breathe
心臓の音を聞くのは、きらい。
夜の暗闇は、きらい。
時計の音も、きらい。
ひとりのよるは、だいきらい。
夜なんてなくなってしまえば良いのに。
今でもよく、そう思う。
* * *
プロンテラの住宅街にひっそりと建つ『Motherland』のギルドハウス。
必要最低限のこじんまりとした屋敷の一部屋で、アルカージィは何度目かもわからない溜息をつく。ベッドのシーツはかえたばかり、布団はおひさまのにおいが残っている。気持ち良く整えられた寝台に横たわってどれほど時間が経っただろう。
(うー……。寝る前に紅茶飲んだのがいけなかったのかな。でも、いつも紅茶飲んでるしなあ)
溜息をついてベッドサイドへ視線をやる。
室内に灯りはなく、置いてあるはずの時計も見えない。
枕もとの灯りをつけようとして手を伸ばしても、その手さえ見えない。
心臓が軋む。
(またか……)
長距離を全速力で走った後のように体中が鈍い痛みと熱を訴えるのに、頭の中は恐ろしいほど冴え渡っている。その気になればどこまでも見通せてしまいそうなほどの感覚を、アルカージィは嫌っていた。何もかもどうでもよくなってしまいそうな、命さえも簡単に奪えてしまいそうな、冷たささえ感じさせない鋭い何か。
それを封じ込めるように一度、深く息を吸う。
動悸が治まらない。
わけもなく不安になる。
いつものこと、慣れたこと、と頭の中は落ち着いている。ただ心と体だけが異様なほどにざわめいている。気を抜けば今すぐにでも涙を零してしまいそうなほどだ。
(ヴァルがいてくれれば良かったのに)
言っても仕方がないこととわかっていても、恨み言が漏れてしまう。
本当は、相方のプリースト――ヴァレリオと同室にしたかった。ギルドメンバーに冷やかされながらも冗談めかして主張した。勿論それを生真面目な彼が許すはずもない。せめて隣室にと、それだけは叶ったのが幸いか。
寝返りをうつと伸ばした前髪が目に入る。指先で払う気にもなれず、そのまま目を閉じた。
耳を澄ましてみても、隣室の様子はうかがい知れない。Wisをしてみる気にもなれない。パーティはずっと組んだままだから、そちらへ問いかけても良いのだけれど、それをする気にもなれない。
何となく、怖かった。
もし話しかけて拒絶されたら。
もし冷たくあしらわれたら。
そんなこと、あるはずがないのに。それなのに不安になる。だからこんな夜は嫌いだ。ヴァレリオのあたたかさを、やさしさを忘れてしまったみたいな己の心が許せない。
「ヴァル……」
ぽつりと呟いてみる。
急に寂しくなった。
布団を跳ね除け、飛び起きる。居ても立ってもいられない。今すぐ逢いたい。怒られても良い。ちょっとだけ、寝顔を見るだけでも良い。ほんの少しヴァレリオの傍にいれば、それだけでこんな動機、すぐに治まってしまうだろう。
乱れた髪をそのままに部屋から飛び出そうとしたところで。
小さく、ノックの音がした。
「アル……、起きているか?」
続いて、ノックの音よりも更にひそめられたヴァレリオの声。さして分厚いわけでもない扉でも遮ってしまえそうな、それくらい密やかな音だった。
聞いた瞬間に目の奥が痺れるように痛む。その場で膝をついて泣き伏してしまいそうなほどの強い感情が蘇る。ほんの僅かな安堵が胸の奥をそっとあたためる。
喉につかえる何かをぐっと呑み込み、扉を開く。白い寝巻きに、ベージュのカーディガンを羽織ったヴァレリオの姿が闇を透かしてはっきりと見えた。アルカージィの姿を見た瞬間に浮かんだ微笑も。こみあげる愛しさは堪えずに、そのまま手を伸ばして腕の中へと封じ込める。
「っ……!? アル、……、こら。痛いよ」
「ヴァルだぁ……」
「……アル……?」
「あったかい」
目を閉じて溜息をつくアルカージィに、ヴァレリオは身じろぐのをやめる。代わりに何も言わず、そっと抱きしめてくれる。格別に冷えていたわけでもないのにヴァレリオに触れたところから体があたたまっていく気がした。
手のひらがゆっくりとアルカージィの背を撫でる。あえて単調にされたその動きに不思議なほど心が鎮まっていく。その代わりに穏やかに心に満ちていく、彼への愛情がある。自分には不釣合いなほど満たされた想い。
愛しさに身を任せてヴァレリオの首筋へ幾度も口付ける。赤い跡が残るほどに吸い上げるとヴァレリオの肩が小さく震える。身動きさえ閉じ込めたくて腕に力が篭る。ヴァレリオの手がやさしくアルカージィの胸を押す。
「アル。首は駄目だって、いつも言ってるだろう」
「襟で隠れるから大丈夫でしょって、いつも言ってるじゃない」
「そういう問題じゃないって、いつも……」
ヴァレリオが声を大きくするのを、そっと唇を塞いで留める。喉の奥で息を呑むのが聞こえた。それでも離したくない。身じろぐ体を強く強く、抱きしめる。扉が開いたままだなど、気にならない。見たければ見れば良い。
舌をさしいれようとしたところでヴァレリオが強くアルカージィの胸を突く。仕方無しに唇を離す。瞳を潤ませ俯く様に、反省するより先に煽られるアルカージィだった。
「どうしたの、こんな夜中に」
「何があったわけでもないんだが……」
言葉を選ぶようにヴァレリオが口を噤む。明るい茶色の瞳が彷徨うのを見ているのは楽しい。何も言わずにアルカージィはじっと、続きを待っている。
「夢を見たんだ」
「どんな?」
「言うと、アルは怒るから……」
「怒らないから言ってみて」
間近で瞳を合わせて頼む。それだけのことで動揺するヴァレリオの単純さと純粋さとが、愛しい。そんなことを言うと、また怒られるかもしれないから黙っておく。
きっと赤くなっているだろう頬へ何度か口づけながらヴァレリオの言葉を待つ。本当は夢の内容なんかよりも、彼の声を聞きたいだけなのだけれど。
「アルの夢。暗闇の中で小さなアルがずっと泣いてた。夢だってわかってるんだが、どうしても気になってしまって……。おかしいな。アルはいつも、泣いたりしないのに」
何故か本当に泣いている気がして。
躊躇いがちに付け加えられた言葉にアルカージィは唇を噛む。泣いたことのないアルカージィの「泣きたいとき」を、どうしてこんなにも的確に捉えるのだろう。ただの偶然かもしれない。それでもアルカージィは少しだけ、偶然だとか奇跡だとか、神だとかに感謝してみた。それくらい、嬉しかった。
もう一度、唇へキスを落とす。
ヴァレリオの言葉でだいぶ落ち着いたから、今度は触れるだけのやさしい口づけを。
何度もくりかえして二人で笑い出す。それからようやく、開いたままだった扉を閉めた。何を言うでもなく二人して寝台へ入り、抱きしめあう。独りきりでシーツに包まるよりも、不思議とおひさまのにおいを感じられた。
「ヴァル」
「……うん?」
「僕の言ったこと、覚えてる?」
「いつのだい……?」
「初めて会った頃」
「どれだろう。たくさん話をしたから……」
「ううん……、やっぱり、良いや」
ヴァレリオを背後からそっと抱きしめ、その首筋へ軽く鼻先を埋める。微かに石鹸の香りがする。お湯の匂いと混じりあって、綺麗だと感じる。そんな自分が不思議だった。
何を見ても何を聞いても、何かを感じることはない。
目にはきちんと色まで映っているのに、モノクロの世界にしか見えない。
それがアルカージィの「当たり前」だった。
今でも独りのときは決して綺麗だなんて感じない。
――君と出逢って初めて世界に色が見えた。
そんな言葉をもう一度口に出すのは恥ずかしくて、誤魔化してしまう。
いつもならギルドメンバーから「甘い」だの「くさい」だの言われるような台詞だって平気で口に出来る。なのに今出来ないのはきっと、この言葉が己の根幹に関わることだからなのだろうと、アルカージィはぼんやり考える。
もうひとつ、理由があるとすれば。
色のない世界のことなんて、ヴァレリオにはあまり言いたくない。彼にそんな世界を教えたくない。彼が「当たり前」に見ている世界を汚したくない。ヴァレリオは、アルカージィの見る世界を知りたがってくれるけれど、彼はそんな世界を知らなくて良い。そう思うからかもしれない。
すべてを受け入れてくれる人だから、余計にそう思う。
「アルはもしかして、眠れていなかったのかい?」
あたたかい暗闇の中でヴァレリオが呟くように尋ねる。誤魔化すようにヴァレリオの耳たぶを軽く食む。刺激するように引っ張りながら小さく笑ってみせた。ヴァレリオもいつものように少し怒ったふりをしながらも、笑ってくれる。
幸せだなと、アルカージィは思う。
ほんの数年前までは、ヴァレリオに逢う直前までは、決して想像しえなかった幸福。
二度と手放したくなくて、また、抱く腕に力を込めた。
「……もしかして、ヴァルが来てくれるのを、待ってたのかも」
笑いながら耳元で囁いてみせる。照れたような気配が直に伝わるのが心地良い。本当に素直な反応ばかりする。愛しくてたまらない。軽く頬ずりをした。
二人はまた、黙り込む。
ヴァレリオが小さく欠伸をするのが聞こえた。眠っているところを無理して起きてきたのだろう。比較的早めに眠るヴァレリオだから、もう眠たくなっているに違いない。アルカージィへ頭を預けて、既に眠る体勢に入っているようだ。次第にゆっくりと規則的になっていく呼気が愛しい。
「ヴァル……」
「…………ん……」
「来てくれて、ありがと」
「う、ん……」
「……おやすみ」
「………………」
囁く声には、口の中でもにゃもにゃと不明瞭な声が返るばかりだ。普段とのギャップがおかしくて、アルカージィは一人にやけてしまう。
ただの夢なのに。なのに、眠たいのを我慢して無理矢理起きて、わざわざ隣室まで来てくれるなんて。頬や髪や首筋や、唇を触れさせられる場所にはすべて口づけを落とす。何度くりかえしても足りないくらいだ。
間近で聞こえる寝息が、触れた箇所から感じる微かな鼓動が、体温が、とても心地良い。独りきりのときには恐ろしくてたまらないそれが、ヴァレリオのものだと幸福さえ感じる。
ありがとう。
もう一度だけ口内で呟いて、アルカージィも目を閉じた。
end
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