オーブリエチア(10)
風が凪ぐ。
鳥の声さえ一瞬、止まったように思える。
「アベル……」
確かめるようにもう一度その名を口に乗せる。常と異なる、苦味めいた味が口の奥に広がる。呼びかけたその横顔は、誰か知らぬ人のようであった。
アベル、とくりかえす。
応えるように白い頭がそっと、伊吹の肩へ摺り寄せられた。
心がざわめく。
「ありがとうございます」
「たいしたことなんて、してねえよ」
ぶっきらぼうに言い捨てる。それを否定するようにルナが微かに首を振る。細い髪の先が伊吹の首筋をくすぐった。
伊吹が身じろぐと、どこか怯えたように赤い瞳が見上げてくる。宥めるように頬へ口付けると、ほっとしたように息をつくのが聞こえる。
「何で……、名を隠した?」
ぽつりと漏れた問いにルナの細い肩が強張る。躊躇して目を伏せる様に罪悪感がこみあげる。聞かない方が良かったかと、また後悔が胸を締め付ける。
話したくないのなら話さなくて良い。そう言うことも出来たはずだった。
それを選ばなかったのは己のエゴだと嗤う声が、苦い。
伊吹が身動き出来ずにいる間に、ルナは俯いたまま口を開く。
「一度は、……一度は父の手によって終わらされたはずの、命でしたから。その時に捨てた名です。それに……。それに、初めから殺す気でつけられた名を、どうして名乗ることが出来ましょうか」
「父、親……」
聞きなれない単語を聞いた、という風に呟く。そんな伊吹の肩へ頭を預けたままルナが淡く笑む。ちらりと見やるその笑みが、世界の果てを見るように遠い。
二人を隔てるものが何なのかわからない。
わからないまま、ルナが言葉を継ぐ。
「私の父は、私の兄でもあります」
邪魔だったのでしょう、と寂しげな呟きが落とされる。
何を言うことも出来ずに伊吹はただ緩やかに首を振る。
近親相姦。
その末の子ども。
さして珍しいことではない。特に、伊吹の育った環境では。だというのに、それがルナの身の上に関わりがあるというのは、妙に現実離れして感じられた。そうした俗的なことからは一切、隔離された存在なのだと心のどこかで思い込んでいた。
伊吹の情欲も憎しみも、何もかもを溶かしてしまう、あたたかい人だったから。
「兄――いえ、父に首を絞められていた私を、埋めるからと言って引き取り、育ててくれた方がいました。その方の力添えで、生きながらえるだけではなく、こうして冒険者としての道を歩むことが出来ました。……けれど、その方ももう、数年前に天命を全うして――……」
語尾が微かに震え、途切れる。沈黙を埋めるかのように響く小鳥たちのさえずりが朗らかすぎて、余計に静けさが増す。
まだ物心もついていなかったはずなのに、罪の子と罵る声だけは克明に覚えている。そう語るルナの声は他人事めいていた。虚ろな響きが胸を冷やす。
ルナの髪を指先だけで梳く。恐ろしくなるほど軽い感触だった。艶のない白い髪へ指を差し込むだけでわかるほど、熱が高い。
「ルナ、……アベル。もう、戻ろう。……戻らねえと」
「もう少し、だけ。もう少しで済みますから」
「戻らねえと、だって……。こんなに熱が……」
「伊吹。お願いです」
吐息まじりの小さな声が伊吹へかかる。ルナの息の触れた箇所から広がるざわめきは、愛しさよりも恐怖に似ている。
「……これが、最期ですから……」
不意の突風にさらわれたルナの声が遠い。耳鳴りがする。今、何と言った。尋ねる言葉も出てこない。体が動かないのは何故だ。心が凍りつく。
嘘だと叫ぶ声がする。
知っていたと嘆く声がする。
やめてくれ。何故、何もかも奪っていこうとする。
言葉にすらならず、心が軋むばかりだ。
「死者たちとの交わりが長くなれば、……自然と、人の死期もわかるようになるのでしょう」
「そんなの……」
「……自分自身の死期さえも……」
「……勘違い、だろ……」
喉の奥から辛うじて搾り出した声に、ルナは俯いて首を振る。
一度だけ伊吹を向いた赤い瞳に胸が痛む。
勘違いではないことくらいわかっているだろう、と何かに嗤われた気さえした。
「自分の死ぬ場所を、選ぶことが出来た……。神に、感謝を……。ようやく、御許へ」
「行かせねえ」
「……伊吹……」
悲しそうな声が頼りなく揺れる。言いたいことはたくさんあるはずなのに、何も言えない。声にならない。言葉にならない。嫌だ、と掠れた叫びだけが、食いしばった歯の合間から漏れる。
ルナが口を開き、何かを言おうとして、また閉じる。
「ルナのいない世界に価値なんてねえ。お前がいなくなるのなら、こんな世界は滅びれば良い。お前を連れて行くと言うのなら、神なんて――」
心の軋みに耐えながら荒々しい言葉を口にする。伊吹の唇へそっとルナの手が触れた。腕を上げるのも辛いのだろうか。触れた指先から微かに震えが伝わってくる。
高熱に潤んだ瞳がゆっくりと開き、横から伊吹を捉える。
「そんなことを、言ってはいけません。伊吹、……私は……」
途切れた声に慌ててルナを見やる。顔を伏せ、肩で息をする様子が痛ましい。苦痛を堪えるように細められた瞳がそっと伊吹を向く。
「私、は……最期のときを迎える前に、貴方に……逢えたことを、……神に、感謝して……います。……逢えて、良かった……。――初めて、私を……」
「俺、は。ルナを……アベルを失うのは、嫌だ」
傍にいたいのだと言葉を重ねる。
傍にいてくれと言ったではないか。言えないまま口を噤む。
ルナの赤い瞳が悲しげに細まり、そのまま閉じられる。
乱暴に肩を抱き寄せても抗いは返ってこない。ルナに触れた箇所だけが恐ろしいほど熱い。燃え尽きる手前に明るく輝くロウソクの、ような。
「嫌だ。誰にも渡さねえ。神にだって」
「……伊吹」
「嫌だ。……嫌、だ……」
「伊吹……。――ごめんなさい」
「何で……、何で謝る!?」
「貴方が、……貴方に辛い思いをさせると……知っていた、のに。なのに、私は……私の、欲望のために、貴方を……。優しすぎる、人だから……」
声を荒げた伊吹と対照的に、ルナの声は辛そうに途切れながらも穏やかなままだった。遠浅の海に差し込む陽光のようにどこまでも透明で、どこか悲しい。
熱の篭った息をつき、ルナがまた口を開く。
「貴方を、悲しませて……。私は、知って、いた……のに。求められる、心地良さに……甘えて、しまった……。罪の子と、……」
「もっと……もっと甘えれば良いだろう。これからだって」
「これ、から……」
ゆっくりと伊吹の言葉をなぞるルナが微笑みを浮かべる。昨夜見たのと同じ、悲しみを湛えた笑みだった。小さく唇が動く。
もう……、と、たった一言を呟いただけで疲弊したように唇が閉ざされる。声が聞きたいと泣きそうにな思いで伊吹は願う。出逢ったときのように髪を、きずあとを撫でて欲しい。歌って欲しい。この不安も悲しみも憤りも、汚いものも、何もかもすべて溶かし、拭い去る、あの歌を。
「な、んで……。何で、そんなことを言う」
「仕方のないこと……。望まれぬ生を受けた身で、主を愛し……ここまで生きてくることが、出来ました。そして最期に、貴方と……伊吹と、逢えました。貴方に、逢ってからは――」
不意にルナが眉根を寄せる。上体を曲げて咳き込む内、体を戻すこともままならないのか、そのまま伊吹の膝へと滑り落ちていく。最初は激しかった咳がやがて弱々しくなり、いつしか収まる。風の凪ぐ瞬間のような束の間の静寂の後、掠れた細い声でルナが呟く。
貴方に逢ってからの半年は、幸せしかなかったと。
眩しすぎるのか疲れたのか焦点の定まらぬ瞳がまた閉じられる。むせる間に溜まった涙が頬を伝い落ちた。たった一粒きりなのに、一生分の涙のようだ。
知らずの内に伊吹は白い頬へ口付けていた。痕跡も残さぬほどに涙を拭い、それが済むと目元や額へキスを落とす。最後には、ルナの乾いた唇へ。
「ルナ……、ルナ。アベル……。こっちを、俺を見て、また」
笑ってくれ、と苦味と共に吐き出す。泣き出しそうな想いが声にもにじみ出ていたのだろうか。それに反応するかのようにルナがゆっくりと瞼を開く。赤い視線はどこか虚ろな色を宿していた。
伊吹の背を寒気が走る。
赤い瞳は伊吹を捉えることはなく、その後ろへと流れる。彷徨う視線に映るのはきっと、冬でも枯れない濃い緑の葉と、どこまでも青く広がる空。彼が長い間ずっと憧れ続けてきた、光ある世界。
「主よ……最期の、祈りを……――捧げます。私の身は、もう……構いません。生き長らえ、今こうして、いられる。それだけ、で……充分、です。どうか……、ですから、どうか……伊吹、に。……伊吹に、祝福を……。私は、主の御許へ行けずとも、構いません……。充分すぎるほど、……。……祝福を――……どうか……」
一言が紡ぎだされる毎に彼の生命力が削られていくのを、全身で感じる。やめろ、と伊吹は首を振る。そんな言葉は聞きたくない。そんなことを望んだんじゃない。
祝福などいらない。
彼のいない世界に、そんなものがあるはずがない。
彼こそが祝福そのものなのに。
祝福などいらない。
彼のためだけに祝福が降り注げば良い。
彼こそが、神に愛されるべき存在ではないのか。
祝福など、いらない。
叫びたいのに声が出ない。
悲しみなのかさえわからない激情が胸を占める。
涙さえ出ない。
冷めていく熱を取り戻す術を知らない。
何故。何故。何故。
手のひらに食い込む爪が皮膚を破る。
痛みで彼を留め置けるのならば、残ったこの目も、この手も足も、命さえも投げ出せるだろう。
なのに、何故。
何故、彼が愛した神は彼を愛さない。彼の愛に応えない。何故すべてを奪う。何故、与えたふりをして奪う。それとも、それこそがお前の愛だとでも言うつもりか。
彼がいなければ息も出来ぬほどにしておいて、何故また彼を奪うのか。
噛み締めた唇から血が滲む。目はただ一点を凝視しているのに、何も目に入らない。己が何を見ているのかもわからない。己が死に掛けたところでどうとも思わない。なのに今は、狂いそうなほど、恐ろしい。心臓が早鐘のように打ったかと思えば、次の瞬間には動くのを止めたかと錯覚するほど遅く感じる。
鳥の鳴き声も聞こえない。
聞こえるのはただ、刻々と細くなっていく彼の息ばかりだ。
己の何故と問う叫びさえ遠い。
次第に重たくなっていく彼の体に、己も指先から冷たくなっていくようだ。いっそ冷え切って、この命も果てれば良い。彼のいない世界に意味などない。彼がいなければとうに死んでいた身だ。彼だけが伊吹の存在理由だった。彼だけが、伊吹に笑ってくれた。
だというのに、何故。
何故彼は、もう目を開けない。
何故彼は、こちらを見ない。
何故彼は、歌を歌わない。
何故彼は、微笑まない。
何故彼は、名前を呼んでくれないのだ。
何故、あんなにも あたたかかった体が、こんなにも重く冷たくなっているのか。
やり場のない想いが伊吹の内で暴れまわる。
悲しみ、怒り、失望、怒り、悲しみ、絶望、悲しみ、怒り……。何度も感情が浮かんでは沈み、塗り替えられていく。最後に残るのは無にも似た、深い怒り。怨嗟の念。
神が代わりに死ねばよかったと、声なき声で吐き捨てる。神罰が下るのならば下れば良い。喉の奥が鉄臭い。ぜ、と呼吸が乱れる。
空は変わらずにどこまでも続いている。日光は穏やかに澄んでおり、すべてのものたちがそれを享受している。雪が降った後だというのに風はあたたかさすらはらんでいる。
ふざけるな、と涙の代わりに声が漏れる。
世界など終わってしまえば良い。
そうでなければ用なきこの身に神罰を。
けれど周囲は何も変わらないまま、穏やかに当たり前に時を刻んでいる。刻み続けている。彼だけを置き去りにして。
彼だけを。
彼はまた、一人ぼっちになってしまったのか。
これほどまでに深い愛をもっていた人なのに。
ずっと、一人でいたのに。
また、一人になったのか。
「なん、で……」
掠れた息と共に搾り出すような声が漏れる。
突然、伊吹は腰の短剣を抜いた。鋭くとがれた刃を己へ突きつける。切っ先が喉の皮膚を一文字に傷つける。つ……と血が伝う。痛みはない。
刃を深く食い込ませるより前に、伊吹の手は止まる。それ以上、手を動かすことが出来ない。硬直した伊吹から零れた血が、彼の頬へかかる。
ぽたり、ぽたりと血が落ちる。
僅かに微笑を残したままの彼の頬へ、赤いしずくが落ちる。
震える手で短剣を鞘へ収めた。
――私の名を貴方にだけは知っておいて欲しいと思うのは、私の我侭でしょうか。
彼の声が蘇る。
約束、した。
ずっと覚えていると。
何度でも呼んでやると。
死ぬわけにはいかない。
伊吹が死んだら、この世にはもう今度こそ、彼のことを知る人間はいなくなるだろう。名前を知る人間も、存在を知る人間も。彼を愛した、人間も。それこそ、彼が一人きりになってしまう。
彼なしには呼吸もままならないというのに。
それなのに、彼のいない世界で生き続けろというのか。
とんだ罰もあったものだ。
乾いた笑みが引きつって喉から零れる。
首の傷が治りだしてなお、伊吹は彼の体を抱きしめていた。沈みかけた夕日が彼の瞳のように赤々と、どこか悲しげに光を散らしている。
瞳を閉じた青白い顔は美しく、眠っているようでもあった。おはようございます、と今にも目を覚まして微笑んでくれそうだ。けれどそれは、もうありえないことだと知っている。
彼の細い首の後ろが、日光に薄っすらと赤くなっているのが見えた。日光に憧れ、明るい世界を望み続けた彼が愛しい。そんな彼を奪った神が憎い。彼がいなくなったのに、変わらず続く世界が憎い。それが彼の望まない感情とわかっていても、それが彼を悲しませるのだと知っていても、止めることが出来ない。
「アベル……。アベル……」
小さく名を囁いても、赤い瞳はもう開かない。これが失うということかと心の芯が重くなる。
僅かに開いたままの唇へ口づけを落とす。以前とは違う、冷たい硬い感触が返ってくる。怒りとも恨みとも悲しみともつかない気持ちが心の内に溢れかえっている。
悲しみが募るとわかっていても、口付けるのをやめることは出来ない。
世界が青へ染まっても、彼の体を抱きしめ続けていた。
* * *
その水辺に、彼のなきがらを埋めた。
ようやく日の下へ出られたのにまた地中へ戻らなければならないのかと、伊吹は唇を噛む。
土から生まれたものは土へ還さねばならない。彼の寂しそうな声が脳裏に蘇る。これを予期していたのかと自嘲の笑みが漏れる。その頃の自分は、何も気づかなかった。ただ、彼といる幸せにひたっていた。それが悔しい。
何故教えてくれなかった。
彼を責めようとしても上手くいかない。これが最善だったのだろう。
出逢ったばかりの頃の彼の声が蘇る。傍にいない方が互いのためなのだと。それも、これを予見してのことだったのか。
酷い奴だ、と彼を責めようとする。
俺を二度もひとりにした。
そうなじってみても、心の中に虚ろな想いがわだかまるばかりだ。
どれだけ責めてみても最後には、泣きたくなるほどの愛しさだけが残る。
「アベル」
小さな声で呼びかける。
応えは、ない。
掘り返した跡の新しい土の上には、小ぶりの苗を植えた。これから成長してく若々しい生命力に溢れた苗木が憎くすらある。この下に彼は眠り続ける。永遠に。ひとりきりで。
彼のいなくなった世界で伊吹は生き続ける。ひとりきりで。彼の残した名だけを携えて。彼の残した、傷跡めいた鮮やかすぎる記憶だけを辿りながら。
この世界に、本当のひとりきりで。
深い絶望だけが身を蝕む。
涙さえ零せないまま、伊吹はそこにいつづけた。
* * *
プロンテラ西門。
悠々と流れる美しい川のほとりに、一本のオーブリエチアの樹がたっている。
人知れず密やかに花を咲かせ、雪解けの頃には音もなく白い涙を零す。
美しく儚げな姿は、プロンテラに住む人々の噂にのぼった。
樹の下で愛を語らう者、樹の姿を歌にして伝え歩く者、様々な人がそこを訪れた。
けれど。
誰がその樹を植えたのか、知る者は一人としていない。
|