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オーブリエチア
雪解け水が川に流れ込む頃、風がぴたりと凪いだ瞬間のように短なあたたかい日がくると、伊吹はいつも一人のプリーストのことを思い出す。
やわらかそうな光が降り注ぐのに触れる空気は凍りついたまま。そんな落差が封じ込めようとする思いを無視して記憶を呼び覚ますのだろう。
忘れたいとも、忘れたくないとも思う、鮮やかな記憶。それが首をもたげ、顔を覗かせるむず痒さに伊吹はいつになく苛立っていた。
いつものようにテロを起こそうか、裏通りへでも赴こうか、それとも先日会った銀の髪のプリーストをからかいに行こうか。思い浮かべる端からすぐに消えていく。
心の中にある一人のプリーストの姿が、そんな汚い思いを全てかき消してしまうのだ。
そのプリーストの名はアベルと言った。
月下美人を思わせる白い肌は、洩れ入る月光にも耐えられない。日にかざした紅玉のような瞳は、けれど太陽を直視することが叶わない。闇の中にも優しく差し込む光のようでありながら、光の中では生きられない、真っ白な体。人の体温にすら火傷を負うのではと、触れることに臆病になる。
「アベル……」
眼前にちらつく姿を追うように名前を呼ぶ。胸の内に湧くこのさざめきが何なのか彼は知らない。
白髪のプリーストが残したものは名前ひとつだけだった。その他には、記憶ばかり。愛を囁きあったことも、体を貪りあったこともないのに、今までのどんな記憶よりも甘美な色彩を残した。
だからもう一度、大切そうに唇にその名乗せる。
彼のことを思い出すとき最初に心に浮かぶのは、目も眩むほどの夏の日差しだった。
* * *
伊吹がローグに転職したばかりの頃のことだった。産みの親も育ての親もろくに覚えていない伊吹だから精確にはわからないが、十六か十七を数えたあたりだっただろう。
転職したことを祝ってくれる者はいない。伊吹も、特にめでたいとも思わず、さっさとモロクへ戻った。
モロクは伊吹の故郷ともいえる場所だが、挨拶をしなければならない身内も仲間もいない。食料や飲料水の補給だけをして、一息つく間もなく向かった先は、ピラミッド。
巨大な墓の中へ入るのは、シーフに転職したとき以来のことだ。入口をくぐると急に光が遮られて目眩に襲われる。壁に手をつき、足を進めるのは地下へ続く道。
自分の力を試したかったわけでも、転職して気が大きくなったわけでもない。ただ、行ったことのない場所へ行ってみたかった。ピラミッドの地下に今どのようなモンスターがいるかは、あえて調べなかった。
階段をおりると、ぷんとかび臭さが漂った。それはピラミッド全体に共通するものだが、最下層ではそれが更に濃厚だった。王のために集められ、共に埋められた人々の悲哀とも恨みともつかぬものが一面に立ち込め、体に纏わりついてくるような、嫌な空気。淀む大気に照明の灯りまでが曇って見える。
愛用の短剣を構え、伊吹は歩を進める。罠も敵も気にせず無造作に歩いていく。死ぬのは惜しくなかった。どうせ生まれたときから死んだ身だ、といじけた思いがあった。
通路を行くと不意に人が飛び出してきた。その影は真直ぐに伊吹へ向かってくる。薄暗い照明の下でその姿がおぼろげながら見えてくる。人と思っていたのは、全身に包帯と腐臭とを纏った死人だった。
咄嗟に切りかかるのを、包帯の巻かれた手が簡単に流す。今まで相手にしてきた魔物たちとは違う、と本能的に悟る。瞬間、脇腹に熱い痛みが滲む。魔物の手が肉を抉り取っていったのを、見なくても感じる。
「ぐ……っ」
思わず呻くのを嘲笑うように、糸で塞がれた死人の口から空気の洩れる音がする。早計だったかと焦れる。が、どこかではやはり、ああようやく死ねるかと安堵が広がる。
びちゃ、と頬にかかる生暖かい液体。それが何と思う間もなく、右目に激痛が走った。何かが潰れながら引き抜かれていくような感覚に怖気が走る。視界が暗い。平衡感覚が戻らない。己の手が短剣を取り落とす音を伊吹は遠くで聞いた。
よろめいて足を踏み出した先で、極僅かな抵抗を返した後にそのまま潰れる嫌な感触が待っていた。血肉を潰す音にも似た音。脇腹にまた痛みが走る。包帯につつまれた指が何故こうも鋭く体を刺すのか。伊吹に突き刺さった指が握られ、肉が布地ごと引きちぎられる。
喉から悲鳴が洩れた。
体だけが死を拒む。
心はもう死んでいるのに、と血を吐くように背が痙攣する。
遠くで祈りを捧げる声が聞こえた。
こんな俺にも最期くらいは祈りの言葉がかけられるのか、と伊吹は一粒だけ涙を零した。
* * *
闇の中を歩く夢を見た。
酷く寒々しくて排他的なのに、そのまま取り込まれてしまいそうなほど懐かしい。己の人生は常に闇の中にあったと伊吹は思う。手を伸ばしても何にも届かず、指先が空を切るばかり。何を求めて良いのかもわからない。標のない、どこまで続くかもわからない道を歩き続けるのは苦痛だった。
体がいつになく重い。惰性で進もうとする足に、腰に、腕に、首に、見えないものが絡みつきその場へ留めようとしているようだ。もう立ち止まっても良いだろうか。こうして留めようとしているものもいる。立ち止まりたい。ここで朽ちてしまえ。沈んでいくような体の中に灯る熱が煩わしい。
空を仰ぐ。天も地もわからない暗闇の中、上げた視線の先に白い光が見えた。初めての光。闇に滲むようにしてそれは僅かに人の形をとる。小さな、赤子のような手がゆるりと招く。おいで、と声のない声が優しく呼ぶ。初めて見るものなのに、どこか懐かしいような。
「お前は、誰だ」
掠れた言葉が口をついて出る。人の形をした光は首を傾げ、それから無邪気そうに笑みを零す。おいで、とくりかえされる。片目が熱い。そこから体が崩れていきそうに熱い。
光の手が、目に触れる。遠いと思っていたものがすぐ側にある。血にまみれたこの手を伸ばせば光に届くだろうか。伊吹の心に僅かな欲が生まれる。この光が欲しい。たとえこの身が焼かれることになったとしても。いや、いっそ、この光に焼かれてしまいたい。
光が触れた部位の熱が、まるで最初からなかったかのように引いていく。代わりに、心の内に宿る焦れるような熱がある。
高まる鼓動に急かされて伊吹は手を伸ばす。
「――――……ましたか?」
「だ……。……お前……」
「良かった。声が出せるなら、大丈夫そうですね」
弾んだ声が降ってくる。片目が熱い。その熱を吸い取るように、冷たい指がそっと触れている。
無事だった方の目をそろそろ開くと、真っ先に飛び込んできたのは紅玉のように赤い瞳。異形のものと評される瞳だが、どこまでも透明で澄んでいて、美しかった。優しい笑みに和らぐ瞳は触れるだけで壊れてしまいそうだった。
徐々に視界がはっきりとしてくる。少し艶のない白い髪は長く、高い位置で結ばれている。一見では男女の判別に惑うが、細い体を包むプリーストの衣装は男のもの。衣と共に支給されているはずの朱色の手袋は、脇にそっと置いてあった。
喉が乾いた、と思うか思わないかの内に伊吹の唇に硬い物が触れる。後頭部に手の感触。助け起こされ僅かに頭をもたげる。口の中に水が注ぎ込まれた。少しぬるい水に喉が潤っていく。もっと欲しい。が、激しい咳に水は吐き出される。水筒を持つプリーストの手が濡れる。
濡れたことを気にした様子もなく、透き通る指が優しく伊吹の唇を拭う。乾いた唇が震えながら開き、その指先を咥える。
「おなか、空きましたか?」
驚いた素振りも見せずに尋ねる声。それには応えず白い指に舌を絡め、無心に吸う。乳飲み子のように懸命に。母に抱かれ何の気負いもなく乳を飲む赤子は、このような気分なのか。曖昧な意識の中で連想するのは、覚えのない、経験したこともないだろう光景。
時たま歯を立てても、プリーストは黙って微笑んだまま何も言わない。呼吸が楽になるようにと体を横にされる。背に、冷たい石の感触。どれだけ苦しくてもその腕に抱かれる方が良い。そう言いたくても伊吹の唇は言葉を思いつかない。ただ貪るように指を吸う。臓腑のではない、どこかの飢えを満たそうとするかのように、何度も何度も。
「もう少ししたら、何か食べてみましょうね」
幼子を諭すような声が心地良い。プリーストが身じろぐと、どこかへ行ってしまうのかと不安になる。ぎり、と歯を強く立てる。流石に痛かったのかプリーストが息を呑む。それでも、伊吹は決して歯を退けず、プリーストも逃げずにいる。
そっと、プリーストのもう片方の手が伸びる。ぼさぼさの伊吹の髪を梳くように緩やかに撫でる。全てを受け入れるような手の動きに、あたたかな眠りが呼び起こされる。
それに抗おうとするのは眠るのが怖いから。起きてまた、一人になるのが怖いから。縋るように指を吸う。母が子を慈しむように、プリーストの手が髪を撫でる。決して裏切られることのなさそうな、不変的な動き。
プリーストが小さな声で歌を口ずさむ。賛美歌なのか、子守唄なのか。歌を知らない伊吹は知らない。ただ、心が安らいでいくのを感じていた。
視界の端で白い髪が揺れている。
目の赤が、顔の白さに、周囲の闇に、滲んで見える。
「綺麗……だ……」
「――え?」
不意に言葉を零すと、唇が指から離れる。血のこびりついた指を、その赤へ伸ばす。あたたかそうな赤。あの赤が欲しい。力なく震えて空をかく指先に、初めてプリーストが戸惑った声を漏らした。
「これが、……欲しい……」
「綺麗なんかじゃありませんよ。こんなもの、ない方が良いんです」
「これが良いんだ」
駄々を捏ねる。生まれて初めて口にしたそれは、思わぬ甘美さをもたらした。夢とも現ともつかぬ心地なら、普段は言われぬことも言ってしまえと、口が勝手に動く。
「お前が、誰だろうと……攫って行く……」
盗み出す、といかにもローグらしい言葉。プリーストは首を傾げている。躊躇うような少しの間。拒絶する風ではなく、何と答えるか決心がつきかねているような、悲しげな顔だ。
何かを欲しいと思ったのは初めてだった。だから、求めた。この紅い光が欲しい。手元に置いておきたい。いや、自分が側におかれたいのか。赤は危険を知らせ、不安を呼び覚ます色。それなのにこのプリーストの瞳は、見ていると心が安らいだ。
「お前が欲しいんだ」
うわごとのようにくりかえす。他の言葉は出てこなかった。プリーストは緩く首を振り、そっと髪を撫でる手を再開させる。
「欲しい……」
「少し疲れているんです。もう少し、休んで……」
「嫌だ。……俺が眠っている間に、お前はいなくなるんだろう」
「目が覚めるまでこうして側にいますから、今は休んでください。……さっきまで、生死の境を彷徨っていたんですから」
赤い瞳を細めて俯く横顔に見惚れる。何かを心から美しいと思ったのも初めてのこと。今までに宝石を盗んだことも数え切れないほどあったが、それは全て金のためだった。
高く結われた白い髪が、脇に置かれたカンテラの暗い灯りに、淡く色づいている。蝋細工のような白い姿が辛うじて生身に見えるのは、その表情と、肌の下に確かに血が流れていると感じさせる赤い唇によってのみ。
「大丈夫。ここにいますから……」
祈るようにやわらかな声が降る。細い指がゆるゆると触れている。背に触れている石は冷たいままなのに、全身があたたかさに包まれている。大丈夫、と囁かれる言葉が心身に染み渡っていく。
その絶対的な心地良さに負けて、伊吹は目を閉じた。
夢はひとつも見なかった。
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