オーブリエチア(4)


 固定パーティを組むようになってから、一月が過ぎた。
 瞬く間に過ぎたと感じるのは、人と過ごす時間の増えた所為か。気がつけば吹く風には秋の気配が潜んでいる。

「それじゃあ今日もお疲れ様。ゆっくり休んで、明日も頑張ろう」
「お疲れもお疲れ、今日はへとへとだ……」

 ゲフェンの一角。テイミング商人の構える店で清算を終え、そのまま路上で雑談を決め込む冒険者の姿がみっつある。くすんだ金の髪をしたプリーストに、深い青の髪をしたウィザード。黒髪のローグがただ一人、そっぽを向いて口を噤んでいる。
 ヴァレリオとアルカージィもこの一月で慣れたもので、無理に伊吹を会話へ加えようとはしない。

「なら今日は寄り道はなしだな」
「え。酒……」
「アルは飲みすぎるから……。朝起きて来られなかったの、今月だけで何度あった?」

 優しくたしなめるようでいて有無を言わせないヴァレリオの声。気ままなアルカージィもそれには逆らいがたいのか、溜息をひとつついて、はーいと不貞腐れた返事をする。

「伊吹も、今夜は一人で狩りをしないで休んだ方が良いかもしれない」

 共に過ごす間にヴァレリオは伊吹を呼び捨てるようになった。他人からどう呼ばれようと構わない伊吹だったが、呼称の変化がそのまま過ごした時間を表すようでむず痒く、焦燥に駆られる。
 夏の日差しも気付けば鳴りを潜め、頬にあたる光はやわらかなものへ変っていた。一月の間ずっと伊吹の心はルナにあった。気がつけばルナのことばかりを考えていた。まだピラミッドの地下で一人狩り続けているのだろうか。伊吹のことを忘れてはいないだろうか。疑問が浮かんではそのまま焦りに変る。
 会いたい。伊吹自身、滑稽なほどにそう思う。生まれて初めて交わした心からの約束に縛られている。欲望を抑えこむのも、初めてのことだ。いつの間にか過ぎ去る季節より、己の変化に戸惑う。

「ピラミッド、に……」
「――ん?」
「行けると思うか?」
「一人でかい」
「ああ。どうしても、地下二階に行きたい」

 伊吹が珍しく自分から話を振ってきたかと思えば、急の問い。困惑に眉を顰めるヴァレリオに、未だ無謀なことなのだろうと知れる。

「回復剤を積んでいけば、多少はいけるかもしれないが……。すぐに戻らないと危険だと思う。伊吹が盗作出来るなら、アスペルシオを教えていったんだけど」

 言いにくそうなヴァレリオの口調にも、伊吹はぱっと顔を上げる。僅かな光明をそこに見た。よほど明るい顔をしていたのだろう。ヴァレリオとアルカージィが物珍しそうな視線を伊吹へ向ける。前者は控えめに、後者はぶしつけに。

「少しでも行けるなら構わねえ」
「まさか、今から行くつもりか?」
「今日が良いんだ」
「急ぎの用でないなら、もう少し経験を……」
「急ぎだ」

 会話を打ち切る性急さで伊吹が言葉を遮る。
 アルカージィは二人の会話に加わらず、テイム用品を眺めていた。いつも飄々としているが、今日ばかりは疲労の色が濃い。
 いつもの気紛れだというように物憂げに、アルカージィが視線を伊吹へ向ける。

「死なないでよね」

 他人には興味を示さないウィザードの、これまた珍しい言葉に伊吹が警戒を見せる。と、にやりと笑いながらアルカージィが言葉を継ぐ。

「お前が死体で帰ってくると、ヴァルが泣くんだから」

 だから死ぬな、と勝手な言葉がアルカージィらしい。この無遠慮とも思える無造作さが、伊吹には少し馴染みやすい。それをわかってやっているのか、ただの地なのか。知るのは本人ばかり。

「僕は泣かないけど」
「アル」

 たしなめてばかりでよくも疲れない、と呆れと感心の入り混じった溜息をつき、伊吹はヴァレリオへ視線を向ける。少しずつ精悍さを増していく成長途中の横顔に浮かぶのは、穏やかな笑みだった。
 このプリーストといい、ピラミッドに住まうルナといい、何故こんなにも笑みを向けてくるのだろう。誰かが伊吹に微笑みかけるときには、必ず裏があった。それが彼らにはない。心がざわめく。落ち着かない。それを紛らわせるように伊吹は立ち上がる。

「行くだけ、行ってくる」
「……止めても無駄そうだな」

 重い溜息と共にヴァレリオも立ち上がった。何をするのかと伊吹が身構える。淡く笑みを浮かべたヴァレリオの手が伊吹の肩にそっと触れる。

「伊吹がまた、無事な姿で戻って来るよう、神の御手がお守りくださるように。明日、また共に時を過ごせるように。地中深き所まで神の息吹が届き、悪しきものたちを退けるように」

 穏やかな低めの声が歌うように祈りを紡ぐ。独特の抑揚が心地良くて、決まり悪い。囁きめいた小さな声に乗せて、いくつかの術がかけられていくのがわかる。
 居づらさに身じろぐと朱の手袋に包まれた手がさり気なく離れる。同時に伊吹が一歩下がり、距離を置く。見やる先の茶の瞳に浮かぶのは、心配の色。慣れないそれを振り払うように背を向けた。

「気をつけて。……伊吹に、神のご加護があるように」

 見送りの言葉までが祈りのようで、伊吹は知れず苦笑を浮かべる。アルカージィは既に別れを済ませたつもりなのか、何も言わない。
 身軽になった体を、夕闇の中へ滑らせた。

 * * *

 カプラの転送サービスを継いでモロクへ着いたのは、夜の冷気が忍び寄る頃だった。砂漠の夜は寒い。倉庫から取り出したマントに身を包み、多少の暖をとる。
 仕度を整える僅かの間さえ惜しく伊吹は歩きだした。向かう先は勿論ピラミッドだ。術が生きている内に少しでも距離を稼ごうと、駆けに駆ける。
 冷たい風に鼻が痛む。ピラミッドの入口まで行くと篝火の橙が出迎える。懐かしい香が伊吹を包む。胸が高鳴る。知らずの内に足が速まる。
 もうすぐルナに会えるのだ、と全身が見えない予感に打ち震えている。
 冷気の中でも滲む汗を拭おうともせず、地下への道をただ進む。足取りには一片の迷いもない。ルナに一目会えるのならその先で息絶えても構わない。
 纏わりつくファミリアを払いのけるように斬り捨て、階段を駆け下りる。迷宮のように入り組んだ地下一階を、勘だけを頼りに進む。石牢じみた道を奥へ向かうにつれ空気が濃くなっていくのを感じる。かび臭いとも死臭ともつかない悲哀に似た空気。時を止めたような、何もかもを諦めてしまったかのような、停滞した匂いだ。それを運んでくる一筋の風がある。

 地上から遠く離れてなお細く吹く風。以前来たときには、伊吹は気付かなかった。ヴァレリオの祝福の名残か、ルナの呼ぶ声なのか。らしくもない思考に苦笑して伊吹は歩を進める。
 気が急くばかりで僅かほども進んだ気がしない。もどかしさに胸が苦しい。早く、早く、と急きたてる声が大きくなっていく。耳のすぐ側で鐘を打ち鳴らされているかのような鼓動がわずらわしい。
 番人の如く放たれたミノタウロスが一匹、伊吹の姿を認めるなり突進してくる。大きく振り上げられたハンマーをかわし、そのまま横をすり抜けた。
 息を吐く度に喉が焼ける。けれど決して足は止めない。事前に地図を見てきてなお覚えきれない道。行き止まりへ出るごと苛立ちが募る。舌打ちをしながらいくつめかの角を曲がったところで、ようやく下りの階段を見つけた。張り詰めていた気が僅かに和らぐ。
 今行ってもルナがここにいない可能性は、何故か考えなかった。思いもつかなかった。彼はここに必ずいるのだと確信めいたものがあった。ルナが、あまりに馴染みすぎていたからかもしれない。

 一息に階段を降りると闇が濃くなったように感じる。
 硬いブーツの音が冷たく反響し、高すぎる天井に吸い込まれていく。薄闇の中から人影が現れた。視認するより先に体に怖気が走る。エンシェントマミー、と呼ぶともなく彼らにつけられた名を呼ぶ。本能的に後退しそうになるのを無理に前へ出る。
 腐って解けかけた包帯の合間から暗い眼孔が覗く。その虚ろな色にかつての名は見出せない。気配を察知したのか、死人がその歩みを明確に伊吹へと向ける。先制攻撃とばかり、接近してくるのを待たずに伊吹から駆け寄る。
 手に抜いた新しい刃が鋭く光る。ここへ来るためだけに買った武器はまだ馴染まない。伊吹をめがけてくりだされる手刀を盾でいなし、空いたエンシェントマミーの脇腹へ短剣を突き刺す。布を切る感覚と、ざく、と慣れない抵抗が返る。生物の臓腑を貫いたときとは違うそれに、背が寒い。
 もう彼らに痛みはないのだろう。それでも己の腹に刺さった刃を見下ろし、ややあってから怒りの声を上げる。獣の咆哮にも似た、どこか哀愁の漂う声はしかし、空気が洩れ出るような微かなもの。
 エンシェントマミーの手が盾を払い、返す力で伊吹の腕を切りつける。鈍い痛みと共に鮮血が散る。腕に食いつくその指が邪魔だと伊吹が刃を振り下ろす。ざり、とまた砂を刺すような感触が伝う。思わず止まりそうになる体を叱咤して、エンシェントマミーの指先を盾で受ける。強い力に腕が痺れた。気の遠くなるほどの年月を経た死人らのどこに、こんな力が残っていたのか。

「っ……」

 刃をくりだす度に伊吹はぐっと奥歯を噛み締める。気合の声を決して上げないように。少しでも力を乗せられるように。たとえ苦痛を受けたとしても、それを表さないように。
 交戦が長引くにつれて伊吹の瞳に焦りが浮かび始める。息が苦しい。額から汗が流れ落ちる。拭う暇などない。だというのに対峙する相手には疲労は見えない。永遠に続くのではと思わせる。
 いっそ、振り切って逃げるか。
 弱気な考えが頭を過ぎる。
 不意に、体をあたたかいものが包むのを感じた。穏やかでやわらかい、まだどこか少し少年らしささえ残した声が、細く耳に届く。体のあちらこちらについた傷が薄れ、しまいには最初からなかったかのように消える。上がっていた息も少しずつ収まっていく。
 そして気付く。
 今耳にしているのは、夢に見るまで焦がれた、懐かしい声。

「彼の者に闇を払う光をお与えください……アスペルシオ!」

 きん、と澄んだ音が応えるように響く。くりだす刃は先ほどまでと同じもの。けれど、刃の触れたところから死人の体が焼ける。熱いものが触れたかのようにエンシェントマミーの手が引く。

「御手を触れ、祝福を……イムポシティオマヌス!」

 両のこめかみに熱を感じる。誰かが手をかざし触れたかのような、穏やかながらも力づけられる感覚。あと少し踏み出せなかった一歩を踏み出せそうな気にさせられる。次第に動きの鈍くなっていく死人に、伊吹の心が晴れる。
 唇が緩みそうになるのを、油断は禁物と戒めてエンシェントマミーを睨みつける。体の奥で心臓が煩いのは激しい戦闘が続いたからばかりではなく、背後で祈りを捧げてくれる人物が気にかかるから。
 切っ先を惑わせぬよう、伊吹は殊更に鋭く短剣を振るう。ざ、と砂の中にめり込んだような感覚が、伊吹の肌を粟立てる。それを振り払うべく、突き刺した刃を一思いに下へ引く。胸骨の下から腹部にかけてを刃が切り裂く。所々が固まった、嫌な臭いのする塩が床へ零れた。死人の動きが止まり、糸が切れた操り人形のように倒れ伏す。

 戦闘態勢のまま伊吹はそれを見下ろす。視線の先でエンシェントマミーの体が音も無く崩れていき、灰のようにあたりに積もる。後に残ったのは、死者が身に着けていたらしいアクセサリーがひとつ。灰と砂混じりの床の上で悲しそうにその身を輝かせている。
 銀色のそれを拾い上げ、ひとつ大きく息を吸う。恐る恐る体を後ろへ向けなおす。急いで振り返ると、その勢いで何もかもが幻となってしまいそうで恐ろしかった。
 振り向いた先には、一月の間ずっと思い焦がれ続けたルナの姿があった。
 一ヶ月の間に、随分と小さくなったように感じられる。こうして立ったままちゃんとルナを見るのが初めてだからか。あの包み込まれる心地良さが、ルナを大きくみせていたのか、それとも己を小さく感じていたのか。
 元から細かった線が更に細く、脆いものへ変った、ような。心なしか白い顔からも生気が失せたように思う。死者たちの巣食うピラミッドに馴染みすぎて、魂だけになってしまったのではと、他愛もない不安に怯える。

「伊吹……?」

 驚いた声が薄い唇から震えて洩れる。今まで気付いていなかったのかと、伊吹は苦笑を噛み殺す。一方で、伊吹のことを覚えていてくれたのだと、嬉しくなる。ルナの戸惑いを含んだ視線が伊吹の鼻先をちらつき、離れる。
 不意にルナが踵を返す。そのまま立ち去らせまいと、細い手首を捉え、引き寄せた。よろめくままに伊吹の胸へ倒れこむ体は、見た目以上に頼りなく感じる。一瞬の抵抗を抑え込むように強く抱きしめる。
 こんなにも伊吹の心を占めるのに、実際の姿は小さくて、その落差に驚かされる。華奢というにもやや細い体は、肉が薄すぎて少し骨ばっていた。

「離して……ください」
「嫌だ」
「伊吹」

 たしなめる声さえ心地良い。泣き出す寸前のような切なさが胸を締め付ける。会えば収まるかと思っていたのに思いが満ち足りることはなく、乾いた喉を海水で潤そうとするかのように焦がれる。それがどれだけ苦しくとも、伊吹は他の水を知らない。だから貪るように目の前の水に縋りつく。
 無理矢理に触れ合わせた唇には、僅かに砂漠の匂いが残る。身じろぎひとつ許さないと、ルナの後頭部を手で押さえつける。渇きを満たそうとして荒々しく舌を差し入れる。細い手が懸命に伊吹の胸を押す。苦しそうに喉が鳴る音も気にならない。
 奥へ引かれるルナの舌へ絡みつき、表面を撫でる内に小さな水音が響きだす。細い腰を抱き寄せれば、もう片方の手は髪を撫でながらの緩やかな拘束に変る。
 駄目だ、と胸を押す手が伝える。間近で見つめる赤い瞳が熱を帯びて、どこか妖しい。凶暴な想いに囚われかけた。寸前で、辛うじて思いとどまる。
 微かに震えていた体が身じろぐのを止めた頃、ようやく伊吹は唇を解放する。苦しげに咳き込むルナの声が涙混じりで、煽られる。伊吹の首筋へ顔を埋めるようにして小さく鼻を啜っているのが聞こえる。

「何故、泣く」
「貴方の思いが激しすぎて……私には恐ろしいのです」
「怖がることなんて、何もねえ」

 ルナがゆるゆると首を振る。額が首筋をくすぐって面映い。白い髪は以前と同じに高く結い上げられているが、以前よりも少し伸びたよう。首筋へ、背へと流れる白い髪の合間から、薄く桃色に透ける肌が覗いて、艶かしい。誘われるように指を滑らせると、ルナが身を竦ませる。

「お願いですから、離してください。その方が良いはずです、私にも、貴方にも……」
「ここに来ても良い、会っても良いと、言った」

 なのに離れようとする、と詰る言葉に、ルナは涙と共に困惑を滲ませる。己よりも大きいと思い込んでいた人の顔が、視線の下で心細そうにしている。
 それでも、心に映る姿は大きなままだった。優しく献身的な姿。それを思うときにはいつも、暗いばかりの心に、やわらかくあたたかな光が差し込んだ。

「あんたに会うためだけにこの一ヶ月があった。あんたとの約束は、全部果たした。それなのにルナは、俺との約束を守らないのか。約束を守らないのに……それなのに俺に希望だけ、見せたのか」
「……ここは、……。ここは、危険だから話すのには向きません」
「なら上へ行くなり、街へ行くなり……どこだって良い。ルナがいるなら」
「……伊吹……」

 小さな声が涙の代わりに落ちた。伊吹の腕に捕らわれたまま、気がつけば朱色の手袋で涙を拭っていた。涙の名残は少し濡れた声にだけある。

「そろそろ、月が新しくなる頃でしょうか」

 やがて、決意したように顔を上げてルナが問う。急くあまり月のことなど気にしたこともなかった。日が沈んでいった空に月の光は見当たらなかったように思う。
 しばしの沈黙の後に伊吹は頷く。

「月は出ていなかった」
「それなら……私の家へ、行きましょうか」
「家……?」
「はい。プロンテラにあるのですが、ご迷惑でなければ」

 一度戻らなくてはいけないから、そのついでに招待する、とルナが付け加える。視線を伏せたまま呟くように言うその姿はどこか、自分自身に言い聞かせているようでもあった。
 言葉を聞いてなお、腕を解いたらルナが消えてしまいそうで不安になる。その不安を押し殺すように腕の力が強くなっていく。伊吹の腕の中で不意にルナが身じろぐ。緩く遠慮がちに顰められた眉が痛みを訴えている。腕を緩めなければ、と思うのに体が動かない。

「俺みたいなならず者を上げて良いのか」
「盗られて困るものは何もありませんよ。替えの服を持って行かれると、少し困りますけど。食料品も、まともに揃っていない、小さな部屋ですから」
「ルナに危害を加えようとしているかも、しれない」
「本当にそうするつもりなら、そんなことは言わないでしょう。それは今でも出来るのですから。伊吹……自分を悪く見せようとしなくても大丈夫ですよ」

 疲れませんか、と穏やかに問われて伊吹は俯く。
 そんなことはない、そんなことはないと否定する気持ち。もう疲れたとルナに身を預けてしまいたい気持ち。どちらもが本当のようで、己の想いながら行き惑う。
 黙ったままでいる伊吹の胸を、ルナの手がそっと押す。今度は自然と腕が解けた。ルナが身を離してなお鼻先に彼の匂いが、ぬくもりが漂っている錯覚に囚われる。

「私は、伊吹が自分で思っているほど悪い人ではないと思います。だからあまり……悲しいことは言わないでください。伊吹の上にも祝福の風が届きますよう」

 最後には小さく祈りめいた言葉。伊吹は何も言わずに首を振る。神の祝福などいらない。欲しいものは別にある。同じ祝福なら、こんな薄汚れた身よりも、ルナの元に訪れれば良いと、思う。何故それがわからない。八つ当たりじみた苛立ちに伊吹が顔を顰める。
 細い指が伸びる。伊吹の目の傷跡をなぞるように、そっと触れる。慈しみのこもった指の動きに、伊吹の心が甘く痺れる。猛りきった心が、ただのそれだけで鎮まっていくのが不思議だ。

「そろそろ、行きましょうか」
「……ああ」

 伊吹の心の変化を見透かしたように声がかけられる。頷くしかなかった。それを見てからルナが、いつかと同じようにブルージェムストーンをひとつ取り出す。
 小さな声で祈りを捧げる声が僅かに響く。メロディも歌詞もない歌を聴いているようだった。青い石が澄んだ音を立て、粉々になって散る。月の粉を思わせる青を目で追うことは出来なかった。
 一瞬の後、白い光が柱を立てる。その中へ分け入ろうとして、躊躇が足を止める。不思議そうにルナが首を傾げる。白い光越しに見ると、瞳の赤がいつも以上に赤くて、綺麗すぎて、不安になる。

「ルナも、今日は来るんだな?」
「はい。大丈夫です、後から行きますから……」

 だから大丈夫、とくりかえす。ルナのその言葉だけで不安が治まっていく。
 言葉に背を押されるようにして、伊吹は光の中へ踏み込んだ。



















2005/12/29
  伊吹はキスが好きらしい。