オーブリエチア(8)
秋の気配が深まっていく中、伊吹は何日かに一度のペースでピラミッドへ足を運んだ。本当は毎日でも会いに行きたかった。ルナに負担をかけまいとその一心で堪えた。月に一度も会えないことを思えば我慢も出来た。逢う度に切なさが募り、別れる度に恋しさが募っていく。
ルナは、夜になるとピラミッド一階の、強いモンスターのいない所まで戻って隅の方で寝るのだと言った。だから伊吹はいつもルナが上に戻るだろう時間を見計らって訪ねていった。
顔を合わせるとルナは一瞬だけ、悲しそうな泣き出す一歩手前のような、それでいて安心したような、形容しがたい微笑を浮かべる。それが何に由来したものか伊吹にはわからない。気づかぬふりでやり過ごすばかりだ。
「もう、じきに冬ですね」
何度目かに訪ねていったとき不意にルナが口を開いた。いつものように並んで壁にもたれ、一枚きりの毛布を被っている。寄せ合う肩に、砂漠の夜もあたたかく感じていた。
そこに唐突の、寒々しい話題。心に僅かな痛みを覚えるのが何故なのか伊吹にはわからない。わからないまま、ああ、と短い相槌を打つ。遠くでファミリアの羽ばたく音が聞こえる他は静かなものだった。
ルナは頭を軽く伊吹の肩へ預けながら続ける。
「雪は降るでしょうか」
「さあな……。ルティエまで行けば今すぐにでも見れるんだろうが」
「あちらまで行くのは少し難しいですね」
残念そうに呟いてルナが目を閉じた。毛布の下でその肩に腕を回す。逢う度に抱く度に彼の体が軽くなっていくように思えてならない。白い髪は伊吹が切ってやったその日から僅かずつ伸びているはずなのに、見目にわからない。不安にかられてそれをルナに告げると、頻繁に会っているからわからないのだと笑われた。
「雪が好きなのか?」
「はい。あまり見る機会はありませんでしたが、それでも辺りが白く埋め尽くされていくのが綺麗で……」
「ルナがいない間にプロンテラに雪が降ったら教えてやる」
「ありがとうございます」
一緒に雪遊びでもするかと冗談交じりに誘いかけるのへ、ルナは嬉しそうに頭を下げる。躊躇うような少しの間。ルナの赤い瞳が間近で伊吹を見つめる。動揺を押し殺して伊吹はそっと息を吐く。
「そのときは、伊吹も一緒に来てくださいますか?」
「行っても良いのか」
伊吹の問いに虚をつかれたように瞬いてから、ルナは珍しく声を出して笑った。照れくささに居心地が悪くて伊吹は口を噤む。それを見て笑みの名残のある声で謝りながらルナが伊吹の髪を撫でる。子ども扱いするな、と言いながらも伊吹は機嫌を直す。
優しく髪を撫でられればすぐにも、ささくれだった伊吹の心が鎮まることを、ルナは知っているのかもしれない。そう疑ってしまうくらい心地良かった。
ピラミッドへ行く度に伊吹は、食料品や着替えを届けてやる。ルナはしきりに申し訳ないと恐縮していたが、やがて礼だけ言うようになった。たまに、もし良ければと前置きしてから、持ってきて欲しいものを言ってくれることもあった。その些細な変化が伊吹にはとても大きく感じられて、自然と心が安らぐのだった。
また新月が巡ってきた。
伊吹はルナと共にあの小さな家へ戻った。ルナが何も言わず、当たり前のことのように伊吹を連れ帰ってくれたことが嬉しかった。それがあまりに強いものだったから伊吹はその晩ちゃんと眠れなかった。自分でも馬鹿馬鹿しいと思うほど心がはしゃいでいた。その晩はずっとルナを見つめていた。
家へ帰った翌日からルナはまた熱を出して寝込んだ。
固形物を食べるのも辛そうだ。伊吹はフェイヨンまで行って、何種類かのフルーツジュースを作ってきた。戻ってきた伊吹に、高熱に掠れた声でルナが礼を言う。良いから早く飲んで寝ろと言い置いて伊吹は床へ座り込む。
「もしよろしければ、こちらへ来ませんか……?」
「良いのか」
「伊吹が、嫌でないのなら」
「嫌なわけねえだろ」
乱暴に言うとるなはまた泣きそうな顔で笑った。
白く細い手が掛け布団をめくる。その合間に身を滑り込ませ、ルナの体を抱きしめる。ルナがほっと息をついてまた目を閉じる。やがて寝息が聞こえてくる。伊吹は飽くこともなくその顔を見つめ続けていた。
目を覚ます度にルナは小さな声で謝罪を呟く。その声があまりに寂しそうで伊吹は「うるせえ」の一言で遮ってしまう。他に何と言って良いのかわからなかった。
このちっぽけな命も、ろくでもない人生も、何もかもがルナのためにあるのに。それなのに何を謝ることがあるのか。何も言わずにすべてを預けて欲しいと望むのは、過ぎたことだろうか。思いばかりが伊吹の心の内に募る。
ルナの熱は一週間経ってもひかなかった。
不安がる伊吹をなだめるようにルナは微笑む。熱に重たい手でやさしく髪を撫でてくれる。そんなに心配しないでください。無言の声が聞こえるようだった。それでいて伊吹がベッドから出ると不安そうな視線がその背を追った。
月の終わりも間近になってようやくルナは体を起こしていられるようになった。二人とも何も言わなかったが、どこかしら張り詰めていた空気が急速に和らいでいくのがわかった。
新月を迎えた後もルナは家にいた。伊吹も当然のように一緒に残った。
「何か食べたいものがあれば買ってくる」
「では、リンゴを」
「リンゴが好きなのか」
「そうですね……たぶん、一番好きな食べ物です」
少し照れたように笑うルナの顔が伊吹は好きだった。この前のような泣きそうに見える笑みは嫌いだった。見ていて伊吹の方が泣きそうになる。それをルナにどう伝えて良いのかわからない自分が、嫌いだった。
リンゴと、その他の食料を僅かに買って伊吹は帰路につく。ルナの真似をするわけではないが、ルナが食べないものを一人だけ食べているのは落ち着かない伊吹だった。
その日は鉛色に曇った薄暗い空をしていた。重たげな空からふわふわと白いものが降ってくる。見上げた伊吹の鼻先にもひとつ舞い落ち、冷たいと思うより前に溶けて消える。
「雪……」
知らずの内に呟き、片手の平を天へ向ける。ぽつりぽつりと白い欠片が落ちては消えていく。見上げていると天へ吸い込まれていきそうな、天が落ちてくるような錯覚に陥る。己もまた小さな白い断片へ変わっていくような予感めいたものがあった。
振り切るように伊吹は歩く。家に戻り、食事を済ませた。雪が降り始めたことを告げるとルナの顔が僅かばかり明るくなった。照る月明かりにほの白い雪にも似た笑みだった。昨日の分のゴミと一緒に纏めて伊吹が外へ捨てに行く。扉の前へ立つ伊吹の背へルナの声がかかる。
「雪、積もりそうですか?」
「積もっても、明日か明後日には溶けそうだ。今降ってるのもすぐ止むんじゃねえか?」
「一度で良いから雪の上に寝転んでみたいです」
「冷たいだけだろう。風邪をひく」
「気持ち良いですよ、きっと」
憧れるような口調はそのまま、懐かしむような口調に似ていた。体験したことがなくても焦がれ続けていれば、懐かしむほどに近しいものになるのだろうか。
ルナが眠りにつくのを待ってから伊吹は外に出た。今日はルナが寝付くまでに時間がかかり、既に夜明けも近い頃だった。伊吹の予想に反して雪はまだ降り続いていた。靴の先が埋まるほど、もう積もっている。
珍しい、と白い息を吐いて伊吹は空を仰ぐ。濃いグレーの空から、一点の穢れもない白が落ちてくることが不思議だった。ぽそ、ぽそ、と時折顔のあちらこちらへ雪が落ちる。冷たさが心地良くて拭うこともせず、しばらくそのままでいた。
気まぐれに身をかがめ新雪をすくいとる。体の熱が少しずつ奪われていく。外側から溶けていく雪を大雑把に丸めてみた。記憶のどこかにおぼろげに残っている雪うさぎに近い形になるまで、雪を継ぎ足していった。どうにかそれらしい形に整えてから、それを道の端に置き伊吹は歩き出す。
細い路地を進むと大通りに出る。あちらこちらへ植えられた常緑樹を見回しながら通りを歩いていく。赤い実、赤い実、と探してみるものの、それらしき実をつけたものはない。仕方なしに噴水広場のクリスマスツリーから緑の葉を二枚失敬して戻った。
道の端で雪を少し被っていたのを拾い上げ、耳の位置に葉を刺す。うろ覚えに作った初めての雪うさぎは、やはり歪で不恰好だった。家の中から洗面器を持ってきて雪を敷き詰める。その上に雪うさぎを乗せてみた。
「…………変だな」
自分で想像したよりも上手く出来ずに伊吹は首を傾げる。ぽつりと落とした呟きは、しんしんと降り積もる雪の中に消えていった。
家の中に入り、サイドテーブルに洗面器を置く。雪が好きだというルナの、僅かにでも慰めになればと作ってはみたものの、不意に気恥ずかしくなった。伊吹は床に座り込み、壁に背を預ける。目を閉じると、壁の向こうで雪の降る音が聞こえる気がした。隠れて一人きりで泣いているみたいな音だと思った。らしくない連想に溜息をつく。雪の音が気になって、なかなか眠れなかった。
ルナもこの音が気になって寝付けなかったのだろうか。
そう思ったのは、夢の中でのことだったのか、寝ぼけたままのことだったのか。小さな物音に目を開けると、ルナがベッドに腰掛けていた。既にプリーストの黒い法衣を身につけ、髪も梳かしてある。身じろいだ伊吹から毛布がずれて床へ落ちる。先に目を覚ましたルナがかけてくれたのだろう。胸の内まであたたかくなる。
「おはようございます」
「……おう」
おはよう、とそっぽを向いて付け加える。何度もこうして挨拶を交わす機会はあったが、未だに照れくさい伊吹であった。欠伸をしながら立ち上がり、背伸びをする。ふと視線を向けるとルナはサイドテーブルに置かれた洗面器を見つめていた。
何かを考えるような横顔に伊吹も黙ったままでいる。しんしんと雪の泣き声だけが室内を満たす。
「雪、まだ降っているのですね」
「ああ。珍しく、かなり積もってる」
「モロクの方でも降っているでしょうか」
「それはねえだろ……」
「砂漠ですからね」
溜息をつくようにしてルナが笑みを漏らし、月の様子をはかるように窓があったほうへ視線をやる。次の新月まで雪が降っているか、残っているか、気にしているのだろう。
いつものように簡単な食事を済ませ、伊吹が席を立つ。またゴミを捨てに行こうとする伊吹をルナが呼び止める。振り向くと沈黙がしばし訪れる。伊吹は黙ったままルナが話し始めるのを待つ。
「外へ行くのでしたら、お願いが……」
「何だ」
「この雪うさぎを、外へ出してやってくれませんか」
咄嗟に答えられずに伊吹はただ洗面器と、その中にいる雪うさぎを見つめる。横目でルナを見やると、ルナは自分の手を見つめて俯いていた。
「すべてのものは、最後には還らなければなりません。雪から生まれたものは雪へ、土から生まれたものは土へ……」
寂しげな口調に何かを感じた。伊吹にはそれが何だったのかわからない。ただ、そんなことを言うなと叫びたかった。何故かはわからない。ただ無性に悲しい気がした。
それ以上の言葉を封じるように伊吹は洗面器を取り上げる。無言で背を向けて外へ出た。慣れない寒気に顔がぴりりと痛んだ。
洗面器の中の雪と雪うさぎは、室内の熱で僅かに緩んでいた。言葉もないまま伊吹は、言葉にならないまま理解した。洗面器を下向けて中の雪を落とす。衝撃で雪うさぎが崩れ、その上にまた雪が積もっていく。真白い雪の合間に鮮やかな緑が覗く。よく映えるその色もやがて白く埋め尽くされていくだろう。
雪から生まれたものは雪へ還さなくてはならない。ルナの声が蘇る。何故、雪から取り分けてずっと保存しておけないのだろう。次第に周囲の雪に埋もれていく雪うさぎの姿を見下ろしながら伊吹は立ち尽くす。
どれほど外にいただろうか。家の中へ戻ったときには伊吹の体は冷え切っていた。ルナの微笑が曇るのを見て、よほど酷い顔色をしているのだろうと思った。
「雪の中にいると時間の感覚がなくなる」
「だからって、こんなに冷え切るまで外にいるなんて……」
並んで腰掛けた伊吹の頬へ触れて、ルナが悲しそうに呟く。その細い肩を抱き寄せる。普段は低いルナの体温も今はひどくあたたかい。困り顔のルナを抱いたままベッドへ横になる。ルナがたしなめるようにまた伊吹の頬を撫で、それから毛布をかけてくれる。
「ルナの傍にいればあたたかい」
「伊吹……」
「あたためてくれ」
細い体を強く抱きしめる。その白い首筋に口付け、頬を寄せるとようやく安心した。暗い部屋の中でただひとつ確かなものを腕の中に封じ込め、伊吹はそのまま目を閉じた。それだけで何もかもが満ち足りた。
ルナが何度か諌める言葉を口にする。少し怒ったようなその声も、眠りに落ちていく途中の伊吹には天上の調べとも思えるほど心地良かった。
一晩眠って目を覚ますと伊吹は熱を出していた。
ルナは呆れたような怒ったような悲しそうな顔で、何も言わずにただ優しく髪を撫でてくれた。歌を、と伊吹がせがむとルナは困り顔のまま歌ってくれた。
心から安堵して眠ったのが良かったのか、その翌日には伊吹の熱は下がっていた。僅かな後ろめたさが伊吹の心に染み付く。ルナは安心した様子で微笑んでいる。手を回して白い髪を撫でる。だいぶ伸びたように感じて伊吹は安堵する。
「また髪を切ってやろうか」
「熱が下がったばかりでしょう。無理はいけません」
「大丈夫だ」
「…………では、お願いします」
伊吹の熱心さに負けたようにルナが首を立てに振った。
髪を切る用意をしている間、ルナはベッドに腰掛けている。時折、何か目に見えないものを追うように視線が彷徨い、また伊吹へ戻る。猫じみたその様子に伊吹は溜息をついて不安をやりすごす。苦いものを呑み込むように伊吹は眉間に皺を寄せる。
支度が済むとルナを呼び寄せ、以前と同じように髪を梳いていく。二人とも無言のまま、髪が古新聞の上に落ちる音を聞いていた。ふとルナが口を開く。
「もうすぐクリスマスですね」
「ああ……、そんなのもあったな。ルナは毎年何かしてるのか?」
「特別なことは、何も。毎年この部屋でお祈りをするだけです。伊吹は?」
「俺は何も。今まで興味もなかった」
今は、とルナは尋ねなかった。伊吹が何と答えるつもりか、伊吹以上に知っていたのだろう。ルナは口を噤み、伊吹もそれきり何も言わなかった。
髪を外へ捨てて戻ってくるとルナからねぎらいの言葉をかけられる。好きでやったことだと言葉を付き返す下で、どうしようもない喜びがこみ上げる。
口論も争いもないまま静かに年が明けた。新年の挨拶もなくいつもどおりに朝を迎え、そのまま一日が過ぎていった。寝る前に小さなカレンダーを見て初めて元日だったと気づくような一日だった。
新月が来るのを待ってルナはピラミッドへ向かった。
伊吹もまた当てもなく歩き出す。冬の寒さに透きとおる夜空は余計に星ばかりが目立って、伊吹の心の不安を煽る。ざわつく胸中を押し殺すように、石畳を踏みつけて進む。
また狩りに明け暮れる一ヶ月が始まる。
|