痛みがする。
聖堂の高い天井には、震える微かな声さえよく響いた。
余韻が消えてどれほど経っただろうか。不意に伊吹の手が伸びた。首を竦め怯えた体のカインに構わず、無造作に銀の髪を撫でていく。
「利口な犬だな。分をわきまえるのが早い」
細い髪をかき乱しながらの言葉は奇妙なやさしさをもっていた。
何を言われたのか瞬時にわからなかった。この男は今、何と言った。犬扱いをされたと受け止めきれず心が理解を拒む。こみ上げてくる感情が何ともわからないまま泣き出しそうになる。
十秒近くもかかってようやく伊吹の言葉が心に届いた。受け入れられない言葉を心が理解してしまう。その前に早く拒絶しなくてはならない。
無骨な手が地肌さえ擦っていく。
まるで本当の犬を撫で褒めるような仕草だと、思う。
「触らないで……ください」
その手を打ち据えてカインは睨む。伊吹の気の済むようにしようと思いはするものの、このような仕打ちを許容することはできない。
抗議した瞬間から激しい恐怖がこみ上げる。
また頬を打たれるのだろうか。体を強張らせて衝撃に備える。
待てども痛みは襲ってこなかった。それがかえって恐ろしい。
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