罪過(2)


 夜が来た。
 人気のなくなった大聖堂にカインは一人でいた。
 分厚い壁に阻まれて、外で鳴く虫の声さえ聞こえない。各所に配置されたランタンの火の燃える微かな音だけが耳に届く。
 美しいステンドグラスの見守る前に信者席が整然と並んでいる。その最前列に腰かけたきりカインは動かずにいた。
 ここにいるとどうしても嫌なことばかりを思い出してしまう。プロンテラ中で最も神の力を感じられる場所、悪しき物の入り込めない場所のはずだというのに。
 俯いた顔は青白い。結局スコーンもあれきり食べられず残してしまった。細い指に、お仕着せの手袋は僅かに大きい。緩く組んだ両の指を膝の上に置いて祈る心持でじっと、己のつま先を見つめる。
 隅で影が揺らぐ度、火のはぜる音がする度、心臓が縮まるかのような錯覚を覚える。縮まるくらいならばいっそ止まってしまえと願う。

「……っ」

 そんな己に気づいて、カインは目を瞠る。
 何を考えていたのかを再認識して背筋に寒気を感じた。何度か頭を振る。神聖な場所にいる間にそんなことを考えたくもなかった。他の場所にいても同じことではあったが。
 不意に扉の開く音がした。
 こんな夜中に聖堂を訪ねてくる者がいるのかとカインは少し驚く。プリーストになってからだいぶ経つが、未だに夜番の間に来訪者があったことはなかった。
 乱れがちな呼吸を整える。淡く笑みを浮かべるための手順を思い出そうとする。そうでもしなければ笑うこともできない己に気づいて、また胸の奥が重く沈む。
 足音を殺そうとする気づかいもない重厚なブーツの音が響く。聖職者の仲間ではないだろう。一般市民がはく靴の音とも違う。靴底に鉄板を仕込んだ、冒険者特有の足音だ。
 信者席から立ち上がる。ゆっくりと振り向くまでの間に、聖職者としての顔をつくる。慈悲深い笑みをつくろうとするときに思い浮かべるのは以前の己ではなく、ヴァレリオの顔だった。
 浮かぶ雑念を心の奥に押し込める。
 振り向いてそこに立つ者の姿を目にした瞬間、カインの表情が凍った。

「『伊吹』……?」

 ぽつ、と名前を呼ぶ。
 見覚えのあるどころではない、日ごと夜ごとに眼前をちらついて離れないあの忌々しい姿がそこにあった。
 自分で切っているのか酷く不揃いな漆黒の髪。闇夜よりなお深い瞳。同色の眼帯に隠された左目こそがカインを捕らえて離さない。ローグの衣装の赤だけが、彼が冒険者であることを思い出させる。

「よお、また会ったな」

 名を呼ばれることを不思議にも思わないのか平然とした声が返る。口元に浮かぶ笑みは以前会ったときから変わらない。
 カインが身を硬くするのにも拘泥せず伊吹が距離を縮める。

「何故、貴方のような人がここに。己のしたことを悔いて神の前に頭を垂れる気になりましたか」

 声が震えないようにと法衣を握る指が力の入れすぎで震えた。気丈に応対しようと苦心する。怯えた姿を見られたくない。何もなかったかのように振舞えば何もなかったことに出来ると信じているかのようだ。
 伊吹のことなど何のものとも思っていないように見せたい。そう願うのにカインの指先は冷たくなっていく。握った掌から滲んだ汗が手袋にしみるのを感じた。鼓動が速くなっていくのかさえ判じられない。ただ心臓が脈打つたび痛みが走ることだけを知っていた。
 伊吹の唇が皮肉な笑みに歪む。もったいぶるようなブーツの音が響く。大きな手がカインに伸びた。硬直しきっていた体は反応が遅れた。肩を震わせるより先に銀の髪が鷲掴みにされる。

「っ……」
「わざわざ会いに来てやったんだ。もう少し愛想良くしたらどうだ」

 なあ、といやらしい声が耳孔に吹き込まれる。強く髪を引っ張られてカインがよろめく。互いの鼓動が聞こえそうなほどに距離が近づく。
 呼吸をしているのかどうかもわからなくなり、カインは目を閉じる。眩暈に足元が覚束ない。掴まれた髪に体重がかかって痛い。全身の血が凍ったかのように冷たい。唇から細い息が漏れ出る音だけが礼拝堂の中に響いている。

「何故、私がここにいると……知っているのですか」

 深夜にわざわざ名指しで訪ねてくる者はまずいない。夜番を任されるプリーストは皆、一定以上の力と知識をもっている。火急の用には誰でも等しく対応できるようになっている。一人居残ることになるプリーストの身の安全を慮る意味もあって、その日の夜番にあたるものが誰であるかは公表されていない。知っている者といえば同じ聖職者くらいのものだろう。
 それを何故、荒くれ者と評してなお足りないこの男が知っているのか。カインの背を嫌な汗が伝い落ちる。
 伊吹のもう片方の手が、カインの法衣の襟中へ指を突っ込む。首輪を引きずり出される息苦しさにカインは喘ぐ。首の後ろがぎりぎりと擦られて熱い。強すぎる恐怖が痛みとなって襲いくる。確かにすぐそこにあるはずのものが、妙に遠く感じられる。

「俺自身はてめえらみたいなお綺麗な連中とは無縁でも、ギルドにはプリーストが何人もいるんだよ。その中には、てめえが俺に何をされたか知っていてなお夜番の予定を教えるような奴だっている」

 嘲笑じみた掠れが声に混じる。
 カインは全身から血の気が引いていくのを感じた。それが何に因るものなのかカインにはわからない。何か黒いもやのようなものが胸に落ち、底へと溜まっていくように思うばかりだ。

「ショックか? ショックだろうなあ。大切なお仲間に裏切られたようなもんだからなあ。いもしない神に尻尾を振って綺麗事を言いながら、同じ口で自分の欲望のために他人を売る……良い仲間をもったじゃねえか」

 表面ばかりを美しく飾り立てるから余計に滑稽だ。耳孔へ、意識の合間へ、滑り込むようにして伊吹の声が入り込む。
 間近に覗く瞳の暗さに抗う気力が削がれていく。
 視線を逸らせば何か災厄が降りかかりそうな気がする。けれど、視線を逸らさなければこのまま心身共に侵食され、支配されていくような気がする。余所見をするのも見つめているのも恐ろしい。

「憎いか?」

 尋ねる声が、カインの中の得体の知れなかった黒い感情にかたちを与える。抗うようにゆるゆると振る首が虚しい。
 髪を掴む伊吹の手を振り払おうと上げる手が重い。

「離して、ください」
「断ると言ったら」
「人を……呼びます」

 鼻先で笑う声を聞いた。今この聖堂にはカインしかいないことを知っているのだろう。掴まれた髪に引きずられるようにして顔を上げる。蔑み、嘲るような瞳が間近い。心臓の音が煩い。
 カインの耳たぶを生あたたかい舌が舐る。

「また、呼べないようにして欲しいのか?」
「っ……! ち、が……う」

 引きつる喉からかすれた声が漏れる。また、と囁かれたたった一言だけで、辛うじて取り繕っていた平静が脆く崩れる。
 整った白い顔にはっきりと怯えが浮かぶ。間近で伊吹が喉を鳴らして笑うのが聞こえた。

「相変わらず嘘を吐くのが上手だな」

 揶揄と共に、無骨な指先がカインの法衣の襟元をくつろげる。半ばほどまで露出させられた白い胸元を、大きな掌が撫でさする。蒸し暑いほどの気候だというのに肌が鳥肌立った。

「離し、なさい。私は……男娼になった覚えは、ありません」

 落ち着いた声を探すのに苦労した。感情を込めずに言葉を口にすることが、これほど難しいとは知らなかった。
 揺らぎもせずカインを見つめ続ける伊吹の瞳が細くなる。

「へえ? 真昼間から道端で見知らぬ男に犯されて散々よがってた聖職者さまは、さすが言うことが違うねえ」
「な……っ」
「写真、見たぜ」

 懐から数枚の紙片が取り出される。写っているのが何かなど確認せずともわかる。白日の下、乱れた法衣を纏うカインが大柄な騎士に犯された、あの日の姿が収められているのだろう。
 ほら、と見せつけるように写真を広げる伊吹の姿が、そのときの騎士の姿と重なる。くりかえされる悪夢に眩暈がする。どうすれば逃げることが出来るのかと、どれだけ考えてもわからない。
 どこで道を間違えたのだろう。
 常に正しくあれと、そればかりを望んできたというのに。
 取り返そうと手を伸ばす気にもなれなかった。俊敏さでも力でも、目の前のローグに敵うとは思えない。絶望よりもやわらかに諦めが降り積もる。

「男娼でなけりゃ、ただの好き者だな」
「違う!」
「はっ。何が違うってんだ?」

 カインの返答に伊吹は鼻先で笑う。扇状に広げていた写真を纏めて、また懐へしまった。その写真が後でどう使われるのかと気になりはしても具体的には想像できない。
 蒼白なカインの顔を見下ろす伊吹の顔が、ふと笑みを浮かべる。

「ああ、そうか。おやさしい聖職者さまだもんなあ。金なんぞ貰わなくたって、求められれば奉仕してくれんだよな?」

 その体で、と奇妙なまでにやさしい声が耳に吹き込まれる。怒りと屈辱とに、カインの頬は朱に染まる。ぶつけたい感情はいくつもあるのに言葉にすることができない。何を言ってもこの男には届かない気がした。
 何を言えば目の前の男を傷つけることができるだろう。知らぬ間にそう考えていた己に気づいてカインは息を呑む。今まで意識したことのないような悪意が己の中にたしかにある。それを自覚してしまった。衝撃の大きさに胸が苦しい。

「俺にもしてくれんだろう?」
「っ誰が……貴方などに!」
「てめえみてえな淫乱にも好みがあるのか」

 嘲る言葉が胸を刺す。髪の毛を掴む手に力が入った。鈍い痛みにカインは眉間に皺を寄せる。

「男娼のように体を売るつもりはありません。まして、自ら進んで……そのような背徳にふけるなど」

 ありえるはずがない。以前のことはすべて、何かの悪い夢か冗談だ。さして親しいわけでもない者に気安げに触られることさえ疎ましく思うのに、どうして交わることを好ましいと思えるだろう。
 否定する言葉に返るのは黒く冷たい視線ばかり。カインの抗うさまを観察しては嘲っているかのようだ。
 何故、己がこのような目にあわなければならないのか。怒りにも似た感情が沸き起こる。いまだかつて味わったことのない激しい感情だった。

 ――憎いか?

 伊吹の声が蘇る。
 胸の中に溜まるこの靄を憎しみと呼ぶのだと教えられた。今までもつ必要すらなかった感情は、反動のように強くカインを揺さぶる。
 初めての感情を制御する術をカインは知らない。その黒いものに流され、呑み込まれないようにするのが精一杯だった。

「背徳? なら、てめえらが後生大事に崇めてるカミサマとやらは何なんだ。あんなものの方がよっぽど、残酷で罪深いんじゃねえのか?」
「慈悲深き父なる神に、何という暴言を……。それも、主の力の宿り給う神聖なるこの場所で」
「慈悲深い……。慈悲深い、ねえ」

 棘のある笑みが伊吹の唇を歪める。愚か者を哀れむような瞳がカインを見下ろした。反射的に後ずさろうとする体を、髪を強く掴んだ手が許さない。

「ならどうしてカミサマとやらは、今こうして逃げたがっているてめえを助けてくれないんだ? 何故、俺を罰しようとしない」

 何故だ、とくりかえし耳に吹き込まれる。
 常ならばこの無邪気とも思える問いに、穏やかな笑みと共に教えを説いただろう。どのようなときでも信じれば神の慈悲の降り注ぐことを感じ取れると。救いの御手は求めれば必ず差し伸べられると。
 カインは一言も発せないまま、伊吹をただ見つめ続ける。直視したくない。認めたくない。このような男の言葉に、己の信じてきたものを僅かなりとも揺さぶられたなど。
 沈黙を保ったままのカインに、伊吹は喉の奥で笑みを漏らした。

「ほらな。カミサマなんて、いない」

 救ってくれるものなどあるはずがない。
 伊吹の顔が近づいてくる。厚い唇がカインの鎖骨に触れる。

「救いなんて、どこにもねえんだよ」

 骨の上から強く噛まれる。がり、と音が立った。痺れにも似た鈍い痛みがじわりと広がっていく。
 あるのは絶望だけ。そう教えるように何度も何度も歯が立てられる。
 髪を掴む手を振り払い、視界を遮る逞しい肩を突き飛ばして、その間に逃げてしまおうか。もしかしたら逃げきれるかもしれない。
 が、逃げた後のこと、逃げきれなかったときのことを考えると途端に身が竦む。硬い拳で打ち据えられ、酷い辱めを受けるのではないか。あるいはまた街の人々を殺すと脅されるのではないか。
 カインの内心を見透かしたかのように伊吹が笑う。

「たとえば今から外へ出て枝テロを起こしても、てめえらの大好きなカミサマは何もしちゃくれねえ。ガキが目の前で魔物に食われても、火がついても、家が崩れても、何もしやしない。どれだけ信じても、祈っても、何も返しちゃくれねえんだよ」

 くりかえし噛まれた皮膚の下には赤く血が溜まる。じんじんと熱く痛む上から伊吹がきつく吸う。皮膚越しに、溜まった血を吸いだそうとしているかのようだ。

「貴方は、何が……したいのですか。今更……何をしにここへ来たのです」

 街にも、カインにも、あれだけのことをしておいてまだ足りないと言うのか。まだなお、することがあると言うのか。
 責めるように伊吹を睨みつける。平然と受けとめ、流されるのが口惜しい。カインの真新しい憎悪など気にもとめない風だ。

「何だ。もっと早く会いに来て欲しかったのか?」
「誰が……! 貴方になど、二度と会いたくはありませんでした」

 叶うことなら、あのテロの日にも出会いたくはなかった。あのときに出会いさえしなければ、今こうしていることもなかったのだ。それを思うといてもたってもいられなくなる。胸が苦しい。

「また抱いてくださいと、泣きながらせがんだのは誰だった」

 伊吹にかけられた明け透けな言葉に、頭に血が上る。怒りのあまり言葉が出てこない。気を落ち着けようと食いしばる奥歯が ぎり、と音を立てた。
 細い銀の髪を掴んだ伊吹の手が、答えを促すように小刻みに揺れる。

「あれは貴方、が……。貴方が、無理に言わせたのでしょう!」

 そのときの屈辱と羞恥を思い出すと全身から血の気がひいて、指先までが冷たくなる。それでいて法衣に包まれた体の奥底には、えもいわれぬ熱が灯る。それが怒りによるものなのか、そのときの記憶から引き出され蘇ったものなのか、判別できない。
 何故、とカインは唇を噛む。何故はっきりと怒りによるものだと断言できないのか。苛立たしい。何もかもをあのときに壊され、狂わされたというのに、何故。
 誰のせいでこうなった。誰のせいで。
 カインの思いなど微塵も気にかけた様子のない伊吹を見るのが、口惜しくてたまらない。やるせない。何故この男はこんなにも他人の気持ちを無視できるのだろう。

「何の役にも立たない連中を『殺さないでくれ』と泣き縋って、てめえが勝手に庇ったんだろ? 俺はそれを叶えてやった。……感謝されても良いくらいだ」

 ふざけるなと言おうとした。言葉が出てこない。怒りに、憎しみに、苦しみに、痛みに、かなしみに、喉が詰まったまま声を通さない。
 もうこの男の低い声を聞きたくない。触れられた髪の先から、胸元から、声を吹き込まれた耳から、肌から、穢れて爛れていきそうな気がした。

「……貴方、が。私の望みを叶えると言うのなら、この手を離して今すぐに出て行ってください。二度と……私の前に姿を現さないでください」

 震えを隠そうとして声に力が篭る。感情をなくした声をつくろうとしても上手くいかない。語尾は悲鳴に似た響きを帯びていた。
 伊吹の唇が愉快そうに歪む。

「良いぜ、それがてめえの望みなら」

 笑みさえ浮かべながら伊吹は軽い口調で請け負う。承諾されたことに安堵の息をつきながらも、その軽快さが逆にカインの胸に影を落とす。聞く者を不安にさせる声音だった。

「真夜中に枝テロってのも、たまには良いしな」
「っ……伊吹!」
「冒険者たちは寝てるか出払ってるかしてんだろうし、常駐してるような騎士団員はあてにならねえ。街の弱い連中も寝てて避難が遅れるだろうなあ。こりゃ、この間のテロでの記録も更新できるかもしれねえな」

 カインの漏らした悲鳴を意にも介さずに紡がれた言葉が、呪詛のように纏わりついてくる。恐ろしい内容が他愛ないゲームか何かのように語られる。冷たい汗が背筋を伝った。

「ああ、てめえはここから出てくるなよ。二度と姿を現すなって言ったのはそっちなんだからよ」

 痛みを覚えるほど強く掴まれていた髪から指が離れていく。手が完全に引かれてしまえば、伊吹は言葉どおりに外へ出るのだろう。そして、その後も言葉どおりに。
 あの日に聞いた悲鳴が、泣き声が、呻き声が、カインの脳裏を過ぎる。あちらこちらで上がる火の手、崩れた民家、逃げ惑う人々の足音と恐怖に歪む顔……そうしたものが幾重にもかさなって蘇る。
 そのときでさえ充分すぎるほどに悲惨だった。それ以上のことが再び起こったら。想像するだけで動機が激しくなる。

「じゃあな」

 指が、完全に離れる。
 伊吹が踵を返すのが見えた。

「待って……ください」

 咄嗟に伸ばした手が伊吹の手首を捕らえる。
 即座に打ち払われるかと身構えたが、何も起こらない。ただゆっくりと伊吹が足を止めた。暗い瞳がカインを振り向く。いかにも面倒くさそうな表情がわざとらしく浮かんでいた。

「お綺麗なプリーストさまが俺みたいなごろつきに まだ何か用か?」

 嘲りを含んだ声がかけられる。
 怒りや屈辱を呑み込もうと己をコントロールするだけでカインは必死だった。蒼白な顔で、頭ひとつ分は高い位置にある伊吹の顔を見上げる。

「どう、すれば……テロを、思いとどまってもらえますか」



















2006/07/20
  伊吹さんはこの日のために一生懸命コンロンで枝を集めました。