罪過
プロンテラ大聖堂の奥には、奉仕に来た聖職者たちのための控え室がある。
眩しいほどに夕日が差し込んでいる。ローテーブルを挟んで向かい合う二人のプリーストの姿が影絵のように浮かび上がっていた。
遠くから子どもたちの騒ぐ声が聞こえる以外は、何の物音もしない。
「アルに、言われたんだ」
沈黙を破ってヴァレリオが口を開く。
眉を下げ、困り果てた風だというのに淡く微笑んで見える。彼の穏やかな心根が表情や顔つきにも表れているからなのか。
朱色の手袋に包まれた指がティカップに触れては、持ち上げないまま離れる。
「主と、アルと、どちらを選ぶのかと」
「そんなの……」
「選べるはずがないんだ、そんなこと。でも、もしも選ばなければならない時がきたとしたら、俺は一体どうするんだろう」
そんなの、決まっているではないか。
聖職者として生きると決めた以上、何をおいても主の教えに従い生きるのが当然ではないのか。
そう思うのに、俯いたままのヴァレリオを前にすると口に出せなくなる。
言葉にならない痛みが胸の奥でわだかまる。
痛みは霞の向こうに見える景色のように遠く、近い。とらえどころがない。
選ばねばならないときがくることさえ信じられなかった。
己の心は常に胸の十字架と共にあるのだと信じていた。
* * *
「カイン」
落ち着いた、やわらかな男の声が呼ぶ。
聞き知った声に目を開く。真っ先に飛び込んできたのは、心配そうに眉を下げたプリーストの茶の瞳だった。その向こうには、夢の中と同じように夕日に染まった控え室が見える。二度、三度と瞬きを重ねる。ぼんやりしていた視界が次第にはっきりしだす。
「……ヴァレリオ」
掠れた声で名前を呼ぶのも、彼と同じ黒い法衣を纏ったプリーストだった。古いソファの上で銀の髪を寝乱している。起きたばかりで、手袋の中の指先までが冷たい。
己が何故ここにいるのかわからないのだろう。覚束なさそうに視線を揺らしている。青白い顔に疲労の色が濃い。寝足りないのか、寝ても眠りが浅いのか。鈍い頭痛を首を振って堪えている。
「ここ、は……」
「控え室だ。礼拝の後、話している最中に急に倒れて……覚えているかい?」
カインは言われてようやく倒れる直前の光景を思い出す。
朝の礼拝が終わった後、司式者だったヴァレリオをねぎらいながら雑談をしていた。ヴァレリオの相方のウィザードが迎えにくるまでの立ち話だった。
十分も経たずにアルカージィはやって来た。彼らが合流した後はカインは大聖堂へ戻るつもりだった。ヴァレリオたちが話しているのを聞きながら別れを切り出すタイミングをはかる内、眩暈がした。
身を支えることも出来ずにいたカインを抱きとめた腕を覚えている。
「はい。その、……ずっと、ついていて下さったのですか」
「他の雑事の手伝いをしながらだから、つきっきりというわけではないが」
首肯を返された。
カインに気遣わせないようにと付け加えられた言葉も、本当のことではあるのだろう。だがカインが倒れることがなければ居残ることもなかったのだ。二人が朝、今日は景色の良いところへでも出かけようかと話していたのを聞いている。
己のせいで二人の予定を邪魔したのだと気づく。胃の底に重いものが落ちた。
のろのろと身を起こす。息苦しいと思ったら襟元を閉めたまま寝ていたようだ。以前カインが襟元をくつろげることを異様に拒絶したのを、覚えていてくれたのだろう。
「……迷惑、だったかな」
何も言わないカインの気に障ったと思ったのだろう。ヴァレリオが遠慮がちに声をかける。伏せられた瞳が憂いを帯びている。
「いいえ。迷惑をかけたのは、私の方です。謝罪すべきなのも」
「そう、かい?」
「はい。ですから、……」
何も悪いことなどしていないのに自分を責めないで欲しい。気に病まないで欲しい。責められるべきはカインの方なのだから。
伝えたい想いはあるのに言葉にならない。どう言えばヴァレリオを傷つけずに伝えられるのだろう。カインは、己の言い回しがしばしば人を傷つけることを知っていた。
沈黙が二人の間に落ちる。
窓辺に立つヴァレリオへ視線を向ける。
彼のくすんだ金の髪に夕日がよく映える。思い出すのは遠い昔に遊んだすすきの原。己の背丈よりも高いすすきに目隠しをされた。進むべき道をたしかに歩いているはずなのに、どこへ行くことが出来るのかわからなくなる。一体どこへ行こうとしているのかさえも。
「以前にも自己管理をしっかりしろと言われたというのに……。また迷惑をかけてしまいました。暑さのせいでしょうか、眠りが浅くて」
小さく呟くようなカインの声にヴァレリオが首を振る。
「迷惑だなんて思っていないよ。それはどうでも良いことなんだが……」
そこまで言ってヴァレリオは口を閉ざす。言葉を探しているのだろう。己の想いを言葉にするのが苦手なところばかりが似ている。もっと良いところが彼と似れば良かったのにとカインは一人溜め息をついた。
「申し訳ありませんでした。次がないように気をつけます」
「カイン……」
そうではなくて。声にならない言葉までがカインの耳には届いた気がした。それに応える術をカインは思いつかない。
いっそ責めてくれれば良い、無理に暴いてくれれば良い。そんな身勝手なことを思う自分に気づく。戒めるように胸元へ手をやっても、そこにはやはり十字架はない。
「喉が渇いただろう。何か持ってくる。少し待っていておくれ」
「あ……」
そこまでしてもらうわけにはと口を開いたときにはもう、ヴァレリオはお茶を淹れる準備を始めている。楽しそうな鼻歌まで聞こえてくる。
ゆっくりと体を起こす。妙に体がだるい。もはや原因を探す気にもならない。
布の落ちる音に目をやれば床には白いタオルケットがあった。ヴァレリオがかけてくれていたのだろう。申し訳なさと同時に、いやそれ以上に感じるのは強い恥辱。そしてまた、そう思うことへの罪悪感と、そんな自分への羞恥心。
「勝手に淹れてしまったが……紅茶で良かったかな」
「あ、はい。ありがとうございます」
「どういたしまして」
カインの前に白磁のティカップが置かれる。その向かい側に腰を下ろし、ヴァレリオ自身も遅いお茶の時間を楽しむ心積もりらしい。
あまり甘いものが好きではないカインのためにか、最初からミルクも砂糖も添えられていない。気づいたカインはわけもなく心が安らぐのを感じた。
カップを手にとるとやわらかな湯気が顔に心地良い。カモミールの香りが強張っていた心身を解きほぐしていくのがわかる。
「まだ休んでいくかい? 戻るなら家まで送るが」
「今日は夕礼と夜番の担当ですから。このまま、こちらで休ませて頂きます」
「頼むから無理はしないでくれよ。体調が優れないのなら俺が代わるから」
「ありがとうございます。ですが、気持ちだけで充分です」
ヴァレリオを安心させるために微笑む。顔が強張って、上手く笑えていない気がする。それを彼に見抜かれているような錯覚を覚える。
紅茶で喉を潤して気持ちを抑える。舌がやけに苦い。
空腹だったとようやく気づく。最後に食べたのがいつだったかと思い返す気にもならない。余計なことまで思い出してしまいそうだ。カインは背を震わせる。押さえつける手の重みを、熱を、まだ克明に覚えている。思い通りにならないからだの痛みも、何もかもを。あれからもう一ヶ月以上過ぎたというのに。
それでいてそれ以降の記憶はどこか曖昧だった。ほんの一日のつもりで数日が経過したかと思えば、数ヶ月のつもりで数時間と経っていないこともあった。
神へ祈ろうとする度に拒まれたように感じる。こんなことは今までなかった。今までは。あの時からすべて変わってしまった。奥歯を噛み締め、カインは俯く。
「ああ、そうだ。何か食べるものを持って来よう」
「いえ……」
「ずっと眠っていたから昼は当然として……。もしかして、朝も食べていないんじゃないか?」
「……わかりますか」
「その状態で夕礼に出るのは無理だ。何か見繕ってくる。夜番の時間まで、食べて休んだ方が良い。夕礼には俺が代わりに出ておくから」
微かな衣擦れの音と共にヴァレリオが立ち上がる。ですが、と言いかけるカインを制するように微笑む。
「カインが元気になったら一度、夜番を交代してくれると嬉しい」
「…………。貴方は夜が弱いですからね」
「面目ない」
照れたように笑ってみせる声がやさしい。慣れない冗談を口にしてまで気づかってくれている。カインのプライドを傷つけないようにと選ばれる言葉が心地良い。そのまま、ずるずると寄りかかって甘えてしまいそうになる。踏みとどまるのに全力を尽くさなければならなくなる。
調理スペースに立つヴァレリオの姿を見つめる。背を向けられているのに見守られているようで、安心する。彼と比べれば自分はと、カインは溜め息をつく。
もしもヴァレリオがあの時のカインと同じ状況に置かれていたら、どうしていたのだろう。そんなことをふと思う。壁へ押さえつける手を受け入れるのだろうか、最後まで抗うのだろうか。それとも最初から、持ち前の慈悲でテロ犯をも癒してやったのだろうか。
仮定の話になど意味はないのに。
「お待たせ。本当に簡単なものしかなかったが……」
「充分です。手間をかけさせてしまって、何とお詫びしたら良いか」
「気にするなと言っただろう。カインが元気になってくれることが何よりも嬉しいよ」
その手伝いができるのなら、なおさら。
やわらかな落ち着いた声が心にしみる。そのやさしさに甘えてはいけない。頼ってはいけない。わかっているのに。
ローテーブルに置かれたのはスコーンを盛った白い皿だった。ヴァレリオが作ったものを持ち込んだのだろう。同じく手作りであろうラズベリーのジャムが、小さなミルク差しに入って添えられている。
「ありがとうございます」
乱れたままだった銀の髪を指先で整えた。食前の祈りを短く紡ぐ。口にした言葉のひとつひとつがカインの胸に、鈍い痛みと共に降り積もる。重くなっていく。
彼の厚意を無駄にしてはいけないとスコーンに手をつける。ヴァレリオの作ったスコーンはカインも好物だった。素朴な人柄そのままのやさしい味がする。これならば食べられる、食べたい。そう思うのに。
半分ほど口にしたところで食べられなくなった。紅茶で流し込むようにしてもそれ以上は入らない。手にした一欠けらを運んでは口に入れることもできず、皿に返してしまう。
気安く食べられるようにと席を外していたヴァレリオが戻ってきた。食べようとしては食べられないカインを見かねてか眉を顰めながら声をかけてくる。
「食べきれないのなら残して構わないんだよ」
「ですが……」
「無理をするのは辛いだろう」
痛む胸にいたわりが甘く沁みる。カインが辛いと言えばヴァレリオは何をおいても支えようとしてくれるだろう。己の生活を捨てることになってでも。ただ数年の月日を共に過ごしただけなのに。やたらと仲の良い相方もいるというのに。それでもなお不相応なほどに大切にしてくれる。
だからこそ頼ってはいけない。頼れば必ずや応えてくれる人だ。そんな人に頼れるほどカインは強くない。
俯き、顔を隠して感情も隠す。ヴァレリオは何も言わずにいる。言うべきことは一度で良いと心得ているのだろう。やわらかな視線だけを感じる。沈黙が続く。
僅かな気まずさを感じはじめた頃、夕礼の支度を促す鐘が響く。
「じゃあ行ってくるよ。トーマス司祭や参席者には俺から言っておくから、カインは気に病まずに休んでいてくれ」
先回りするように言われては黙って頷くしかできない。
まだふらつく足でソファを立つ。カインの見送りに微笑み返して、ヴァレリオは控え室を出て行く。軽い音を立てて扉が閉まった。
彼がいなくなると途端にカインの周囲へ寒々しい空気が押し寄せてくる。もう夏も間近いというのに。部屋の隅から、窓辺から、悪意ある者が忍び寄ってくるかのように感じられる。
「っ……」
己の体を抱くように腕を回して背を丸める。扉の向こうではヴァレリオと他の司祭たちが談笑している。ヴァレリオはいつもあちら側にいる。カインはいつもこちら側にいる。そんな錯覚を感じる。
彼とカインを分けるものは何なのか。考えても答えが出るわけではない。出るはずのない答えを求めて蹲りつづける己が惨めに思えた。
――どうかおまもりください。
短い祈りの言葉でさえ口にすることを躊躇ってしまう。
こんな状態なのだから司式者を代わってもらって良かったのだと懸命に言い聞かせる。これ以上、醜い感情が起こらないように。
断ち切るように首を振る。
紅茶を含んで口内を湿らせる。
安らぐはずの香りは効かず、苦味だけが残った。
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