again
最近、アルカージィの様子がおかしい。
台所で紅茶を淹れながらヴァレリオは溜息を零す。今日の茶葉はフェイヨンから取り寄せたもので、ヴァレリオのお気に入りの銘柄だった。
食事も入浴も済ませ、後は相方とのんびりすごすだけ。
これからが一日で最も心地良い時間のはずなのに、フェイヨン産に特有のやわらかい匂いに包まれても、気は晴れない。
いつもならテーブルについてお茶が出来上がるのを待っているアルカージィの姿は、今はない。部屋に篭って何かをしているようだ。何をしているのか、ヴァレリオにはわからない。いつもなら何も言わなくても嬉々として語ってくれていたのに、今はそれがない。
いつもなら。そんなことが簡単に口に出せるくらい、いつのまにか二人は一緒にいた。今までずっと、隠し事をする必要もないくらい互いに互いのことを話していた。
浮気をしているのでは、何か悪いことに手を染めようとしているのではと疑うわけではない。アルカージィはそんなことをする人ではないと、ヴァレリオが一番よく知っている。疑う必要すらない。一片の曇りもなく信じている。
けれど。
もしも何か厄介ごとに巻き込まれているのなら出来る限り手助けをしたい。自分に出来ることは少ないと、わかってはいるけれど。大切な人が困っているときに何もしてやれないのが、一番辛い。もしも何か辛いことがあったのなら、その辛さを少しでも共に背負いたい。
思えば思うほど悲しくなる。切なくなる。
二人分の紅茶を淹れ終えたのに、それを持ってアルカージィの部屋まで行く勇気が出ない。秘密裏にしたいことなら、行って邪魔になることも、あるのかもしれない。
(何をしているにしろ、アルの邪魔になることはしたくないし……)
手製の苺ジャムを詰めた瓶を片手に、ヴァレリオは僅かに迷う。少し考えてから自分の分には苺ジャムをひとすくい落としてかき混ぜた。アルカージィの分には蜂蜜を三杯。夕食のとき、少し喉が痛いと言っていたから。
かき混ぜると、紅茶の色が僅かに黒っぽく変わる。
初めて蜂蜜を垂らした紅茶を出したとき、それを見たアルカージィが「魔法みたいだ」と、とても喜んでいたことを思い出す。無邪気な子どもじみた感想が愛しい。自分は大魔法も軽々扱えるほどの魔術師だというのに。
魔術を扱う人間にとってことさら喉は大切なのだから、タバコを止めれば良いのにとヴァレリオは愛しげに苦笑を漏らす。
それでも強く止めることが出来ないのは、タバコを吸うときの横顔に見とれる己を否定出来ないから。傍へ行ったときに微かに香る匂いさえも、愛しいから。
アルカージィに触れたり触れられたりするのは、ヴァレリオも好きだ。アルカージィが体を重ねたがるのとは違うかもしれないが。ただ、体の一部が僅かに触れているだけでも心地良くなれる。
そこまで思ってヴァレリオは小さく身を竦める。
ああ、と我知らず溜息に紛れて呟きが落ちた。
(……寂しい……)
一人きりで茶の支度をするのが、こんなにも寂しいことだとは知らなかった。たとえ無言でも、背後から感じるあたたかいアルカージィの眼差しがあればこそ、寂しくなることなどなかった。
会話が減った気がする。一緒にいる時間が減った気がする。一人でいるときは、誰かとWisをしていることが多いようだ。
それで何かを疑うつもりはない。
ヴァレリオがアルカージィから離れられないように、アルカージィもヴァレリオから離れられないことを、自惚れではなく知っている。信じてもいる。
ただ、寂しい。
心の半分がなくなったかのように寂しさがじわじわと滲んでくる。
ほわほわした白いパジャマに着替えた後でも、首からはロザリーをかけている。冷えてぎこちない指でそれへ触れると僅かばかり心が慰まる。
言葉にならない祈りを無言で捧げる。
己の内に巣食う寂しさを戒めながら、アルカージィへの心配を宥めながら、神へ呼びかけながら、次第に心を落ち着けていく。どれほどの時が経ったか、気が付けば祈りはただ、アルカージィの平穏と幸福を願うものへと変わっていた。
そっとロザリーから指を離すと、だいぶ心は落ち着いていた。明るい茶色の瞳を和ませてヴァレリオは安堵の溜息をつく。
階段を下りる足音が聞こえてきた。アルカージィだと思うと心臓が僅かに痛んだ。
「ヴァル……? まだ起きてたの?」
明かりのついたままの台所を気にしたのか、アルカージィがひょいと顔を覗かせる。声には僅かに心配そうな色合いが混じっていた。
だからヴァレリオは安心させるように、いつもどおり笑んでみせる。
「ああ。アルが何か頑張っているようだったから、差し入れでもしようと思って……」
紅茶を、と並べたティーカップを示しながら言うと、アルカージィが眉を顰める。足早に歩み寄るその顔が怒っているように見えてヴァレリオは戸惑う。
「アル?」
「……どれくらい、ここにいたの」
「言うほどはいないぞ。アルが部屋に戻ってから、後片付けと明日の朝食の用意をして、その後すぐにお茶の用意をしたから……」
「僕が部屋に戻ってから、二時間以上経ってるよ」
「え……」
「体、すっごく冷えてるじゃない」
いつのまに二時間が、と驚くヴァレリオの体を、アルカージィの細い腕が抱き寄せる。パジャマ越しに感じる腕が泣きそうになるくらいあたたかくてヴァレリオは俯く。
華奢なアルカージィにそっと腕を回しながらヴァレリオは目を閉じる。瞼を閉じきる瞬間に見えたのは、アルカージィの綺麗な深い青の髪色だった。
「何かあったの? ヴァル、さっき、泣きそうな顔してた」
「何も、……ないよ」
「僕に言えないようなこと?」
「……何もない。本当だよ」
「嘘。何でもないなら、そんな悲しそうな顔しないで」
囁きながらアルカージィが耳たぶをやわらかく食む。むず痒いようなぬくもりに、己の体がひどく冷えていたことに気づく。ヴァレリオが小さく息を呑むと、あたたかな舌先が耳孔をくすぐる。
いやいやをするように首を振る。アルカージィの腕にはさして力が篭っていないのに、やさしくてあたたかい腕に、ヴァレリオはそこから抜け出せない。
「……アル、だって……」
「え?」
「アルだって、俺に言えないこと、してるじゃないか」
「ヴァル……?」
「もう一週間も、夜はずっと一人で部屋に篭りっぱなしで……何をしているか、何も言ってくれない。アルが俺を裏切ることがないってことは、わかってるよ。でも、……」
寂しいんだ、と声を詰まらせながら呟く。呟きを零したら、一緒に涙が頬を伝った。一人でいるときは泣くことすら思いつかないのに、アルカージィが傍にいると容易く泣けるのが不思議だ。一人きりでも、他の人といても、泣けはしないのに。
声を押し殺し、しゃくりあげる息にさえ気を使うような泣き声が、静かにキッチンに満ちる。アルカージィの手がそっとヴァレリオの背を撫でている。急かすでもなく宥めるでもなく、労わるような動きに、ヴァレリオの波立った心も次第に鎮まっていく。
それを見計らって、アルカージィがそっと囁く。
「ごめんね。ヴァルを驚かせようとしてこっそり進めてたら、結局ヴァルに寂しい思い、させちゃった。……本当にごめんね」
「良いんだ。俺が、勝手に寂しがっただけ、だから……」
「ごめん……ごめんね。今からでも、何をしていたか、聞いてくれる?」
「……勿論」
顔を上げると、涙の跡をアルカージィの舌先が舐めとるように辿っていく。目元へは、ちゅっと小さく音を立ててキスを落とす。こうしてぬくもりを感じるのは随分と久しぶりのようで、ヴァレリオはくすぐったそうに身じろぎながらもまた、一粒だけ涙を落とす。
話をすると言うアルカージィをテーブルへつかせて、ヴァレリオは再びお茶の支度をする。
冷たくなった紅茶は勿体無いながらも捨てて、新しく紅茶を淹れなおした。アルカージィの分は、蜂蜜を三杯。自分の分には、少し迷ってから苺ジャムを止めて、同じように蜂蜜を一杯だけ入れた。
礼を言うのも忘れてアルカージィが嬉しそうに紅茶をかき混ぜている。それを見てヴァレリオも、ようやく心から笑うことが出来た。アルカージィがいないと上手く泣くことも笑うことも出来ない。いつの間に俺はこんなに弱くなったのだろうと、ヴァレリオは一人溜息をつく。それでも笑みが零れるのは、そんな自分を嫌いではないと、知っているから。
「……あのね。今から言うこと、嫌だったら遠慮なく言ってね?」
「ああ。わかった」
「ギルドを、作ろうと思うんだ。一週間、部屋に篭ってたのはその根回し」
紅茶の表面を見つめていた顔を上げ、アルカージィが言う。真っ直ぐに見つめてくるアルカージィの瞳に、ヴァレリオはまた胸が疼くのを感じる。宝石めいた人工の美しさと、煌びやかな星々のような自然の美しさとが入り混じった印象がある姿。あるいは、どちらも同じなのかもしれないが。
数秒の間アルカージィの瞳に見とれてから、ふと我に返ってヴァレリオは首を傾げる。
「ギルド……?」
「うん、ギルド。攻城戦とか対人戦とかはなしで、イメージとしては……うん、メンバー全員の『帰る場所』になれるようなギルド、かなあ」
「どうして、また……急にそんなことを」
驚きのままに呟くと、アルカージィは嬉しそうに目を細めて笑う。紅茶に口をつけずにティスプーンでカップの中身をかき混ぜ続けているところを見ると、相当に緊張しているようではあるが。
「ん……。僕もヴァルも、今まで、家はあっても家庭っていうか……一家団欒みたいなことは、ずっとなかっただろう? 家も家族もあるのに、その中で一人ぼっちだったじゃない。生まれた家も、育ってきた家も、もう変えようがないけど……これから住む家なら、変えられるから」
だから、とそこまで言ってアルカージィはそっと息をつく。反応を伺うようにヴァレリオの方を見ては、また紅茶へ目を落とす。続きを言うタイミングを計っているのだろうアルカージィに、ヴァレリオはただ黙ったまま見守っている。
少し経ってからアルカージィがまた口を開く。
「もしかしたら、もう、家族とか家なんて懲り懲りだと思ってるかもしれないけど。でも、もし良かったらもう一度だけ……。今度は、皆が仲良く助け合えるような場所を、どこかから帰るときに気が重くならないような、帰りたいって思えるような場所を、僕と一緒に作らない?」
時折言葉を選ぶように言い淀みながらもアルカージィが言う。ヴァレリオは驚きの去りきらぬ頭の中で、何度もその言葉を反芻していた。
夕日に赤く染まった道を、重い心を引きずりながら歩いた帰り道。廊下に足音が聞こえる度、身を硬くする落ち着かない部屋。一度も己の名を呼ぶことのなかった母。顔を合わせることさえなかった父。何もかもを捨てた遠い日の自分。
記憶の断片が浮かんでは消える。
アルカージィに出会って変わった自分。自分に出会って変わったアルカージィ。二人でいればどんなことでも乗り越えられるような気さえする。きっと、乗り越えられるだろう。アルカージィがいるだけでもあたたかいこの場所へ、他にもやさしい人たちがいたら。
泣き出したくなるほど贅沢なその想像に、ヴァレリオはそろそろと細く長く息をつく。
「アルが、……マスターをするのかい?」
「そのつもり。ギルドマスターといえば一家の大黒柱みたいなものだし、僕がやらずに誰がやる!ってね。代わりにヴァルには、ギルドに名前つけてあげて欲しいな」
おどけたように言う中にも、ヴァレリオを気遣ってマスターを引き受けたことが感じ取れて、ヴァレリオはまた泣きたくなるほどの愛しさを感じるのだった。
ギルドの名前も人と同じで一度しか決められないのだから、慎重に考えなければと思う。思っているのに、ヴァレリオの唇から不意に言葉が漏れる。
「……『Motherland』……」
「『Motherland』……。うん、良い名前」
「いや、これは思いつきだから。考えたら、もっと良い名前が浮かぶかもしれない」
「ヴァル。こういうことはインスピレーションが大切なんだよ。良いじゃない、『Motherland』で。僕、この名前好きだよ。どれだけ辛くても、あそこに帰るために頑張ろうって思ってもらえるような、そんな場所にしようね」
「……アルと一緒なら、出来る気がする」
「ヴァルが一緒にいてくれれば、きっと出来るよ」
二人同時に言った言葉に、互いに顔を見合わせる。二人同時にまた口を閉ざすのがおかしくて、どちらからともなく笑みを零す。
ひとしきり笑った後でアルカージィが背筋を正してヴァレリオを見つめる。
「ねえ、ヴァル。気づいてる?」
「うん? 何にだ?」
「これ、プロポーズだからね」
あまりにもさらっと言われた言葉にヴァレリオはきょとんとして瞬きをくりかえす。それを見てまたアルカージィはおかしそうに笑った。
言われた言葉を何度もくりかえす内にヴァレリオの頬が赤くなっていく。あまりの頬の熱さに戸惑いながら、それでもヴァレリオは小さく頷きを返す。
血の繋がりがあるだけでは家族になれないことを知っている。
家族になるために血の繋がりなど必要ないことを知っている。
そのことはヴァレリオもアルカージィも、身をもって体験していた。今までに得ることが出来なかったものを自分から求めても良いのだろうかと逡巡する。
けれど。
時には欲張ることも大切だと、目の前のウィザードに教えられた。
アルカージィのことは心から信じている。
だから、その言葉も信じよう。
もう一度だけ手を伸ばしてみよう。
本当は家族が、いつも笑みの絶えないあたたかな家庭が欲しかったのだと。
「プロポーズ……、受けるよ」
小さな声で呟くと、アルカージィが驚いてヴァレリオを見やり、それから珍しく頬を赤らめる。その様子が愛らしくてヴァレリオも頬に朱を残したまま微笑む。
明日は一緒にエンペリウムを買いに行こう。メンバーはどうやって増やそうか。そんな話をしながら、久しぶりに二人でゆっくりと紅茶を飲んだ。
冷めた紅茶も二人で飲めば、今まで飲んだどの紅茶より美味しいと、アルカージィが目を細める。そんな相方が愛しくてヴァレリオは、心の中で感謝の祈りを捧げた。
明日から、もう一度だけ『帰る場所』のために頑張ってみよう。
二人ならきっと出来るはずだから。
end
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