オーブリエチア(5)
光の柱をくぐるようにして出た先は、明かりも灯らない、闇に閉ざされた細い路地だった。ルナに答えたとおり空に月の光はない。一寸先も覚束ない夜ではあるが、目を凝らしてみるとどうも住宅地の只中らしい。
家と家の合間に潰されまいと懸命に建つような、極小さな家が伊吹の目の前にある。扉の横に小さく表札が出ているようだったが見ることは叶わない。
ほんの数秒、一人で立ち尽くした。その数秒がずっと続きそうで怖かった。不安に指先まで強張る。ルナは本当に来るだろうか、と恐れが生まれた頃、燐光と共にルナが姿を現した。消える光の名残のような淡い笑みを浮かべ、取り出した鍵でルナは錠を外す。
「留守がちで汚れていますが……どうぞ」
「ああ」
言われて遠慮なく足を踏み入れる。ぱたん、と背後で扉の閉まる音がする。少しの間を置いて薄暗い光が灯る。照らされたのは二人入っただけでも手狭に感じる、一間の部屋。調理するスペースすら置かれていない。
窓があったと思われる場所には、外敵の侵入を防ごうとしているかのように念入りに板を打ち付けてあった。その窓に寄せるようにしてベッドとサイドテーブルが、ひとつずつ。床の上には本が所狭しと積み重ねられている。本棚を置くだけのスペースは確かになさそうだ。
サイドテーブルの上には、分厚い小判の本が一冊置いてある。古く硬い表紙の上では金箔押しされていた文字が消えかけている。聖書なのだろう。根拠もなくそう思って、伊吹は納得する。それが一番ルナらしい気がしたのだ。
「すみません。ここへ戻って来るのも一月ぶりなものですから……」
「別に。気になるほどでもねえよ」
「なら良いのですが……。部屋に戻っても、苦手だからと掃除を後回しにしてしまうものですから」
「意外だ」
「そうですか?」
控えめな笑い声を漏らしながらルナが、カンテラをサイドテーブルに置く。本をそっと手で押しやり、カンテラから遠ざける。部屋が狭い所為か肩が触れ合いそうなほど近くにいる。ちらとルナを見やれば、視線はどこか遠くを見ているようだった。やわらかな横顔には目に見えて疲労の色が強い。
カンテラが小さく音を立てる。はっと我にかえったルナが伊吹を向く。
「ああ……気がつかなくてすみません。ベッドしか場所がなくて申し訳ないですけれど、良かったら座ってください」
「ルナは?」
「荷物を置いて……後は着替えを」
待っていてください、と言い聞かせるように言われては伊吹も黙って頷くしかない。再びルナが外へ出ていくのをぼんやりと見送った。
暗い部屋に一人きりでいる。ただそれだけのことなのに、可笑しいくらいに心細い。ルナが戻って来なかったらどうしようと、不安だけが募る。彼が嘘をつくはずがないと思っても心が止まらない。
この部屋の所為かもしれない。ここには不思議なほど生活臭がない。食料品すら、狭い部屋のどこにも見つけることが出来ない。異様に静かな部屋だった。夜の底に沈みこんだかのように、外からの音を全て拒絶するかのように。
長いこと耳を澄ませて、ようやく気づく。
時計の音が聞こえない。
生活用品を揃えようともしない伊吹でさえ、小さいものをひとつ部屋に置いてある。時を刻む音がこの部屋にはない。その所為だろうか、と伊吹は一人で納得する。この部屋はどこか、死んでいるみたいだ。
訳もなく不安になる。不安でたまらない。何もかもがなくなっていくようだ。虚無、と言葉が心の底から湧き上がる。夜の海を上から覗いたときのような、奥底に何かが潜んでいそうな、それでいて何もなさそうな……。
「お待たせしました」
気がつけば戸口にルナの姿があった。着ているのはやはりプリーストの黒い法衣。先ほどとは違い、皺ひとつない新しい綺麗なものだ。
「お茶でも出せれば良かったのですが、あいにく、器具もなくて」
「気にすんな」
「お客様をお通しするのが初めてだったので、少しはそれらしいことをしてみたかったのですけれど」
「初めて?」
意外そうに呟くとルナはただ微笑みを返す。あたたかい、先と同じはずの笑み。だというのに、部屋を見た後だからだろうか、どこか寂しそうに見えた。深い闇が立ちこめている所為だろうか。
ルナがゆっくりと近付いて来る。足音のない静かな動作に、不安になる。
「クッキー程度ならありますが……召し上がります?」
「腹は減って……」
否定する伊吹の言葉をぐうと鳴る腹の虫が遮る。不貞腐れてそっぽを向く伊吹の前に、小さな包みが差し出された。透明の袋の中には人形を模った、やや大きめのクッキーが一枚。
「お腹を減らしたままだと、体に悪いですよ」
「ルナは?」
「私は……伊吹と会う少し前に食事をとりましたから」
「一人で食べるのならいらない」
「では……」
顔を背けたままの伊吹の後ろで袋を開ける音がする。継いで乾いた音。
不意に視界にルナの白い手が飛び込んでくる。
「半分こ」
視線を戻してみれば、小首を傾げてクッキーを差し出すルナの姿があった。浮かぶいつもの微笑は、いつもよりどこか楽しそうで、断り文句も思いつかずに伊吹はひとつ頷いた。
口元へ差し出されているクッキーの半分を、手では受け取らずにそのままルナの手ずから食べる。一口で全部を口に収めてしまい、ついでにとルナの指を軽く舌で舐めておく。噛むまでもなく甘い味が口中へ広がる。慣れないそれに自然、顔が歪む。
口の中のクッキーを咀嚼し終えたところでルナが再び残りのクッキーを口元へ近づける。いらないと跳ね除けようとした。が、ルナのあまりに楽しそうな笑みに押し切られるようにして、クッキーを口内へ放り込まれる。
「如何ですか?」
「…………甘ぇ」
「疲れているときには甘いものが良いそうですよ」
しかめっ面の伊吹をなだめるようにルナの手が優しく触れる。髪を撫でられるのがひどく心地良く、それでいて不満でもある。口に入ったものは仕方ないとばかり、伊吹は大して噛みもせずにクッキーを飲み込む。
「ルナ」
「はい」
「子ども扱いしてんだろ」
伊吹の言葉にきょとんと瞬いた後、微笑みと共に曖昧に首を振るルナ。微風にそよぐ葉のような仕草に毒気を抜かれて伊吹はぶすくれる。
子ども扱いされるのも仕方ないとは、思う。実際に年下には違いないのだし、初対面のときから伊吹はルナに甘え続けている。本当に子どもじみた我がままもくりかえしている。仕方ないのだ。わかっていても面白くない。
跳ねる黒髪をなだめ梳く優しい手を掴む。一瞬の冷たさの後には熱が滲み出るように伝わってくる。戸惑いを浮かべるルナには構わず、その手を引き寄せる。ルナの身を抱き寄せながら一緒にベッドへ倒れこんだ。身じろぐルナを寝台へ押し付け、上へ圧し掛かる。
しばらくの抵抗が続く。無理に両手を押さえつけて自由を奪う頃には、緩く留められていた法衣の襟が乱れ、真白い肌が覗いていた。
「伊吹……」
その白さに誘われて唇を寄せる。ルナの困惑した声が耳に届く。どこか、泣き出す寸前のようにさえ聞こえる。その声があまりに頼りなくて、伊吹は触れる寸前で唇を止めた。
自棄にも似た情欲を際で押し止めるのは、生まれて初めての罪悪感だった。
「っ……クソ」
舌打ちと共に悪態をついて伊吹はルナの上を退く。横に身を投げ出す。口付けを逃した代わりとばかり、ルナを抱き寄せる。微かな湯と石鹸の匂いが伊吹に届いて、くすぐったい。
「伊吹。あまり、そのような言葉を使ってはいけませんよ。言葉には力が宿るもの。荒んだ言葉を使う内に、心も本当に荒んでしまいます」
「俺が丁寧に喋ってたら気持ち悪ぃだろうがよ」
抱きしめたルナの首筋へ顔を埋めるようにしながら吐き捨てる。ルナが小さな笑みを零すのが耳元に聞こえる。きっと可愛らしいですよ、と穏やかな声が囁く。からかうようでもないその声に胸が締め付けられる。今までになく満ち足りた想いに、当に枯れたと思っていた涙が零れそうになる。
先の制止も忘れて、唇を白い首筋へ触れさせる。水の香と石鹸の甘い匂いに混じって、取り切れない死者の匂いが極僅かに届く。もうルナの体に染み付いてしまったものなのか。それとも、と考えて伊吹は身震いをする。
「ルナ」
小さな声で呼びかけると、ルナが物憂げに顔を上げる。緩やかに瞬く瞳は赤く潤んでいる。薄く開いた唇から洩れる吐息が顎先に僅かにかかる。妙に熱い。
「ルナ……?」
視線が定まりきらずに時折ふらつくルナに不安を覚えて、再度呼びかける。その声にようやくルナの視線がしっかりと伊吹を捉えた。花開くようにゆっくりと笑みを滲ませる顔には、疲労が見え隠れしている。
「伊吹? ……どうかしましたか、どこか痛いですか?」
「俺はどこも痛くねえよ。ルナの方が……どこか痛いんじゃねえのか」
顔色が悪い、とこの時になってようやく気付く。ルナとの再会に夢中になっていた己の鈍感さにまた舌打ちが洩れる。たしなめるようにルナが指先で伊吹の唇に触れる。そっとひと撫でしてから、力尽きたように手が下へ落ちる。
何度か首を振りながらルナは伊吹の首筋へ顔を埋める。見下ろせば、じっと何かを堪えるように閉じられた瞼が微かに震えていた。
「大丈夫……少し、疲れただけです。戻った後はいつもこうですから」
「体、弱いのか?」
尋ねてからまた後悔が募る。もっと聞き方があったのではないかと、そもそも聞かない方が良かったのではないかと、次々に浮かぶ疑問が苦い。心の内に沈殿していく。
「いいえ。少しだけ、人よりも出来ることが少ないだけです」
躊躇うような間の後でルナが首を振る。小さな声は強がる風でもない静かなものだ。平静を装い、そうか、と一言を返すだけで精一杯だった。
他に何を言うことも出来ずにただ抱きしめる。
「疲れが溜まると熱を出しやすいものですから。風邪や、何か病気というわけではないので、うつりはしませんが……」
「離したくない」
「……気持ち悪いでしょう?」
微かに震えを帯びた声が耳の底にこびりつく。何が、と問い返しそうになったのを辛うじて呑み込む。何が、などわかりきっている。その問いがルナの口から発せられたことが、ただ胸に痛い。
「誰がお前にそんなことを言った」
考えるより先にまた問いが洩れる。怒気をはらんだ声に、腕の中でルナが身を竦める。細い白の睫が伏せられ、震えている。伊吹の視線から逃れようとするように顔が俯く。
「誰がお前に、そんなことを言った」
「誰も……」
「嘘だ」
言い切る伊吹の中に、その根拠は明確にない。ただそう直感していた。ルナのその言葉を全て、根から否定したかった。けれど、言葉を少し否定するだけでルナを傷つけてしまいそうだった。どうすれば良いのかわからなくて苛立つ。
苛立ちをどこへぶつけて良いのかもわからない。姿も名も知らない、ルナを貶めた者たちへか。何も出来ずに負担をかけてばかりの己へか。自分を守ろうともしないルナへか。それとも、もっと他の何かなのか。
「ルナの話が聞きたい」
「私の……ですか?」
「お前の」
「何を話せば良いのかわかりません」
首を振って目を閉じる。たったそれだけの、ほんの僅かな仕草に全てを否定される。零れ落ちそうになる何かを封じ込めるように、ルナを抱く腕に力を込めた。
「なら、ルナの生まれとか……何でも良い」
お前のことが知りたい、と白い耳の側で囁く。何度も、何度も。その度に返るのは無言の拒絶。やんわりとした撥ね付けが、あまりにもさり気なくて上手く返せない。
「ルナ……」
「伊吹は、私に尋ねられたらご自分の生い立ちを話してくださいますか?」
「話すほどのことなんてねえ」
ルナの首筋に口付けるようにして顔を埋める。身じろぎながらルナが何事か呟く。確かに耳はその声を捉えたのに、脳がそれを言葉として纏めてくれないもどかしさ。
掠れて消えかけた、岩に刻まれた文字を、指先で触れて解読しようとするように、ルナの声を何度もくりかえし、辿る。やがて砂を払いのけるようにして浮かび上がる。
同じですよ、と優しい声が言った。
何が同じものか、と抗いの声は喉で張り付いたまま、出てこない。
「ルナが聞きたいと言うなら、俺は話したって構わない」
沈黙だけが返る。細い体を抱く腕に伝わるのは、妙に高い、高すぎる体温ばかり。赤い瞳が何を語るのか、覗こうとしても瞼が伏せられている。
「どうしてルナは俺を拒む」
躊躇いの後で二度、首が横に振られる。力なく揺れる頭が重たげで辛そうだった。伏せがちな瞼に誘われて伊吹は口付けを落とす。ルナが小さく身じろいだ。
その否定がたとえ気休めでも、反射的なものであったとしても、拒絶しているわけではないのだと示されるだけで、馬鹿みたいに嬉しかった。
「……ルナ?」
耳にしていたルナの呼気が僅かに荒くなっていた。伊吹の声に応えるように薄く瞳を開くものの、すぐにまた閉じてしまう。ぐったりと伊吹にもたれかかるルナの体を抱きしめると、ルナが辛そうにしているというのに、妙な喜びが伊吹の胸に満ちる。
「ごめんなさい。少し……休ませてください」
辛うじて、といった風に小さな声を口にして、ルナが完全に目を閉じる。それきりルナは口を閉ざす。部屋にはまた沈黙が戻る。
それでも耳元で聞こえる寝息が、伝わる鼓動が、腕の中の体温が伊吹を安堵させる。時計がなくてもここで息づくものがあると、嬉しくなる。
うなされているのか時折ルナが苦しそうな声を喉の奥で呑み込む。見よう見まねでルナの白い髪をそっと撫でてやる。ピラミッドで助けられたとき、こうして髪を撫でられるのはとても心地良かった。伊吹にはルナのように癒やすことは出来ない。けれど、少しでも己が感じたのと同じ安らぎが、ルナにも伝われば良いと願って、不器用な手を髪へ滑らせる。
カンテラの光を頼りにじっとルナを見つめる。淡いオレンジと暗闇に縁取られた顔は、こんな時でも美しく見える。額へ、瞼へ、頬へ、鼻先へ、唇へ。ひとつひとつ慈しむように口付ける。何度口付けても足りない。
この夜が明けなければ良い。
いつまでも、この満ち足りた想いが続けば良い。
やがてカンテラが眠りについてなお、伊吹はルナを見つめ続けていた。
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