オーブリエチア(7)
傍にいて良いか。
伊吹の問いに明確な答えは返らなかった。それを良いことに伊吹はルナの家に住み着いた。なかなか熱の引かないルナのために食事の用意をして、部屋の掃除をしてやる。ルナは何も言わない。時々思い出したようにぽつぽつと謝罪や感謝を呟く。そうした時、伊吹は何も言わない。
『無事かい?』
ルナの家に住み着いてから数日後、伊吹の元に耳打ちが届いた。送るかどうかを非常に迷った挙句に結局送ってしまった、というような声だった。誰だっただろうと少し考えて、ようやくヴァレリオのくすんだ金髪と明るい茶の瞳を思い出す。
少し遅れて、彼の相方らしい青の髪のウィザードのこと、彼らと共に狩りをしていたことを思い出す。忘れたわけではないはずなのに、ルナと会ってから一度も彼らを思い浮かべなかった。そんな己に伊吹は苦笑をかみ殺す。
『……それなりに』
『なら良かった』
『当分、戻らねえ。世話になった』
『…………わかった。もし戻りたくなったら、いつでも戻ってきてくれ』
『ああ』
それきり、互いに口を噤んだ。もう伊吹が戻る気のないことを、戻ったとしても既に伊吹の居場所はないだろうことを、二人とも知っていた。戻ればヴァレリオは何も言わずに受け入れるのだろう。相方のアルカージィは相変わらずの無関心でそれを承諾するはずだ。それが煩わしい。罪悪感にも似た苛立ちが伊吹の心を疼かせる。
ヴァレリオとのやりとりがあってしばらくは、ずっとルナの体を抱きしめていた。ルナは何も言わずに身を預けていてくれた。何があったか伊吹が言うことはなく、ルナが尋ねることもなかった。外界と隔絶された狭く暗い部屋の中で伊吹はただルナの心音と呼気だけを聞いていた。
二人の間に会話は少ない。外から入る音も少なく、一日の多くは沈黙で埋められていた。不機嫌でも気詰まりでもない沈黙はむしろ心地良く、伊吹の好ましいものだった。
ルナが浅くまどろむ合間に、小さな声で語ることがある。ルナ自身のことは少なく、ダンジョンの中で己を助けた人、己の助けた人のことを多く話した。話していく内にルナは懐かしむように愛しむように目を細める。そんな風に彼に語ってもらえる人々が伊吹には羨ましかった。伊吹のこともいつか、誰かにこうして話されるのだろうか。嬉しくもあり、嫌でもある。
伊吹は、反して己のことを何も語らない。ルナも何も尋ねない。伊吹のことなど何ひとつ知らないはずなのに、誰よりも伊吹の心に近い。誰よりも遠い。距離感が掴めない。伊吹のこの惑いをルナも感じているのだろうか。それを思うと、胸に僅かに冷たい風が吹く。
狭い部屋に二人、じっとしている。相手が他の者であれば伊吹は想像しただけでも息が詰まりそうになった。ルナと二人でなら、胎を思わせるこの部屋にいつまでもこうしていられそうだった。いつまでもこうしていられれば良いと、心から願った。
雨が降る日には、ルナはベッドに身を起こして小さく歌を口ずさむ。遠い雨音に寄り添うようにやわらかな歌声が心地良い。気まぐれに伊吹も、それを真似ることがあった。歌の一節か二節を鼻歌でたどる程度だったが、ことのほか歌うことは楽しかった。
この歌が一番好きだ、と言うと、ルナが目を細めて笑みを浮かべる。私もこの歌が一番好きなんです。穏やかな声が僅かに弾んだ。初めてピラミッドで出会ったときにルナの歌っていた歌だった。
歌詞はよく聞き取れなかった。伊吹の知らない言葉のようだ。ルナに尋ねると、今は使われることの少なくなった、古い言語で綴られた古い歌だと教えてくれた。神に、愛しい者を守ってくれるように祈る、穏やかであたたかな歌。ゆっくりしたテンポが身を包む。湯に浸かったときのように身も心もほぐれていく。
「もう名もわからない人たちが、今を生きる私たちと同じように誰かに深い愛を感じて、歌にして、他の人たちも口ずさんで……。人々の名前が消えても歌だけは残るのですから、不思議ですね。そしてその歌を私たちが歌っているのは……もっと不思議です」
組み合わせた細い指に視線を落としてルナが呟く。愛しむように大切に、一言一言を口にしていた。伊吹もそれを素直に受け入れることが出来た。
晴れた日――正確には雨音のしない日には、ルナはベッドに身を起こして本を読む。伊吹はその膝を枕にぼんやりと丸くなって過ごす。たまにルナは朗読をしてくれる。伊吹は黙ったままその声に耳を傾ける。読まれる本は聖書であることが多かったが、別の都市の紀行文や、まれに小説であることもあった。
ルナが黙読をしているときは、その顔を、指先を、じっと見つめていた。少し俯いた白い顔も、そこに薄く影を落とす白い睫も、白い指先が時折擦る赤い瞳も、何もかもが美しかった。
ルナは外に出ない。夜の月の光も、曇りの日にも、害になる光は降り注ぐのだと言っていた。それが本当なのか伊吹は知らない。ルナがそう言うのだから本当なのだろうと納得した。伊吹も外へ出ない。数日おきに食料品や生活用品を買出しに行くときと、ゴミを出すとき以外は、ずっとルナの傍にいた。
狩りに行かなくて良いのですか。そう尋ねられるのが怖かった。ただの社交辞令の問いだとしても、伊吹が必要ではないのだと明言されるようで、怖かった。伊吹の怯えを知っているからかどうかルナは何も言わないでいてくれた。もしかしたらルナも伊吹にいて欲しいのではないかと自惚れるくらい、錯覚するくらい、何も言わなかった。
静かに、一月が過ぎた。
一月で伊吹の心は満ち足りた。それでいて二人の距離は以前と変わらないままだった。伊吹はルナを追い求め、恋焦がれる。ルナは距離を置こうとしながらも、決して伊吹の存在を拒まない。穏やかに緩やかに残酷に二人の関係は続いていた。
「そろそろ、月が新しくなる頃ですね」
「またピラミッドへ行くのか」
「はい。あそこに残る死者の魂を……苦しむ方々を、少しでも解放して楽にして差し上げたいのです」
「モンスターだろ」
「魔物にも、心はあります。命があります」
たとえ仮初のものでも、と呟く横顔は寂しそうだった。伊吹は反論もせず、そうか、と声に出さず頷いた。それしか出来なかった。
「伊吹はどうしますか」
「俺が一緒に行くと、邪魔になるんだろう?」
何気なく問うとルナは口を閉ざす。嘘をつかない性質だと伊吹は改めて感心する。表面だけ取り繕われるよりずっと良い。
「俺も別の場所へ狩り行く」
「わかりました」
「夜もずっとピラミッドにいるのか?」
「はい」
ピラミッドの一階まで戻ってから隅の方で寝るのだと言う。伊吹は小さく溜息をつく。そんなだから疲れが溜まるのだ。言いかけて結局何も言えずに口を噤む。僅かに感じた気まずさを押し殺して、伊吹は顔を上げる。
「なら、夜はピラミッドに会いに行く」
「伊吹……」
「迷惑か?」
少しの躊躇いの後にルナが首を振る。会いに行く、と耳元でくりかえす。ルナは曖昧に頷く。僅かばかりでも肯定が返ると嬉しかった。狩場の当てはなかったが何とかなるだろうと高をくくる。
夜になるのを待ってるなは家の外へ出る。伊吹もそれに続いた。一月の間に夜気はぐっと冷え込んでいた。見上げる空は晴れ渡り、星が瞬いている。月光は一片も見当たらない。
「冷えますね」
呟くルナを抱きしめようとして、止める。一度抱きしめたらそのまま別れることが出来なくなりそうだった。腕を離した後の寒さに耐えられる自信がなかった。ルナは何も思わないのだろうか。聞いてみたい気もするが、答えを聞くのは怖い。
「どこかに送りますか?」
「いや、良い」
「わかりました」
ルナが頷き、ポケットから青い石を取り出す。石を包み持つようにしてルナが短い祈りを捧げると、いつかと同じように光の柱が立つ。白々しいその光に照らされながらルナが微笑む。
「また、いずれ」
「ああ。会いに行く」
「お気をつけて……」
小さな礼と共にルナが伊吹へ祝福を投げかける。伊吹が言葉を続けるより前にルナは光の中へ足を踏み入れる。ルナの姿が光の向こうへ消えるのに合わせて光も消えた。伊吹一人が立ち尽くす路地には前よりも濃い闇が横たわっている。
街は静まり返っている。歓楽街でも行けば賑わいもあるのだろうが、そこへ行く気にもなれない。いつまでもこの場に留まっていたくない。一人にはなりたくない。けれど人には会いたくない。ただルナの傍にいたい。けれどそれは叶わない。
行き惑って伊吹は当てもなく歩き始める。道なりに歩いていたはずが、気がつくと中央広場の噴水前にいた。
昼間は露天商と美しい飛沫に賑わう広場は夜になって別の顔を覗かせていた。水の止められた噴水は、闇の底にひっそりと息を潜めているようだ。その縁へ腰を下ろして空を眺める。この果てしない空がルナの上にも広がっているのだと思うと、心は少し慰まる。
路地の方から酔いの回った賑やかな声が聞こえてくる。覚えのある声にちらりと顔を上げてみると、ウィザードの白いマントが目に入る。その隣にはプリーストの黒い法衣があった。教会から支給されているものだからルナの身に着けているものと同じ造りなのは当然だ。当然のことなのに胸が締め付けられる。何故ここにルナはいないのだろう。
溜息をつく伊吹に、向こうも気づいたようだ。顔を見合わせた後で伊吹の方へ近寄ってくる。申し訳程度に街灯が照らす路地から出て来たのは、一月前まで行動を共にしていたヴァレリオとアルカージィだった。酒を飲んでいるのは相変わらずアルカージィばかりのようだ。また少し頼りがいを増したヴァレリオの肩を借りている。
「伊吹」
こんばんは、と先に声をかけるのはヴァレリオだ。アルカージィとの距離が縮まると酒の匂いが漂う。久しぶりに嗅ぐ慣れた香に、伊吹が小さく鼻を鳴らす。ヴァレリオは苦笑を湛え、肩を竦める。
「せっかくの再会なのに、どうも見苦しいところを見せてしまったね。気晴らしをしたいと言うからつきあっていたのだけど、飲ませすぎてしまった」
「よお、伊吹。化けて出たのかと思ったよ」
「似たようなもんだ」
素気なく答えて伊吹は僅かに視線を逸らす。一月の間に現から切り離されたような心持が伊吹にはある。以前のように酒が飲みたいとも、血が見たいとも思わない。金への執着もなくなった。
伊吹の変化に気づいているのかいないのか、ヴァレリオとアルカージィは何も言わない。この一ヶ月何をしていたかとも聞かない。ただ、僅かばかりのよそよそしさと気まずさがある。
「伊吹も一緒に飲もう」
「アル。これ以上飲むなら道端に捨てて帰るぞ」
「えー。つれないなあ……」
ふざけて笑いながらアルカージィがヴァレリオの首筋へ口付ける。ヴァレリオの声を押し殺した吐息が聞こえた。伊吹の胸がぎしりと痛む。腕が寒い。ルナのぬくもりが恋しい。ついさっき別れたばかりだというのに。
アルカージィがふらりと伊吹へ視線を向ける。常の無関心そうな視線だが、酔いの気配が確かにある。ヴァレリオに身を預けたまま手を伸ばし、指先が戯れに伊吹の髪へ触れ、そのまま下へ落ちる。
「暗い顔をしているね。苦しい恋でもしているみたいだ」
笑み交じりの言葉に、伊吹が眉間に皺を寄せる。恋をしているのだろうか。ルナを思う度、全身が凍りつきそうなほどに焦がれて燃える。炎は見えず、ただ身を熱だけが包む。己で恐ろしいと思うほど激しく、そのくせ不思議なほど穏やかでもあった。この感情を何と呼ぶのか伊吹にはわからない。ルナが欲しい。ルナの傍にいたい。それだけを知っている。
何と言ったものかと伊吹が迷う内に、ヴァレリオがアルカージィをたしなめる声がした。伊吹の気に障ったと思ったのだろう。ヴァレリオがすまながって頭を下げている。その声と姿を遠くに捉えた。今の伊吹には何もかもが遠くに感じられる。ルナのぬくもりを感じられない腕の寒さと虚しさだけが確かに胸に響いていた。
「ねえ伊吹。本当に、もう戻ってくる気はないのか?」
「もう俺がいなくたって困らねえだろ」
「多い分には困らないよ」
「一月、何もしていなかった。随分、差もついているはずだ」
「伊吹……」
ヴァレリオの声を無視して伊吹は空を見上げる。星がよく見える。普段は月明かりに隠れて見えない星まで明々と輝き、逆に不気味に思えた。
「ヴァル。無理強いは良くないって、いつも自分で言ってるじゃない」
「そういうつもりではなかったんだが……」
気遣うようにヴァレリオが口ごもる。その少し日焼けした頬へアルカージィが猫のように頬を摺り寄せている。法衣に包まれた肩へ腕をかける様は慣れた印象だ。それをヴァレリオも自然と受け入れている。伊吹とルナの間にあるどこか退廃的な、時間が停滞していくような、あの感覚がそこにはなかった。羨ましい気もする。逆に、不可思議な優越感もあった。伊吹の心を、感情を、彼らには正しく理解出来ない。共有出来ない。それが奇妙なまでに嬉しかった。
「俺のことはもう放っておいてくれ」
視線を戻しもせずに伊吹は告げる。冷たく突き放した声にヴァレリオが僅かに息を呑むのが聞こえた。アルカージィの眠たげな欠伸だけが場違いにのんきだった。
「俺にはもう構うな。もう、お前たちと一緒にいる理由も必要もねえ。それはお前たちも同じはずだ」
「伊吹」
「何を言っても無駄だと、僕は思うけどなあ」
「……アル」
悲しげに呟くヴァレリオの声に重なって、伊吹の名を呼ぶルナの声が蘇る。懐かしさに焦がれる伊吹と、それを見て嘲笑う伊吹がいる。別れてからまだ数時間も経っていないというのに、何ヶ月も会っていないかのようだった。
急速に潤いを失くし、ざらついていく伊吹の心は、ヴァレリオとアルカージィの声もただの雑音にしか感じない。ともすれば煩わしいその声から逃れようと立ち上がる。
それを引き止めるようにヴァレリオが口を開く。
「伊吹。これだけは覚えておいて欲しいんだ。俺たちは効率のためだけに一緒にいたんじゃない。……少なくとも、俺はそうだよ」
もう行こう、と駄々をこねるアルカージィをなだめおいてからヴァレリオがまた言葉を継ぐ。真摯な瞳が伊吹を向く。振り払いがたいその視線に、伊吹も足を踏み出せずにいる。
「何かあったら、いつでも連絡をくれ。俺に出来ることがあれば、出来るだけ力になるから」
「……ああ」
短く答えて伊吹は背を向ける。何故ヴァレリオがここまで気を配るのか伊吹には理解出来なかった。共に狩りをしている最中、無愛想で必要最低限にしか喋らなかった。効率のためだけに二人を利用しているのだとわかっているはず。
どうせくだらない憐憫の情か、そうでなければ偽善のはずだと無理矢理に己を納得させて伊吹は歩き出す。少ししてからアルカージィの明るい声が聞こえたが微かに、何を言っているのかまではわからなかった。
光を逃れるようにして闇から闇へ渡り歩く内に知らない道へ出た。迷いもなく躊躇いもなく伊吹は足を踏み出す。違えた道を振り返ることもない。心の内にはルナだけがある。ルナの姿が声が存在があたたかすぎて眩しすぎて、もう他のものなど目に入らない。
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