オーブリエチア(2)
途中途中、伊吹は何度も目を覚ました。前言の通りプリーストが側にいるのか確かめるように、覚束なげに視線が揺らぐ。その視線の先に己を覗き込む白い顔と赤い目を見て、また眠りに落ちる。
目覚める間隔が少しずつ長くなっていく。最初は数分おきに不安を露にしていたのが、最後には安心しきって、熟睡するようになった。人の側にあってこんなに心が安らいだのは初めてのことだった。触れる指が優しいのも、向けられる視線が好意的なのも。
赤い唇がゆったりとした歌を紡ぐ。穏やかに寄せる波のような、あたたかい室内から見る冬の透明な日差しのような、やわらかな歌。
伊吹が目を覚ます度に歌が途絶え、煩かったですか、と気遣わしげに問われる。それが残念でならない。この心地良い歌が耳に障ることなど、ありえないのに。歌い続けてくれた方が良い、そう伝えたいのに、口が動かない。
指先で、プリーストの黒衣の裾を掴む。その指に、いつものような力が入らない。不安に瞬くと、それを敏感に感じ取ったプリーストがやわらかい笑みを向ける。
「怖い夢を見ましたか?」
寝ている間に乾いた喉は、掠れた音を鳴らすばかり。伊吹が小さく首を振ると、赤い瞳が安心したように笑みを湛える。
「大丈夫。ここに、いますから。貴方はもう、大丈夫……」
言い聞かせる声と、それに合わせて髪を撫でる手が心地良い。何が大丈夫なのかもわからないまま、ただ大丈夫なのだと、安心した。
熱にうかされるようにして両手を伸ばす。自分のものとは思えないほど重い。それでも懸命に伸ばす。自重さえ支えきれず、微かに震えて、また落ちた。その僅かな衝撃に傷が痛む。まだ治りきっていないのだろう。
「体、起こしますか?」
そんな伊吹の様子にプリーストが緩く首を傾けて問う。白い髪が肩に流れていくのを後ろへやる仕草が、絵画のように伊吹の心に焼きつく。問いにはまた首を振る。その小さな動作でさえ億劫だった。
プリーストの傍らに水筒が見える。喉の渇きが増した。視線がそちらへ向いているのがわかったからかどうか、プリーストが水筒を伊吹へ近づける。
ほんの僅かな伊吹の仕草から様々な欲求を汲み取ってくれる。初めてのその体験に、ローグは細く目を閉じる。片方の眼底が熱く疼く。もうそこには眼球がないのだと、その時ようやく思い出した。
「寝たままですから気をつけて、ゆっくり……少しずつ飲んでください。焦っては駄目ですよ」
唇へ水滴が落とされる。ぬるい水が少量、口内へ入り込む。たった一滴が、今まで口にしたどのようなものよりも美味しかった。残りは上手く飲めなくて顎へ伝った。普段なら不快に思うそれも、今は心地良い。
もどかしい程少しずつ水が流れ込んでくる。張り付いたように痛んだ喉が癒やされていく。あ、と小さく声が洩れた。ようやく出た声は随分と久しぶりのようで、他人じみた響きがあった。
「苦しかったですか? すみません」
「ちが、う。……もっと、……」
「まだ飲めますか?」
嬉しそうに問う声と共に、一度離れた水筒が口に触れる。息吹が首を振る。小さな否定に水筒が引かれていく。留め置こうとして、また指先で法衣の裾を掴み、軽く引く。
「飲ませて、……くれ」
「……はい」
緩く瞬きながら考えるようにした後で、水筒が再び伊吹の唇へ近付けられる。それをプリーストの方へ押し返す。白い顔にきょとんとした色が浮かぶ。そうしていると、少し幼く見える。
「お前から飲みたい」
乾いた息の合間に漏らす。数秒の沈黙が長く感じる。不安に焦れて伊吹が目を逸らす。プリーストは見るともなく伊吹を見つめていたがやがて、ああなるほど、と淡い笑みを浮かべた。
「甘えん坊ですね」
嫌がるようでも、からかうようでもない、慈愛のこもった声だった。耳に優しく、甘く響いた。それだけでも心が潤う。己の要求が受け入れられるとは思わなかった。それでもどこかで、彼ならば必ず受け入れてくれると信じていた。
やわらかそうな唇が水筒に触れるのが見えた。僅かに顎先が上向く。男にしてはなだらかな白い喉が微かに震えた。少しだけ水を飲み込んだのかもしれない。ややあって水筒が下がり、上体が倒される。赤い瞳が近付いてくる。
その紅へ吸い込まれそうになって喘ぐ伊吹の口に、濡れたやわらかい肉が触れる。先ほどよりもぬるい水は、先ほどよりも美味だった。少しずつ流し込まれる水を遡るよう、舌を伸ばした。
プリーストの体が震えた。構わずに、水の只中へ舌を入れる。重い手を伸ばす。空気が圧し掛かってくるようだ。それを押しのけ、震える指で白い髪を掴む。触れるだけで、不思議なほどの悦びが満ちた。そのまま己の方へ、プリーストの顔を押し付けていく。いつもより力の入らない手が恨めしい。
欲しい、と心の叫ぶままに舌を動かす。甘い水とやわらかい舌が堪らなく気持ち良い。驚きに瞠られた瞳が間近い。白い喉をひくつかせ、微かな声を漏らしているのが心地良い。
けれど先に息を切らしたのは伊吹の方だった。押さえつけていた手が落ちる。咳き込み、水を幾筋か顎へ伝わせた。ぜ、と息をついてプリーストの方を向けば、白い指で唇を隠すように触れている。赤い瞳が潤み、輝くようだった。
かつてない情欲と、かつてない後悔とが同時に押し寄せる。どこか怯えたような、身を硬くした姿を見て心が冷たくなった。このまま嫌われたら、突き放されたらどうしようと、恐怖が胸を刺す。
「欲し……かったんだ」
犯した罪に怯える子どものように小さな声で伊吹が言う。プリーストが瞬くのが見える。何も言わないのが怖い。何かを言われるのが怖い。何でも良いから声をかけて欲しい。
「悪いなんて、思わない。お前が欲しかったんだ。お前が欲しい。……初めて、欲しいと思ったんだ。絶対に手に入れる」
次から次へと湧く恐怖を噛み殺すように、一言ずつ口にする。喉がまた少し渇いた。プリーストはまだ身じろぎもしない。恐怖と不安とに息が荒くなる。胸が重く苦しい。
カンテラに照らされた真白い横顔が悲しそうなのが気がかりだ。塞がったばかりの左目が痛んだ。顔を顰め、目を押さえる。その仕草にようやくプリーストが我にかえったのか、白い手が伊吹へ伸ばされる。
「痛みますか? ……すみません。完全に、引き抜かれて潰されていて……復元出来ませんでした……」
「目なんて、どうでも良い」
伊吹の目が潰れたのが己の所為であるかのように言うのを遮って、強く言う。目に触れようとする手の首を掴む。二十をいくつか越えた頃だろうか。同じ年頃、どころか伊吹と比べても細い手首。そのまま力を込めたら壊してしまいそうで、僅かな躊躇が生まれる。
やはりまだ力が入らない。頭の中まで重く痛む。体には熱と痛みが潜んでいる。
それでも手を離さない。
「返事は?」
プリーストがまた口を噤む。困ったような、悲しそうな顔が橙に色づいている。じわりと胸に失望が滲む。体を奪うだけなら簡単だ。心を暴力と恐怖で縛り付けることも。けれど、それでは本当に欲しいものが手に入らない。
今までの伊吹はどんなことも、力と金だけで解決してきた。それで全て解決出来たのだ。それ以外のものは知らない。こんなときにどうすれば良いのか、人とどう触れ合えば良いのか、伊吹にはわからない。
「……この目が欲しいのなら、私が死んだら差し上げますよ。体が欲しいのなら、それも、その時に。忌み嫌われた姿ですけれど、こんなものでも欲しいのなら……」
「死んだ後じゃ遅い。それに……」
「けれど、今渡すことは出来ません。こんな体でも、まだ生きているのですから」
「欲しいのはお前だ。目でも体でもない。目も体も命も、全部欲しい。……心も」
叫ぶように告げる。怒鳴るように激しい声は熱に掠れている。声が、高い天井へ、冷たい壁へ反響して泣き叫んだ後のように尾を引く。一番言いたいことは別にあるのに上手く言葉にならない。
言葉なんて脅しつけて支配するための道具でしかなかった。そんな生き方しかしてこなかった自分を、知らなかった自分を、伊吹は初めて悔やんだ。
手を伸ばそうとして指先が動き、また落ちる。その指先をプリーストの細い指が捕らえる。伊吹の心に恐れが生まれる。指が触れ合った瞬間に僅かに湧いた喜びや希望を懸命に押し殺そうとするように、恐れは心の中を我が物顔で闊歩する。
「貴方の、名前は?」
傷の熱に潤む瞳を凝らしてプリーストの表情を捉えようとする。その向こうに潜む本意も。しかし伊吹の目に映る彼の表情は、どこまでも穏やかな微笑みばかり。
急の問いに面食らって伊吹は黙ったままでいる。
「聞かない方が良いのなら……」
「――伊吹」
少し前のめったように急き込んだ声になった。プリーストの声が申し訳なさそうに聞こえたからだと気付いて、伊吹は不貞腐れたように顔を横向ける。
綺麗な響きと意味が、己の実にそぐわない。ずっとそう思っていたし、伊吹の人生を振り返ってみればどう考えても不釣合いの名前だった。だから余計に気が塞ぐ。
「良い名ですね」
「……好きじゃない」
「私は好きですよ。名づけた方の愛情が感じられて……」
「愛、ねえ……」
重い溜息をついて伊吹は天井を見上げる。高く積み上げられた壁は次第に闇の中へ消え、果てが知れない。この階層ひとつ作るのに、どれほどの人手と時間が要っただろう。不意に感じる目眩は、伊吹が己の出自を手繰ろうとするときに感じるものと似ていた。
名をつけることもなく、何を残すこともなく捨てた産みの親。祝福の名を与えておきながら、憎しみと怒りだけをぶつけ、最後にはあっさり売ろうとした育ての親。利用し、利用されることが当たり前の、名乗りあう必要さえ感じない『仲間』たち。
愛、と口にしてみても全く実感が湧かない。そんなものがあるとも思えない。
それでもプリーストは好きだと言った。名前だけだとしても、伊吹へ向けて好きと言った。ただそれだけのことだというのに、自分でも馬鹿馬鹿しいほどに嬉しかった。
「お前は?」
「え……?」
「名前、聞いてない」
今度はプリーストが押し黙る。言うかどうか迷うように目を伏せている。彼の強い躊躇いを感じても伊吹は問いを引っ込めない。問いを引っ込めるための言葉を伊吹は知らなかった。
「名は……」
もう答えることもあるまい、と思い始めた頃になってプリーストがぽつりと呟きを落とす。
「名は、ありません」
まだ躊躇いに重い口ぶりでプリーストが言う。伊吹が訝しげに目を細める。視線の先で白い髪がプリーストの顔を隠すようにさら、と流れる。質の悪いカンテラの暗い火がもどかしい。陰になって余計、顔がよく見えない。
長い白い髪と、消えてしまいそうな白い肌だけが闇の中でよく映えた。
「もし呼び名が必要なら、貴方の好きな名で」
「じゃあ……」
少し、迷う。どこか浮世離れした雰囲気がある彼には、どんな名も似合わない気がした。何か天使の名を、と思っても伊吹はひとつも名を知らない。焦る脳裏に浮かぶのは清廉な白と赤。
伊吹の声に応えるようにプリーストが顔を上げ、伊吹を見つめる。
「………………ルナ」
口にした瞬間、顔が熱くなる。プリーストがきょとんとして瞬いているのが見える。ついで、可笑しそうに笑うのも。己の発想の乏しさと教養のなさが嫌になった。まともな家に育つなり、まともな親に育てられるなりしていれば、一人くらいは天使の名を知っていたかもしれないのに。
白い髪と赤い瞳から連想したのは、各都市の近郊でよく跳ね回っているうさぎに似たモンスター、ルナティックだった。それを短くして、ルナ。プリーストが笑うのも無理はない。よくペットにされてもいるモンスターにたとえられたようなもの。怒られなかっただけでも、ましか。己をそう慰めてみても伊吹の気は晴れない。
「月の名ですね」
ありがとう、とプリーストが囁く。伊吹を嘲笑する風ではない、純粋に感謝しているらしい微笑。どういった意図のものか伊吹にはわからない。社交辞令なのか、それとも彼の気に入る名だったのか。単に、伊吹を気遣ってのことなのか。
それでも彼がまた微笑みかけてくれた。それだけで良いかと、伊吹は目を閉じる。プリーストの手が目の傷跡を撫でてくれる。片目を失くしたのに、失望めいたものは何もなかった。目ひとつで彼と出会えたのなら安いものだと、素直にそう思う。
「ルナ……。また、会えるか?」
小さな声で呼びかける。閉じられた瞼を撫でていた手がぴたりと止まる。真直ぐ見つめる伊吹へ返されるのは、困惑したような弱い視線。惑うような短い沈黙さえもどかしい。
「伊吹がしっかりと傷を治して、元気になったら……」
考え込むような、躊躇いにしては少し長すぎる間の後で、溜息と共にプリーストが答える。ルナと呼ばれることに抵抗も違和感もないらしい。
伊吹の胸に僅かに喜びが生まれた。何かに名前をつけたのは初めてのことだった。人の名前をちゃんと呼んだのも初めてだった。人に、悪意や敵意のこもらない声で名前を呼ばれたのも、初めてだった。
ひとつ、小さなものを生み落としたかのような、痺れるような心地良さがある。
「私は後一年くらいは、ここにいる予定です」
言ってからルナは口を噤む。撫でる指をぎこちなく再開させながら、思い直したように首を振る。見上げる先の瞳に浮かぶのは拒絶ではなく、悲しげな、忍耐にも似た色。
「危ないですから、ここへはあまり来ないで下さい。せめて、自分の身を守れるようになるまでは……」
「身を守れるようになれば、来ても良いんだな?」
重ねて問う伊吹の懸命さにルナが僅かに眉根を寄せる。その沈黙が何からくるものなのか、伊吹にはわからない。ただ応えがないことに不安になる。縋る黒い瞳を受けてルナが悲しそうに赤い瞳を伏せる。
「わかりました。……きちんと、身を守れるようになってからなら、いつでも。ですが、ひとつだけ約束して下さい。ここへ来るために、どんな無茶も決してしないと」
穏やかな瞳が、約束の言葉を求めるときだけ強い力をもって伊吹を捉える。変らない静かな声だというのに有無を言わせぬ強制力があった。伊吹は一も二もなく頷く。
「わかった。絶対に無理はしねえ」
頷き以上のものを求められている気がして、伊吹は短く言葉を添える。体を起こす。手をついて支えながらでなければ頭も起こせないのが煩わしい。
沼の底に沈むように重い体をもたげて何とか座った。貧血に傾ぐ伊吹の体を、ルナの細い腕が抱き寄せる。あたたかな、それこそルナティックのような小動物めいたあたたかな体。ごく僅かにだけ、ピラミッドと同じ匂いがした。だいぶ長くここにいるのだろうと知れる、少し汗ばんだ匂い。ルナのものだと思えば、それもどこか甘いものに感じられた。
「本当なら、もう少し安静にした方が良いのですが、あまりここにいても、逆に危険ですから……」
気遣うように言葉を選びながらの言葉。どこか申し訳なさそうなのは、伊吹を庇いながら戦うのは辛いと思うことに対してなのか。己がルナの足手まといになるだろうことは伊吹にも痛いほどよくわかる。だから、素直に頷いた。傷が痛んだ気がしたのは、まだここで戦うには力の足りない己への悔しさからか。
片手で伊吹を支えながらルナは、もう片方の手で法衣から青い石を取り出す。ブルージェムストーンの、冬の夜の月を思わせる冷たい光沢が恨めしい。
「どこかの街でちゃんとした治療を受けて、もうしばらくは安静にしていて下さい。プロンテラとゲフェンと、モロクがありますけれど……プロンテラで構いませんか?」
「……お前は、来ないのか」
「私は……まだ、無理です」
「何故」
短い問いに返るのは、長い沈黙。ルナの赤い瞳が伊吹を通り越し、どこか遠くを見つめている。闇に呑まれた天井の辺りに何かを探すような視線。それを辿ったところで伊吹に同じものが見えるはずもない。無性に悲しみを覚えた頃、ルナが口を開く。
「月が、明るすぎるから……」
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