オーブリエチア(6)
目を覚ましても辺りは暗かった。未だ夜は明けないのだろうかと伊吹は眉間に皺を寄せる。漂う空気は停滞したままで、そこから時間を読み取ることは出来ない。
こごもった、けれど冷たい空気に身震いをしてようやく、腕の中の体温に気づく。視線の先には闇を透かして真白い髪と顔が見える。目を閉じ、昨夜と同じようにぐったりとしている。
「ルナ」
小さく呼んで額へ口付ける。ルナが僅かに身じろぐ。薄く瞼が開くと紅玉の瞳が覗く。赤い視線が伊吹を捉える。たったそれだけのことが伊吹の胸をざわつかせる。
ルナの唇が何度か動くが、声は出てこない。顔を伏せて喉の奥で咳き込む。また顔を上げ、少し照れたような笑みを伊吹へ向ける。
「――おはようございます」
熱の所為かたどたどしい挨拶に伊吹は目を細める。目覚めの挨拶などされるのは初めてで照れくさい。口ごもる伊吹にルナが笑みを浮かべる。まだ夢の中にいるような、現実感のない笑みだった。
「おはよう……」
ルナの笑みに背を押されるようにして伊吹も挨拶を返す。頬が熱い。寝乱れた白い髪へ指を触れて誤魔化す。ルナがくすぐったそうに身じろいだ。緩く瞬きをくりかえしながら赤い瞳が伊吹を見つめている。
「朝……。ああ、ご飯の支度をしなくては……」
重たげに頭をもたげてルナが呟く。体を起こそうとして、また伊吹に頭を預ける。そっと漏れる溜息に疲労が濃い。それでも起き上がろうとするのを軽く押さえつけ、伊吹が床へ降り立つ。腕の中が寒い。
「昨日、何も買って来てなかっただろ」
「そう……でしたか? すみません、記憶が曖昧で……」
「部屋に蓄えもねえみてえだし……何か買って来てやる。ルナは寝てろ」
「悪いです。伊吹はお客様なのに……」
衣擦れの音に振り向くとルナが身を起こそうとしていた。薄い肩を押さえつけて寝台へ横たえさせる。長い髪が結ばれたままだったことにも、かけ布団もかけずに寝ていたことにも、今になってようやく気づいた。
が、何とすれば解決するかもわからず、伊吹はまた扉の方を向く。大股に数歩も行けばすぐドアノブに手が届くほど近い。狭い部屋だと、改めて思う。
「どの道ルナは……その、光に当たっちゃいけないんだろう? 俺が何か買って来てやる。何が良い」
少しの間、また沈黙が降りる。身じろぐような小さな音が聞こえた。今度は振り返れなかった。今しがた発したばかりの言葉がルナの気に障っていたらどうしようかと、不安でたまらない。拳が汗で湿る。震えそうになる息を力を込めて吐き出す。
永遠に続くかと思えた沈黙をルナがいとも容易く破る。
「では……リンゴをひとつ」
「それだけで足りるのか」
「あまり食欲がないものですから」
大丈夫か、と尋ねようとして、止めた。答えを聞くのが怖かった。
何と言って良いかわからず、何も言わずに俯く。向けたままの背にルナの視線が当たっているのがわかる。もっと気の利いたことを言える人間でありたかったと歯噛みする。
断ち切るように息を吐く。
「行って来る」
「……いってらっしゃい」
背中に優しい声を受けながら伊吹は扉を開く。出来るだけ日の光を中へ入れないように、細く開いた隙間から素早く出て行き、後ろ手に閉める。心には、余計な気遣いでなければ良いがと、その一心だけがあった。
外へ出ると眩しさに目が痛くなる。一瞬、視界が暗くなった。足がふらつく。壁に手をついてやりすごす。ヴァレリオに貰った眼帯は荷物に突っ込んだままでいるのを、ふと思い出す。眼帯をつけるのは、ルナの指の感触を忘れてしまいそうで嫌だった。眼帯を捨てるのは、何故か躊躇われた。
ぴんと張った朝の空気の中に肉や卵を炒るあたたかい匂いが漂っている。熱せられた油の香に伊吹の腹が小さく鳴る。気づかない内に腹を空かせていたらしい。外へ出て気づくとは、あの部屋の中は本当に時が止まっているのかもしれない。時計の音など煩いだけだと思っていた。時を知ることが出来ないのがあんなに恐ろしいとは知らなかった。時間と一緒に己の輪郭まで曖昧にぼやけていきそうになる。
十分ほど家々の合間を行くと、果物商人が店を構える場所に出る。色とりどりに果物が並ぶ中、一際伊吹の目を惹いたのはリンゴの赤だった。店番に立つ少女に顔を向け、リンゴを無造作に指す。
「リンゴを五個」
「他には……」
「いらねえ」
素気なく言う伊吹へも明るい笑みを崩さず、少女が紙袋にリンゴをひとつずつ入れていく。おまけに、と言うのへ視線をやれば、小さなブドウがひとつ袋の中へ消えていった。黒々と艶のある紫が美しかった。
重みのある紙袋を少女から受け取る。ありがとうございました、と事務的に朗らかな声を聞きながら伊吹は歩き出した。朝も早いというのに商人たちが露店を出す準備をしている。中にはもう既に商売を始めているものもいた。
「そこのローグのお兄さん。新鮮絞りたてのミルクはいかがですか? これを飲めば一日中、とっても元気に過ごせますよ」
そんな商人たちの間を足早に通り過ぎようとする伊吹へ、明るい声がかかる。まだ十五かそこらの少年が伊吹を見つめている。その後ろにある鉄カートには水がいっぱいに張られ、ミルクの瓶が詰まっている。明るい茶の瞳は言葉と同じに活き活きとして、輝いていた。
常ならば無視して通り過ぎる呼び込みに、伊吹の足が止まる。ルナもこれを飲んだら少しは元気になるだろうか。そんな幼稚とも思える考えが浮かぶ。
ミルクの新鮮さや味の良さを立て板に水とばかり語る少年へ、一掴みのゼニーを渡す。
「一本貰おう」
「毎度!」
威勢の良い声が返る。少年が瓶を取り出すと水滴が散り、日の光にきらめいて眩しい。その名残をタオルで軽く拭ってから商人が瓶を差し出す。それを受け取り、釣りを渡そうとするのを無視して伊吹は歩き出す。後ろで困惑した声が聞こえたが、やがて消えていく。
紙袋とミルクを手に歩く伊吹を、ヴァレリオやアルカージィが見たら何と言うだろうか。そんな想像をして伊吹は口の端を歪めて笑う。行きに一度通ったきりの道も案外覚えているものだ。足は自然と動き、気がつくとあの小さな家の前に立っていた。
明るい日差しの下で見ると余計に家は小さく見える。元は他の家の倉庫として使われていたのかもしれない。少しの躊躇いの後に伊吹は、ノックせずに扉を開く。
「お帰りなさい」
細く開いた扉から入り込む伊吹へ、ルナが穏やかな声をかける。サイドテーブルでは昨夜と同じようにランタンが明るく燃えていた。扉を閉める。ピラミッドへ入ったときのあの眩暈を思い出した。
ルナはベッドに身を起こし、白く長い髪を櫛で梳かしていた。僅かに傾ぐ首筋に目がいく。咳払いをしながらその隣に腰を下ろす。間近で髪を梳く仕草を見つめていると伊吹の内に今までにない充足感と焦燥が満ちる。
「珍しいですか?」
「何が」
「男が、髪を伸ばしているのが」
「別に。……似合ってる」
ルナの顎先を見るともなく見ながら小さな声で言い加える。言葉が返らないのを訝しがって視線を上げる。ルナの俯き目を伏せた横顔が目に入る。
髪を、と長い沈黙の後で呟きが落ちる。
「髪を切って下さる方が、もういなくなってしまって」
己の感情を抑えるようにゆっくりと言って、ルナはそっと息をつく。その様があまりに寂しそうで伊吹も目を伏せる。何故、など聞かずともルナの声と表情だけで、その人物がもうこの世にはいないのだと知れた。
どのような人物かはわからない。その人物がずっとルナの身の回りの世話をしていたのだろう。ルナからは深い信頼をおかれていたようだ。人の感情には疎い伊吹にさえすぐに感じ取れるほど深く、強く。また胸が苦しくなる。
「俺が切ってやろうか」
その信頼を己へも向けて欲しい。そう願う内に我知らず申し出ていた。緩く瞬くルナの瞳が、どこか驚いたような顔の伊吹を小さく薄く映していた。
沈黙を埋めるように彷徨う指先がルナの髪に触れる。下ろされた白い髪の一房を指先で掬い取り、伊吹はその先端に口付ける。あたたかい想いが胸に満ちる。手袋を外したルナの青白い手がそっと伊吹の指に触れ、力も込めず易々と髪を奪っていく。
「では、後でお願いします。……長すぎて、少し不便でしたから」
「ああ」
言い訳するように呟かれる、ルナの最後の言葉。答えを口にしながらもまだ内では葛藤が続いているのだろう。それでも伊吹の心は喜びに震える。抱きしめたいのを辛うじて堪え、拳を握る。膝の上に置いていた紙袋がかさりと音を立てた。
その音に呪縛を解かれたように伊吹はそっと息をつく。この部屋に帰ってきた途端、ルナの姿を見た途端、あれほど鳴いていた腹の虫もなりを潜めていたから、空腹であったことをすっかり忘れていた。
「とりあえず、飯にするか」
「リンゴだけで伊吹は足りますか?」
「多目に食えば大丈夫だろう」
懐からナイフを取り出しながら伊吹が請け負う。色づきの良いリンゴをひとつ手に取った。ルナがそっと、小さな屑篭を伊吹の足元へ押し出す。それを両足の間へ置いて、皮を剥き始める。伊吹一人で食べるときよりも丁寧に剥いているはずだったが、時々皮に厚く実がついている。
ルナが笑みを浮かべて伊吹の手元を見つめている。その笑みに唱和するように、皮とナイフがしょりしょりと小気味良い音をたてる。慣れない穏やかな空気はむずがゆいが、ヴァレリオたちといたときのような居心地の悪さはない。
皮を剥き終えると、表面がぼこぼこした不恰好なリンゴを丸ごとルナに渡す。手にしたそれに戸惑ったようにルナが瞬きをくりかえしている。
「そのままだと食いにくいか?」
はたと気づいて伊吹が問う。ルナの曖昧な首の動きに肯定を読み取り、丸かじりでも気にならない己とは随分違うものだと感心する。
ルナの手からリンゴをもう一度貰う。大雑把に四つ切にして、種と芯を取り除いてから、今度は一切れだけをルナへ差し出す。
「ほら」
「ありがとうございます」
緩やかに頭を下げてルナがそれを受け取る。目を伏せたルナの唇が動くのが見える。短い簡易なものではあるが食前の祈りのようだった。伊吹は口を噤み、そんなルナの姿を見つめていた。
祈り終わったルナが小さく口を開いてリンゴを齧る。その様が小動物めいて愛らしい。見ていてむずがゆくなってきて、誤魔化すように伊吹もリンゴの一切れを齧る。値段の割りに上等のリンゴのようで、随分と蜜が多い。伊吹には少し甘すぎて感じた。
「美味いか?」
「はい、ありがとうござます」
「ブドウもある。食うか?」
「いえ、今は……。食べた後で種をまいたら、芽が出るでしょうか」
出ないだろう、と言いそうになるのを伊吹はリンゴを頬張って堪える。夢見るような口調が現を離れてしまっているようにも感じて、不安になる。願望めいた呟きを落とすルナの唇がリンゴの蜜に濡れていた。胸がつきんと痛む。
リンゴをふた切れ食べただけでルナは満足したようだった。ルナの食べ残したひと切れと、新しく剥いたリンゴを丸齧りにして、伊吹も食べるのを止める。
「ご馳走さまでした」
伊吹へ頭を下げてルナがそっと息をつく。己の指についた蜜を舐めとる伊吹を見て、ルナがサイドテーブルの引き出しから白いハンカチを取り出す。差し出された布で指を拭きながら伊吹はミルクを一本、ルナへ向ける。きょとんとした表情で瓶を眺めてからルナは笑みを浮かべた。
「ミルク……。もう随分、飲んでいませんでした。懐かしい」
「これを飲むと元気になるんだと」
ぶっきらぼうな伊吹の言葉にルナが目を伏せる。元気に、と小さく呟いてまた口を閉ざした。どこかしら重たい空気が、カンテラのほの暗い火に照らされて余計に重くなっていくように感じられる。
僅かの間の後でルナが口を開く。
「頂いても構いませんか?」
「ちょっと待て」
言い置いて、ナイフの切っ先で瓶の蓋を開ける。振動で中のミルクが音をたてる。微かな音のはずなのに妙に大きく部屋に響いた。ほら、と改めて瓶を差し出す。礼の言葉と共にルナが受け取り、口をつける。
白く滑らかな喉を、伊吹はぼんやりと見つめていた。肌に隆起を走らせる骨がくっきりとした陰影を作る。それが何故だか不思議に思えた。細い体、白く透きとおる体が、伊吹と同じようにきちんと動いているのも不思議だ。
元から色をもたない白い髪はベッドの上に緩く波打っている。無意識のうちにその先っぽを指で弄っていたことに、ようやく気づいた。少し痛んだ髪先を指に巻きつけては解き、また巻きつける。
視線を感じて我に返る。ルナが伊吹を見つめていた。咎めるでもなく嫌がるでもなく、かといって歓迎するでもない。ただ見つめている、といった風の視線だ。それだけの視線だというのに心が落ち着かない。己の中のすべてを見透かされているようだからかもしれない。
動揺を殺して伊吹は視線を改めてルナへ向ける。
「もう良いのか」
「はい……。本当に、ご馳走さまでした」
「少し眠るか?」
ルナが僅かに首を振る。伊吹の手の甲に白い髪が流れる。こそばゆい感覚が心地良い。雲隠れした月のようにぼんやりとした、淡い笑みを浮かべてルナが言う。
「髪を切ってくださるのでしょう?」
「……ああ」
本の山に埋もれるようにして置いてある小さな丸椅子を、視線の端に見つける。髪の上からルナの背を撫ぜる。ルナに触れていると不思議なほど心が落ち着いた。
「良いのか、俺で。道具なんてねえからナイフでやるぞ」
「構いません」
「上手く出来ねえ」
「上手くなくても……短くして頂ければ、それで」
「わかった」
溜息と共に伊吹は立ち上がる。
自分から言い出したくせにいざとなると、本当にルナの髪を切ったりして良いのだろうかと、不安になった。それでも、伊吹に髪を切ることを任せてもらえるのが嬉しかった。
埃を被った本を退け、椅子を持ってくる。積んであった古新聞を、断ってから拝借して床に敷く。その上に椅子を置いて、ルナを呼び寄せた。
立てるかとも聞かず、手を貸してくれとも言わない。二人とも無言のまま、伊吹は椅子の側に立ち、ルナは椅子に腰かける。しっかりと背筋を伸ばして座る凛とした姿は美しかった。
美しすぎて、また不安になる。
無言で向けられている背が遠すぎて、胸が苦しい。
「タオルはあるか?」
「……そこに」
指された所にあった白いタオルを手に取り、ルナの肩へかける。全身を覆うほどのものではなかったが、ないよりはましだろう。
ルナの髪に改めて触れる。片手にルナの髪を持ち、もう片方にはナイフを持つ。彼が最後に髪を切ってから今までに生きたのと同じだけ伸びた髪。それを今から己が切るのだと思うと、伊吹の心はひどく騒ぐ。けれど心の奥底は奇妙なほど静かに凪いでいた。何か神聖な儀式を執り行う者はこんな心境なのだろうか、などと柄にもないことさえ思う。
「切るぞ」
「お願いします」
「後から文句を言うなよ」
「言いません」
首筋の辺りで白い髪を掴む。寄せられた髪の合間に覗く肌と黒い法衣とが、どこか官能的だった。抜いた白刃で一息に髪を切る。肉を切るでも骨を断つでもない、違和めいた感覚に伊吹は息を呑む。思い出すのはピラミッドで手にかけた死人の感触。
「ルナ」
己の連想に寒気が走る。それを抑え込むように呼びかける。はい、と小さく応えがある。それを聞いてようやく、ざわついた体の表面が落ち着いていく。
ざくざくと音をたてながらルナの髪を切る。不慣れながらも、出来るだけ整って見えるようにと気をつかった。こんなに神経を集中したのは初めてだったかもしれない。
時計の代わりに髪が音を刻む。時のように新しく前へ進むのではなく、身を削り剥ぎ取りながらも何かを待ち続けているような、妙な印象が伊吹の中に残る。何かを待つ。何か。何を待つというのだろう。ルナが何かを待っているとしたらそれは、人でもなく物でもなく、もっと大きな何かなのだろう。
ルナの白い首筋が、髪を押さえておかなくても露になる。そこまできて一度手を止める。二歩離れて壁際からルナを眺める。しばらくしてから近づいて髪を切り、また離れる。それを何度かくりかえしてから、ようやく伊吹は満足する。
「こんなもんだ」
ナイフを懐へしまいながら伊吹が告げる。ルナの肩からタオルを外し、新聞紙の上で払う。表にしていた面を中へ畳むようにして折ったタオルで、ルナの背についた髪の切りくずを落としていく。
「ショック受けたくなけりゃ、鏡は見ねえ方が良い」
「だいぶ……体が軽くなった気がします」
「なら、切らねえ方が良かったか……」
タオルを床の上へ捨てるように置く。空気が僅かに動く。白い髪が羽毛のようにふわりと浮いて、また新聞紙の上に落ち着いた。伊吹が一歩踏み出すと古新聞がかさりと音をたて、文句をつける。それを無視してルナの細い肩を後ろから抱く。
「……ルナは、どこかへ行っちまいそうで、怖い」
腕の中でルナが身じろぐ。
その身じろぎさえも不安で、腕に力を込める。
「怖い」
口にすると余計に恐ろしく感じられる。それを打ち消そうと呟いては、自身の言葉で余計に募らせる。ルナからの答えはない。部屋は静まりかえっている。カンテラのたてる小さな音まで聞こえそうだった。
どこへも行きはしないと言って欲しかった。それがいずれ破られることになるとしても構わない。もし明日彼が忽然と姿を消してしまったとしても、その一言があれば明日のそのとき、その瞬間までは心安らかでいられる。
「伊吹」
優しく名を呼ぶ穏やかな声は、けれど酷く伊吹を不安にする。流れる風に遠く死臭を感じたときのような、この部屋に時計がないと気づいたときのような、微かな違和がある。上手く言葉に言い表せない類の何かが。
「ごめんなさい」
唐突とも思える呟きをぽつりとルナが落とす。
何がだ、と問い返すより前にルナが立ち上がった。羽毛のようにそっと、立ち上がった本人すら気づかないのではと思うほどさり気なく、細い体が伊吹の腕から離れた。
白く細い指が、短くなった白く細い髪に触れている。本当に短くなったことを確かめるように、己の失ったものを再確認するように、そっと。そしてぱたりと、手を下ろす。
赤い瞳は伏せられている。その瞳が何を捉えているのか伊吹には知る由もない。視線の先に己だけがあれば良いのにと伊吹もまた視線を伏せる。そんなことは、あるはずがないのに。
「短くなって、さっぱりしました」
「そうか」
「ありがとうございました」
ルナが頭を下げる。その白い頭の頂が見えて伊吹は視線を逸らす。礼を言うのならば何故そんなに悲しそうな声なのか。尋ねようにも声が出ない。言葉が見つからない。何をどう言えば伝わるのか、己の気持ちに言葉が近づくのか、わからない。
「少し休め。片付けはやっておく」
「悪いです」
「うるせえ」
乱暴に言い捨てて椅子を退かす。椅子の立てる音に追われてルナはベッドに入る。それを見てから伊吹は、髪を零さないように新聞紙を纏めながら持ち上げる。
くしゃくしゃの新聞紙の中にはルナの過ごした時の一部が切りとられている。数年分はあるだろう。人一人が生きてきた名残にしてはあまりに軽い。それが悲しくもあり、愛しくもある。
「しばらく、このままここにいても良いか?」
振り向いて尋ねる。応えはない。ぼんやりとした視線が伊吹を通り過ぎ、その向こうへいく。何かに焦がれるようにも、夢を見ているようにも感ずる、遠い視線。淡く浮かんでいる笑みさえ、どこか遠い。
何も言わないままルナは目を閉じる。伊吹も何も言わないまま外へ出る。扉を閉めてからようやく、つい先ほどルナが何を見ていたかに気づく。
外へ出たいのか、と声には出さずに呟く。呟いた己の唇を指先で触れる。僅かに乾いていた。
ふと視線を落とすと、手にした新聞の合間から髪が零れ落ちていた。風が吹く。石畳の上に散った白い髪が重たげに身を起こし、風に舞う。
白い欠片たちが日にきらめきながら飛んでいくのを、伊吹は立ちつくしたまま見つめる。顔を上げると目が眩む。空の青さが眼底に焼きつく。得体の知れない悲しみが胸に満ちた。
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