罪過(3)
ほんの数秒に満たない沈黙がやけに恐ろしく感じた。
目の前の男がおかしそうに瞳を細める動きの、睫の震えまでが見えそうだった。笑みに歪む唇は記憶に焼きついたものと寸分違わず重なる。
伊吹の手首を捉えた手指が震えを帯びる。痛い。不自然なほどに強張った指先から自分が自分ではなくなっていく。そんな錯覚に眩暈がした。
ぎこちなく指を開き伊吹から離れる。
怯えたように彷徨う手の首を、大きな掌が捉える。このまま押しつぶされるのではと思うほどに強く掴まれ、骨が軋む。痛みがあつい。
心臓がひとつ、大きく打つ。
「馬鹿だなあ」
「……っ」
「外の連中を見捨てれば、てめえ一人は平穏に暮らせるってのに」
いつになく やさしげな声が囁く。
労わりに満ちたものではなく、哀れみの篭った声だった。向けられる漆黒の視線は愚か者と蔑むように冷たい。
痛みさえ感じる沈黙の中で口を開くのは酷く力のいることだった。
「他人を犠牲にしてまで己の身を守るのが利口というのなら、私は馬鹿で構いません。……馬鹿になりたい」
貴方にはわからないかもしれませんが。強がる声は呟きのように掠れる。それでも視線は伊吹を捉えたままでいる。恐ろしいものから目を放すことが出来ないのか、目を逸らさずにいることだけがプライドを守る術なのか。
朱色の手袋ごしに感じる熱に、伊吹もまた生きたものなのだと突きつけられる。今まで、そんな当たり前のことさえ気づかなかった。
体の隅々にまで、触れた箇所から溶かしていくような彼の高い熱が焼きつき残っている。だというのに伊吹を思い出すときには何故か、酷く冷たい無機質なものとして浮かぶのだった。
「反吐がでる」
口先だけの綺麗事だと断じる口調で伊吹が吐き捨てる。掴まれた手首を強く引かれた。そのまま腕の中に閉じ込められる。抵抗どころか身じろぎひとつ許さないほどの強い力だった。
生ぬるい舌がカインの耳たぶをねぶる。全身の肌が粟立つ。
「っ嫌、だ。離して」
「口でならどうとでも言えるよなあ。てめえもどうせ、そうなんだろ?」
「違、……」
「違うんってんなら……言葉だけじゃねえんなら、実践してみろよ」
本当に己の身を犠牲にできるのか。本当にできたのなら、それに応えてやる。どうせできはしないだろうと嘲る声が耳孔に吹き込まれる。ねぶられ濡れた耳たぶが冷たい。
不意に伊吹の腕が解かれた。反射的に身を引こうとするカインの手首を、伊吹の手が再び捉える。
「逃げるのか?」
「……逃げません」
カインの中にある迷いや躊躇いを見透かしたように伊吹が笑う。このローグはカインの見たくないものばかりを目の前に突きつけてくる。
弱さを、醜さを、あまりにも間近に見せつけられて息ができない。
「貴方の言葉に偽りがないのなら、私の言葉にも偽りはありません」
逃げたりはしない。
言外に告げる強い瞳を伊吹へ向けた。視線の先でローグが鼻を鳴らす。
「何でだ?」
「それは、……。……わかりません」
何故と向けられるままに自問しても答えは出ない。
初めて伊吹と出会ったあの日から常に己の真中にあった問いだ。投げかけてきた張本人と対面したからといって、容易に解けるはずもない。ただ、人々が傷つくところを見たくないと、そればかりを望んでいた。
恥辱にまみれた夜が明け急変した世界をあんなにも恐れていたというのに。変わってしまった己と、今までと変わらず明るく笑う人々とを比べてはあんなにも傷ついていたというのに。
なのに、何故。
どれほど問いかけても答えの端も掴めはしない。
ここで伊吹から逃げたとしても誰もカインを恨みはしない。伊吹とカインが何を話したかも、顔を合わせたことさえ知る者はいないのだから。逃げてしまえ。頭の中に警鐘が響く。逃げてしまえ。今ならまだ間に合う。嘘つきだ、利己的だと罵られるくらい、己が身の平穏に比べたら大したことはないはずだ。
なのに何故、逃げられないんだろう。
そこまでして人々を守りたいのか。教えを守りたいのか。いくつもの理由が浮かんでは消える。どれもあてはまる。どれも、しっくりこない。
「ああ、そうか……。また俺に抱いてほしかったのか?」
冷たい笑みを含んだ声に即座に首を横に振る。誰が、と強く吐き捨てる。聞こえたのかどうか伊吹の表情は僅かばかりも揺らがなかった。
片方だけ見える瞳は暗い闇を宿している。虚ろな黒のその奥には確かな自信を秘めているのがわかる。それは信仰にも似た強さをもっていた。かつてカインがもっていたのと同じ強さに思えた。
「貴方は何故……テロを企てるのですか。何の罪もない人々に、どうしてあのように惨いことを、……できるのですか」
こんなにも強い瞳をもつのに何故、彼は虚ろなのか。止める間もなく唇から問いが零れた。
カインの手首を捉える手指に力が篭る。ぐ、と握られた箇所が痛んだ。鈍い痛みにカインは目を伏せる。問いを向けておきながら答えを聞きたくはなかった。
「あんまりこの世がつまんねえからな。……暇つぶしに獣を追い回して殺して楽しんでる奴らがいるだろう。そいつらと同じだ」
まるで違うと答えたいのに声が出ない。何故違うと問われとき明確な答えを返せない予感があった。己の中に答えは確かにあるのに、目の前の男に伝えられる自信がなかった。
口惜しさに唇を噛む。
「退屈だから、殺す。犯す。テロを起こす。他の奴らと同じ暇つぶしだ。それの何が悪い?」
黒い瞳が挑むようにカインへ向けられる。大聖堂内を照らす灯りも彼の闇の中にまでは届かない。狂気すら見出すことのできない漆黒の瞳が恐ろしかった。
睨むなよ、と嘲笑が胸を叩く。
「そんなにテロをやめてほしいのか?」
「当たり前です。テロを起こしてほしいなどと、誰が願いますか」
「なら――てめえが代わりに玩具になれよ」
「な……っ」
「てめえが暇つぶしの相手になれている間は、テロを控えてやっても良いぜ」
誰かを殺す代わりに、テロを起こす代わりに、暇つぶしの玩具になれ。低く囁く声音が、二人が平等な関係ではないと、あくまでカインが懇願する立場なのだと告げる。
咄嗟に言葉が出てこずにカインは顔を伏せる。胸の奥に目には見えない重いものが一枚、また一枚と積もっていくようだった。
「やっぱり口先だけだったのか? ……まあ、本当にとめたいんなら連絡しな。それまでは外の連中に相手してもらうからよ。テロの音でも聞きながらゆっくり悩め。時間は腐るほどある」
それほどに長引くテロを起こすつもりなのか。どれだけの枝を折るつもりなのか。数ヶ月前のテロのときよりも多くの被害が出るのだろう。怪我人も、死者も、カインが即断しなければ。血の気が引く。迷う時間も与えられない。躊躇いさえも封じられる。
今にも外へ向いそうな伊吹へと腕を伸ばす。広い背へ触れる程度に回した。誰かに抱きつくことなど初めてのことだった。
「本当に……貴方が今後一切、テロを控えてくださると言うのなら――私を好きにしてくださって構いません」
強張り止りそうになる唇を無理に動かして早口に告げる。
乾いた心に哀しみが落ちる。抱きついた腕から、触れ合わせた胴から伝わってくる伊吹の熱も、間近から見上げる黒い瞳も、何もかもが遠い。現実感がない。白いもや越しに見つめているようだった。
何故こんな男の言いなりにならなければ、いけないのか。
屈辱に項垂れるカインの髪を伊吹の手が掴む。強引に上向かされて首が痛んだ。合わさせられた視線に息苦しさを覚える。
肌蹴られた胸元に無数に散る噛み跡が赤い。白い肌の上に点在するその跡を冷たい汗がなぞり、伝う。
「構いません、じゃねえだろ? てめえが言わないといけねえのは」
希う立場であることを忘れるな。願いを聞いてもらう立場なのだと自覚しろ。言外にそう告げられる。言い直せと強要される。
カインがどれだけ怯えてみせても嫌がってみせても、伊吹は決して前言を取り消したりはしないだろう。痛いほどにわかっている。仕方なしにカインは重い口を開いた。
「どうか、……お願い、します。私にできることなら何でも……します。……だから、どうか」
テロは思い止まってほしい。張りつめ震えた声で訴える。伊吹の厚い唇が笑みの形に歪むのが見えた。どこか満足そうにも見えるその表情は獰猛な獣のようだった。
髪を掴んでいた手がゆっくりと離れていく。
台詞が気に入らなかったのだろうか。カインの心が重く沈む。何とか続けなければと思うのに、これ以上の言葉が見つからない。あの日に強要された言葉など、自ら口にすることはとてもできそうにない。
見つめつづけるカインの手を伊吹が解く。
「何でも? 本当かねえ」
嘘の上手いプリーストさまの言うことだから、と苦笑まじりに呟かれて頬が熱くなる。それが侮辱に対する怒りなのか、図星をつかれた気まずさなのか、わからなくなる。
わからなくなる自分に戸惑う。
「本当です。貴方が……望むことなら」
声が震える。
意識の底まで冷えきっているというのに、脈打つ心臓は速く、世界は遠い。
夢なのか現実なのか判じられず眩暈を覚えた。ふらついた体を、前に立つ伊吹が受け止める。この男に支えられるくらいならいっそ床に倒れてしまいたかった。伝わる熱に、もう逃げ道はないのだと教えられる。
「その言葉に嘘偽りがねえってんなら」
呆気ないほどあっさりと腕が解かれる。少し高い彼の熱が体に纏わりつくようにして、まだ残っている。己の顔に留まる視線に息苦しさが消えない。
「こっちへ来な」
言い置いて伊吹は足を進める。これから行うことはすべてカインの意思によるものなのだと示すように、カインの手を引きもしない。肩を押すことさえしない。
いまだ夢とも現ともつかない中、カインはふらふらと足を踏み出す。
「精々、楽しませてみろ」
低い声が告げる。
聖堂の隅に置かれた灯りが、微かな音を立てて揺らいだ。
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