オーブリエチア(9)
二月の終わりに近づくと、プロンテラの周辺にも雪がちらつくことが多くなった。
街へ補給に戻る度に深くなる雪を伊吹は内心で喜んでいた。この雪が、次にルナが戻ってくるときまで残っていれば良いのにと思う。そう願っていれば雪が聞き届けてくれはしないかと思いもした。冗談にもなりはしないと一笑に付しては、心の片隅でまた願う己に気づいて、伊吹は苦笑する。
今日もまた狩りを終えた後でモロクまで足を向ける。沈みゆく太陽を追いかけるように足早に、息を切らせるほどに駆けてピラミッドまで辿り着く。いつもルナと眠りにつく場所まで迷うことも、足を止めることもなく進む。
袋小路のひとつ、人も魔物もあまり入り込むことのない通路の奥。
違和感があった。
何故と己に問うて初めて、ルナの姿がないからだと知覚する。
一週間もしない内にルナは、伊吹の来る頃になると必ずこの場所へ戻ってきてくれていた。それがあまりに当然のように行われていたから、突然に姿を消したように思えて動揺したのだろう。
今日は、来るのが遅れているだけだ。そう己へ言い聞かせて伊吹は壁にもたれて座りこむ。あれほど熱かった体が次第に冷えていくのが、よく感じられる。石を通して伝わる冷気に馴染みだした己の体に怖気が走った。
(ルナは、よくこんな死人臭い所に長く留まれる……)
溜息混じりに呟いては、その呟きを誤魔化すように大きく欠伸をする。今日の狩りは常に比べてハードだった。ルナに会うまでは一睡も出来ないと思えたが、体はやはり疲れていたようで気づいたときには朝だった。
慌てて見回してみるが、ルナの姿はない。
伊吹の胸に不安が影を落とす。影は次第に大きくなる。いても立ってもいられずに地下へ向かう階段を駆け下りた。ミノタウロスたちの合間を走りぬけ、エンシェントマミーたちの巣食う階まで行く。ハエの羽であちらこちらを飛び回りながら、ルナの姿を探し、名前を呼ぶ。
どれほどの時間が経ったか、全身が疲労に硬くなってきてもルナの姿は見当たらなかった。
「ルナ……?」
不安を外へ捨てるかのようにその名前を呼ぶ。応える者はない。己の声が僅かに木霊しては、時の壁に吸い込まれていくばかりだ。
周囲にはモンスターの気配もなく、地の底で一人きりだ。ともすれば己の身すら死体であるかのような錯覚に襲われる。
眩暈がした。もうここにいたくないと、体が、心の底が軋みを上げている。けれどルナを探したい。矛盾した思いに心臓が痛む。
ぜ、と荒い息をついて伊吹は額の汗を拭う。
ルナへWisを送れば良いのだと気づいたのは、探し始めて数刻も過ぎてからだった。ハエの羽も切れて散々に走り回った己の動転ぶりに乾いた笑みを浮かべ、伊吹は溜息をつく。
ふと、以前にヴァレリオから送られてきたWisを思い出す。彼もまた、伊吹へWisするときにこのような心持だったのだろうか。今となってはせん無いことと目を閉じてやり過ごした。
『ルナ?』
恐る恐る話しかけてみる。言葉には出来ない、確かに相手にこの声が届いているという手ごたえめいたものはある。が、ルナからの返答はない。嫌な予感が伊吹の胸を過ぎる。
この階は隅々まで探した。途中でまれに見かけるパーティやソロの冒険者たちに、ルナの特徴を挙げて尋ねてもみた。もしやと思い、他の階にも足を伸ばしてみた。どこにもいなかった。
もうピラミッドへは来ていないのだろうかと伊吹は首を傾げる。移動するにしても、次の新月までにはまだ間があるはずだ。
不安に暗い心に、ルナの小さな家が思い出される。胸騒ぎがした。行ってみようと思った。僅かな可能性でも思いついたならば即座に実行してみなければいられないほど、伊吹は焦っていた。
懐から取り出した蝶の羽を握りつぶす。
瞬く間にはもうプロンテラにいた。
先ほどまでしんと静まり返ったかび臭い中にいたのが、今は活気に満ちた人々の中にいる。その落差の大きさに伊吹は目を閉じ、そっと息をついた。
はやる鼓動を無理に抑えつけて駆け出す。人波の合間を縫って進むうち閑静な住宅街へ出る。細い路地の角をいくつも曲がる。程なくしてルナの家につく。人々から忘れ去られたかのようにぽつりと存在するその家は、明るい日差しの中でどこか寂しげに見えた。
木の扉を手荒に叩く。応えはない。もう一度叩く。やはり応えはない。不安に焦れてノブへ手をかける。あ、と思う間もなく、不思議なほど軽々と扉が開いた。
「ルナ……いるか?」
僅かに掠れた声で問う。乾ききった喉が痛い。最初に目に入ったのは、すべてを拒むかのような窓の跡だった。隙間なく打ち付けられた板が、痛々しい。ついで、床に倒れたまま放置された小さな丸椅子。
どくん、と心臓が大きく軋む。
その椅子の手前に白い手があった。腕を辿ればプリーストの衣装を身につけたままのルナの姿が目に映る。目を閉じたままの白い顔に一瞬思考が止まる。
「ルナ!」
短い悲鳴めいた声が漏れる。ルナの側にしゃがみこみ、その体をそっと抱き起こした。ちゃんと、あたたかい。伊吹の声にようやく気がついたのか、ルナが微かに震えながら瞼を開く。しばらくぼんやりと視線を彷徨わせたあと、赤い瞳が伊吹を向く。
「いぶ……き……?」
ゆったりと夢見るように瞬きをくりかえしながら、囁くようにルナが呟く。いつもより力ない様子ではあったが、声を聞いて伊吹はようやく安堵の溜息をつく。
「食事の支度をしようとしたのですが、椅子に躓いてしまって」
「……気をつけろ」
嘘だとわかっているのに、それを口にする勇気が伊吹にはなかった。ならば何故鍵を開けたままにしていた。何故、倒れたままでいた。そもそも何故、新月までに間があるのに戻ったりしたのか。
疑問ばかりが、胸をしめているのに。
「綺麗……」
「あ……、悪ぃ」
ルナの言葉に、動転して扉を閉め忘れていたとようやく気づく。
今すぐに閉めると手を伸ばすのを、ルナの白い手が留める。
「お願いですから、もう少しだけ見させてください。……ああ、日の光があるだけで、同じ部屋がこんなにも美しく見えるものなのですね……」
「ルナ」
言い募ろうとする伊吹へ、ルナの無言の訴えが向けられる。揺らぎそうになる心を堪えて伊吹は振り向きざまに扉を閉めた。再び部屋は暗くなる。互いの顔を判別することさえ難しい。
明るい住宅街の中にこんな暗闇のあることが奇妙だ。
「ルナ。ベッドへ……」
「……お願いが、あります」
「何だ」
ルナの珍しい言葉に、薄い背を支え起こそうとする手を止める。その腕に身を預けたままルナがぽつりと呟きを落とす。その言葉があまりに意外で、聞き違えたかと伊吹は眉を顰める。もう一度と促しながら耳を近づければ、くりかえされるのは先と同じ言葉。
外へ連れて行ってください。
今しがた聞いたばかりの言葉を何度も反芻する。戸惑いと、不安と、疑念と、よろこびと、様々な想いが過ぎる。最後に残るのは、諦めだった。伊吹のどんな言葉も問いも受け入れてくれなさそうな赤い瞳が伊吹を見つめている。迷う余地もない。
「……わかった」
小さな声で了承するのを聞いてルナがやわらかく笑む。それから、安心して力が抜けたかのように目を閉じた。満ち足りた様子の表情が、どこか遠い。
「椅子、片付けないといけませんね」
「俺がやっておく」
「すみません。……昔から、そうなんです。私は、物心ついたときから不器用で、周囲の方にご迷惑ばかりかけてきました……」
「そうでも、ねえだろ。それに、今までが不器用でも、これから少しずつでも器用にしていけば良いじゃねえか」
力の入りきらないルナの体を抱き、ベッドへ横たえさせる。肩まで毛布をかけてやりながら柄にもない台詞をかける。誰かを気遣うなど初めてのことで、むず痒い。ルナはどこか寂しそうに微笑んで、黙って頷いた。伊吹が気まぐれに撫でた白い額は熱を帯びていた。
ルナが寝入るまで伊吹は黙ってベッドに腰かけていた。
遠くに聞こえていた雪の泣き声が止んだようだ。光量を抑えたカンテラの灯りでルナの寝顔に見入る。白い顔は変わらずに美しいが、少し痩せたように見える。ルナは、雪の中から赤い実を掘り出したときのような喜びと、冷たくなった指先から感じるような訳もないせつなさとを思い出させる。
愛しげにその顔を見つめては時折口づけを落とす。神聖なものへ触れる心持に伊吹は苦笑した。神聖なものなど己には似合わない。神はいつも伊吹の傍にない。神など信じたこともない。傍にあるのはいつも、血と肉と痛みと飢えと絶望だけだった。
それでもルナの傍には神があるのかもしれないと伊吹は思う。ルナがそう信じるのならルナの世界には神がいるのかもしれない。ルナの瞳には伊吹の傍にも神の姿を捉えることが出来るのかもしれない。そう思うと伊吹は泣きたい想いに駆られる。
そうであれば良いと思う。
ルナがそう信じるのであれば、そうであれば良いと思う。
ルナ一人の想いで足りないのなら自分もまた共に願おう。
素直にそう思える自分のいることが伊吹には不思議だった。
その新たな不思議はこの上ない心地良さをもたらした。
伊吹は神への祈り方など知らない。知らないが、祈る心持で何度も何度もルナへ口づけた。夜が明け空が白むまでそれは続いた。
日が高くのぼる頃までルナは目を覚まさなかった。
* * *
「……本当に大丈夫なのか?」
西門からプロンテラを出た先にある平原を歩きながら伊吹は尋ねる。時折よろめくルナが危なっかしくて、細い腰に腕を回して支えている。本人は恥ずかしいからと断ったが、日よけの布を深く被れば大丈夫だと押し通した。
伊吹は心配性だと微笑みながらルナが顔を上げる。初めて日光の下で見るルナは、炎の灯りを通して見るよりも綺麗で儚げに見えた。
「今日は、いつもよりも体調が良いくらいです」
「……なら、良いんだが……」
「もう少しで水辺ですね。聞いた話だと、川の側に木陰があって心地良いのだとか」
声が、無理にはしゃいでいるように聞こえた。止めるべきではなかったかと自問の声が頭の内で響く。答えは出ない。ルナがあれほど強く何かを頼んだことは、恐らく初めてだっただろうから。あれほど行きたがっていたのだから。いくつ理由をつけてみても最後に残るのは、ルナと共に外を歩いてみたいという己のエゴだった。
今まで己の欲望に任せて行動してきた。それが間違いなのではないかと、ここへきて初めて思う。言い出せないまま歩く内にせせらぎの音が聞こえてきた。冬の終わりのやわらかな光で、遠目にも川面が眩い。
西門から離れるにつれて木々が多くなってきた。寒さの中でも葉を落とさず凛と背を伸ばす木の緑が、積もった雪の白に映えて美しい。
一際背の高い木を中心に、低木の茂る一帯があった。木陰に座って足を伸ばせば水に届きそうなほど近くには川がゆったりと流れている。時折、鳥の鳴く声が聞こえる。
「少し、待ってろ」
普段とは異なり子どものように周囲を見回しては無言の歓声をあげるルナに言い置いて、伊吹は先に木へ向かう。広げられた枝葉の下にも僅かに雪は積もっていた。それを軽く払ってから、古くなった分厚い毛布を地面へ敷く。
「座っておけ」
「はい……、ありがとうございます」
樹の側まで付き添って歩く。腰を下ろそうとするルナへ手を差し伸べると、何も言わないまま素直にルナの指先が触れた。ルナが樹の幹へもたれるように座る。
「サングラスを用意しておけば良かった……」
頭から被っていた日よけの布をずらしつつルナが呟く。眩しそうに目を細めては、それでも、いくら眺めても飽き足らない様子で景色を見つめ続けている。
「俺だけ戻って、買って来るか」
「いえ、……傍に、いてください」
「………………わかった」
どこか弱々しく零れた言葉に伊吹は一瞬目を瞠る。
こんなことを言う人だっただろうかと、不安がまた胸の奥にくすぶる。その疑問の先にあるものを見たくなくて伊吹は目を伏せた。ルナの隣へ寄り添うように座る。僅かにまた、胸が痛んだ。
木の根の上に積もった雪へ指を伸ばしては、届かずに溜息をつく。いつも大人びて感じていたルナのそんな子どもじみた姿が愛しくて伊吹は僅かに目元を和ませる。こんな己の姿を見たらヴァレリオたちは何と思うだろうと、ふと自嘲が漏れる。
「綺麗ですね」
「そうか?」
「綺麗です」
「俺にはわからねえよ」
「川のせせらぎ、太陽の日差し、鳥のさえずり……。雪の眩しさも、樹の息吹も、……何もかも……。――ああ……、これが神の創り給た世界……」
とりとめのない呟きと共に、ルナの瞼がゆるりと閉じた。
そっと零れた吐息につられたように涙が一粒、白い頬を伝い落ちる。
「……ルナ」
何故泣くのかと尋ねることも出来ず、ただ名を呼ぶことしか出来ない。伊吹がかつて与えた名前。それだけが己と彼とを繋ぐ唯一の絆であるかのように。
伊吹の声に応えてルナが瞼を開く。涙をたたえた赤い瞳がしばし彷徨い、ようやく伊吹を捉える。プリーストにと支給された朱の手袋に包まれた指先が伊吹の頬へ伸ばされた。覚束なげなその仕草に手を伸ばし、やわらかくその手を掴み、己の頬まで導く。
触れさせた手は、手袋越しにもわかるほど、あつかった。
「もうひとつだけ、お願いがあります」
「……何だ。ひとつと言わず、いくつでも言ってみろ」
「名前を……呼んでは頂けませんか」
「名前……?」
「もう私の他に知る者のない名を、生まれたときにつけられた名を……。伊吹には、……貴方にだけは知っておいて欲しいと思うのは、私の我侭でしょうか……」
先日からあった熱がまた上がってきたのだろう。途切れ途切れの声は小さく、苦しそうだった。一言も聞き漏らすまいと伊吹は神経を集中させ、耳を澄ます。
「我侭でも何でもねえだろ、それくらい。……お前が望むなら何度でも名前を呼んでやる。いつまでだって、覚えている」
忘れられるはずがない。
これほど鮮やかに心に刻み付けられた人の名を、どうすれば忘れることが出来るのか。
ルナの手を支え持ち、己の頬へ触れさせたまま伊吹は真っ直ぐにルナの瞳を見つめる。伊吹の真意を探るように何度か瞬きをくりかえした後で、赤い瞳がようやく笑みを浮かべる。
また、涙が零れた。
「ありがとう、ございます……」
「礼を言うほどのことじゃ、ねえよ」
「……私にとっては、それほどのことですから」
やわらかな笑みを浮かべ、ルナの唇が小さく動く。ともすれば木の葉のささめきにすらかき消されそうな微かな声は、けれど確かに伊吹の耳に届いた。
アベル、と。
伊吹はそれを、声には出さずにくりかえす。
胸が軋むように痛んだ。
それが何に由来するのか、わからない。ただ泣きたいほどの切なさと愛しさとが急速に心を満たしていくことだけを知っていた。
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