きみのなまえ
その日の朝、目覚めた時俺は長い悪夢から覚めた後のように清々しい気分だった。遮るものなど何ひとつない青空へそのまま飛び立ってしまえそうなくらい体が軽い。ずっと昔の小さな頃に一日の始まりがわくわくして楽しみでたまらなかったみたいな、あの懐かしい感覚がある。
これを喜びと呼ばず、何にその名を与えるというのか。
その喜びをもって朝目覚めることの出来る奴は偉大だ。そうすると何も知らない子どもの内なんて超偉大なんだろう。
大人になるのは少しずつ子どものときのその感覚を忘れていくことなのかもしれない。俺は大人にしても汚れすぎているし、大人にしては幼すぎているが。
日光を避けるように顔を背けると、この部屋の主の寝顔が目に入った。栗色の長髪が芸術的に枕の上に広がり朝日にきらめいている。この世の春とばかり惰眠を貪る口元には涎がちょろっと出ていて、形良い唇が艶めいて輝いて、俺うっかり命の恩人に欲情しかけて、いやいやそういうことはやめたんだったと自分を無理に引き止める。こういうこと……つまり、安易に他人に体を任せたりしない。
今まで好きだの惚れたの思ったことなんて一度もなくて、恋人が欲しいと騒いでいる連中を見てもさっぱりわからなかったりもしたが、まあとにかく、好きでもない奴と体を重ねても癒されないってことくらいは知っていた。知っていたはずなのに続けていた俺はなんて愚かで幼かったんだろう。昨日のことなのに、もう遠いことのように思うのがおかしい。
身じろぐとまだ体のあちらこちらに痛みと違和感とがある。散々不摂生を重ねた上に気狂いまがいの乱交を続けてこの程度の痛みなら、ありがたさに涙が出るくらいだ。とはいえ几帳面に包帯の巻かれた首の後ろがぴりぴり痛むのだけは慣れなくていただけない。
「っ……」
それをすっかり忘れていた俺は豪快に動いて全身から痛みを訴えられる。痛くてたまらないのに、何故だかとてもおかしくて俺は一人で笑う。痛みも苦しみも悲しみも、昨日まで感じていた絶望さえも愛しく思える。この気持ちを何と呼ぼう?幼い日に夢見た万能の自分のように強く大きくなったような、何でも出来そうな気さえしてくる。今の俺は何でも出来る。神様みたいにはいかないかも、しれないが。
いつものように何となくベッドの上に起き上がって、いつものように何となく朝の祈りを捧げようとして、俺はようやく気付く。さんさんと降る陽光の中、俺はどこまでも果てしなく裸だった。身に着けているものといえば、兄貴の形見にともらってきたロザリーくらいのものだ。それ以外は何もない。容赦なく裸だ。見慣れない狭い部屋を見回すと、書き物机の椅子の背に俺の法衣が丁寧にかかっていた。あの薄汚れた法衣まで拾ってきてくれたのか。ちょっと感動する。
まあ、ここ数年は眠るためだけに色々な奴の間を渡り歩いては、毎晩裸で眠っていたわけだから、別に裸で寝てるのが恥ずかしいだとかは思わない。後始末と手当てをしたと、この部屋の主である妙ちくりんなバードは言っていた。そうだ。それだけのことだ。なのにどうして、ついでに何かしといてくれよだとか、こいつに裸見られたのは何か恥ずかしいだとか、もっと綺麗なときに見て欲しかっただとか、いやもっともっとどうしようもないくらい汚れた俺を見て欲しいだとか、相反する思いばかりが胸を占めるんだろう。昨日ローグの奴らにマワされたときに俺はとうとうおかしくなったんだろうか。
朝日の中で眠るバードはえらく綺麗で、むしろお前が詩になるんだと耳を掴んで大声で言ってやりたい気分だった。絵画にするならタイトルは「まどろむ月光」。……俺はどうも詩的センスなるものをどこかに忘れてきたらしい。
でもこいつは月に似ていると思う。気紛れに姿を変えて人を惑わすくせに、たとえ地を灼くほどの日の中にあっても変わらぬ姿で見守っていてくれるような、そんな安心感を俺にくれた。たった数時間しか言葉を交わしていないのに。俺はどうしようもないくらいこいつに救われた。救われた奴のツラがこの上なく幸せそうに眠る阿呆面で、ずっと眠れず苦しんだ俺にとってそれは少しむかっ腹の立つものだったから、やわらかそうな頬を思い切り引っ張って安眠妨害をしてやった。ざまあみろ。
「ぶ……がぁ……」
奇妙な声をあげてバードが目を覚ます。寝付けないと言って長々話をした俺をなだめて眠らせた後にそのままこいつも寝たんだろう、さすがにマントは外していたが、バードに共通の衣装をつけたままだった。しわくちゃになっていて、その皺の細かさを見ているとものすごく申し訳なくなってくる。でも指は離してやらない。
「……ぅぁー……」
白い頬をぎゅうぎゅう赤くなるぐらい強く引っ張ってもまだ寝ている。寝汚い奴め。どれだけ俺がぎゅうぎゅうやっても全く起きないから、最後には鼻をつまんでやった。
「んー……はとゆっぅ……」
「いや何言ってんのかわかんねえし」
鼻をつままれてるから、とかそんな問題じゃない不明瞭っぷりに、さしもの俺も降参してバードの鼻から指を離す。身を起こしてるのもだるくなってベッドに寝転ぶ。粗末な部屋の割りに、結構ベッドは気持ち良い。
煤けた天井をぼんやり見上げていたら横から腕が伸びてきて、何だよやっぱりこいつもかよと早合点してバードの方を見たらそいつは相変わらず寝こけたままで、寝顔はやっぱり相変わらず阿呆面だった。伸ばされた腕がそのまま俺を抱き寄せて、抱きしめる。素肌に他人の服が触れるのはくすぐったいが心地良いし、耳のすぐそばで聞こえる穏やかな寝息も別に嫌でもないから放置する。
別に嫌じゃない。嫌な要素なんてひとかけらもない。なのに何でだか落ち着かない。落ち着きすぎて落ち着かないというか、妙な胸騒ぎがするというか、全身が熱いというかむしろ顔だけすごい熱いというか。
「んあ……? ああ、おはよう……」
「うわ!」
間近で寝ぼけ度百パーセントの声が聞こえる。バードの阿呆面をぼんやり眺めて、うわ睫長いなーとか睫もやっぱり髪の色と同じなんだーとか考えていたら、唐突に挨拶されて俺は思わず叫んでいた。心臓がばくばく音を立てていて俺のものじゃないみたいだ。
「何、どうしたの朝から大声で……」
「……何でもない」
うるせえよ、こっち見んなよあまつさえ額に手をあてたりすんな熱はかるな余計に顔が熱くなってきたぞ、昨日無茶してヤリすぎたせいか?全身もだるいし。因果応報?これはちょっと違うか。
俺の内心のぐだぐだなんて知らずにバードは眉根を寄せる。
「大丈夫? 顔も赤いけど」
「熱あるかも」
「昨日あれだけ酷い状態だったんだから当たり前だねえ」
「ていうか風邪かも」
「それはないと思うけど、まあ心配なら風邪薬飲む? 今なら御代は半額」
「金取るのかよ」
「貧乏だもーん」
「だもーん、じゃねえよ。可愛くないのに可愛い子ぶるな」
「ばっか。可愛い子は可愛い子ぶらなくても可愛いから可愛い子ぶらないんだよ」
「……よく舌噛まないなアンタ」
つか可愛くないって自覚あったんだな。
とはいえ目の前のバードは可愛さこそないものの、前述のとおり無駄に綺麗な顔立ちをしていて、冒険者なんぞやらなくてもご近所のマダムだとか悪趣味な好事家のおっさんだとかにお抱えしてもらえそうな感じで、でもそんな俗世とは無駄にかけ離れた綺麗さがあって、今まであまり目にしたことないタイプだった。
「まあ、毎日ちゃんとジョーク百連発して舌を鍛えてるからね」
「うわあ……」
「そんなに顔色を悪くするほど心から力いっぱい賞賛と期待を浴びせずとも、君が望むなら今すぐにでも素晴らしい俺の手作りな朝食と共に珠玉のジョーク百選を聞かせてあげるよ」
「ジョークいらないから朝食だけクダサイ。腹減った」
こいつの声がどれだけ心地良いものであっても、とにかくバードを名乗る連中のジョークは寒い。極寒の地ルティエに住むサスカッチも裸足でトホホするくらい寒い。そんなジョークを聞きたくないというか、せっかくの美声が勿体無いというか。
バードは仕方なさそうに溜息をついて俺から腕を離して身を起こす。ああそうか朝食を準備するためにはベッドから出ないといけないわけで、必然的に離れないといけないわけで、そこまで頭の回っていなかった俺はちょっと残念に思う。
「アンタ、料理上手いの?」
「俺は『アンタ』じゃないよ」
「だって俺アンタの名前知らないし」
「あれ、そうだっけ?」
窓辺に立って朝日を浴びながら髪を高く結い上げつつバードが首を傾げる。「いやアンタだって俺の名前知らないだろ」「あー。そういえば俺も君の名前知らないかも。顔と噂はいっぱい知ってるけどね」「噂はともかく何で顔まで知ってんだよ」胡散臭そうに俺が尋ねるとバードはおかしそうに笑みを零す。
「君がよく顔を出してた酒場は、俺がよく歌いに行く酒場だからね。誰かに話しかけられると煩わしそうにするくせに、一人で飲んでるときは今にも泣き出しそうな感じで、他にそんな人もいなかったから珍しくて噂とセットでよく覚えてたけど、見物料は払わないよ」
「金のことしか頭にないのかアンタは」
脱力して枕に顔を埋めると、まだ俺に馴染みきらないバードの匂いみたいなのがほんわり鼻に届く。じわりと滲んでくる涙を枕カバーに染み込ませておく。
別に、金金煩いから失望したとかじゃなくて、ただ単純に、世界には俺一人きりで人間なんて嫌いでたまらなくて、いっそ死んでしまえくらい思っていた頃の俺の、物凄くどうしようもないほど一人きりだった時間をそうやって外から見てくれていた人がいたのが嬉しかったから。蔑むでも誘うでも哀れむでもなく、ただ見ていてくれたのが、覚えていてくれたのが嬉しかったから、こんなにも泣きそうになっている。
「芸術家な俺は貧しくてもその中で喜びや美しさを見出して神に感謝するけど、本当にお金なくなったら飢え死に決定なので俺はとても金に煩いよ」
「金なくなったら歌って稼げば良いだろ」
「ああ、俺はあんまりそういう風に歌わないから」
「何で」
「俺の美声に聞きほれた子猫ちゃんたちが失神すると困るだろ?」
アンタのその妙に強い自信の方が困ります。まあ確かに無駄に顔も綺麗だし、無駄に声も綺麗で歌も上手いし、思春期真っ盛りなお嬢様方は簡単にころっとまいってしまいそうではある。
自信たっぷりに浮かべる笑みにはぐらかされた気はするが、それ以上つっこんで聞く気にもなれなくて俺は寝返りをうってうつぶせになる。少しだけ息苦しいが腰はだいぶ楽な気がする。少しだけ。
「名前、何?」
「俺?」
「この部屋には俺とアンタしかいねえの」
「……メルヒオル」
不貞腐れ声の俺の問いに一拍おいてバードが答えた。声のどこかに潜む笑みの気配が耳に甘い。俺は枕に顔を埋めたまま溜息をついて、メルヒオル、と口の中で呟く。
「うたみたいな名前だ」
「綺麗な音だろう? 名前の一部に『王』とか『支配者』みたいな意味があるらしいんだけど、古い名前だから意味はわからないんだってさ」
そんなところも『うた』っぽいだろう、と笑み混じりにメルヒオルが言う。うたっぽいし、こいつなら確かに人を簡単に支配できるんだろうなと俺はぼんやり思う。力以外の何かで、その人に支配されていることさえ気づかせないくらいさり気なく、気づいたらその人の中まで、ずっと奥深くまで入り込んでいそうだ。今の俺がいとも簡単にこいつに心を許したみたいに。
メルヒオルには、『それ』を許したくなる何かがある。人によってはそれを色気と呼んだり、やさしさと呼んだり、愛と呼んだりするのかもしれない。俺にはまだ『それ』に何と名づけて良いかわからない。心地良いとすら思ってしまう『それ』は少し怖くもある。
「……で、君の名前は?」
「アウレーリエ」
答えた俺の声にかぶさるようにして腹の虫がぐるると鳴る。長く尾を引いて鳴き声が消えた後には一瞬の沈黙。そのすぐ後にはメルヒオルの馬鹿でかい笑い声が部屋中に響く。
さすが普段から歌いまくってる奴の声帯は馬鹿にできないというか煩せえ。後で隣から苦情くるんじゃないか?ざまあみろだ。
そんな俺の内心など勿論知るはずもなく、いつのまにかメルヒオルがベッドの近くまで来ていたみたいで、わしゃわしゃ髪を撫でてくる。気安く触るんじゃねえよと悪態をついてみても、困ったことにどうやってもその手を嫌と思えなくて、むしろできるだけ長く触っていて欲しくて、俺は大人しくされるがままになっている。
「腹の虫まで自己紹介するなんて律儀だね、リエちゃんは」
「煩い」
「褒めてるのに」
「つか誰がリエちゃんだ! 気色悪い呼び方すんな」
俺ががばっと身を起こすとメルヒオルの手が髪から離れて、またちょっと残念になるが今はそんなことを問題にしている場合ではないので保留。むっすり睨む俺と対照的にメルヒオルは涼しげな顔で笑んでいる。
「そう? 可愛いと思うけど、リエちゃん」
「可愛くねえよ。俺がアンタのことメルちゃんって呼んだら気持ち悪いだろ」
「リエちゃんが恥ずかしくないならそう呼んでくれても構わないけど?」
敗北。リエちゃんと呼ばれるのだって恥ずかしいというか気色悪いのに、人のことを妙な愛称、しかもちゃん付けなんかで呼べるはずがない。
俺の悔しさを煽るようにまた腹の虫が鳴く。
「はいはい、それじゃあ俺はリエちゃんの腹の虫のためにご飯作ってくるから、リエちゃんは大人しくこれにでも着替えておいてね。大きすぎることはあっても、小さくて入らないなんてことはないと思うから」
「一言余分なんだよ」
俺の膝元に投げられたのは真っ白な長袖のTシャツだった。ほんのり良い匂いがするのは、干したときに浴びていた日光の名残なのか、持ち主の匂いなのか。
ああ俺裸だったなあと今更ながら思い出す。急にまた気恥ずかしくなってきて、顔が赤くなりそうなのをシャツに頭をつっこむことで隠してひとときの安楽を得る。もそもそシャツを着込みながら礼を呟く。衣擦れにまぎれて聞こえなかったのかメルヒオルは何も答えない。
シャツから顔を出してもメルヒオルは俺の方を見ていた。目が合うと瞬いてから、いかにも余裕ですといった感じの笑みを浮かべる。何か言おうとするのに割り込んで、俺もにやりと笑ってみせる。
「見物料はとらないから、美味いもん食わせろよ」
「任せて。今度は腹の虫じゃなくてリエちゃんが泣いちゃうくらい美味しいのを作るから。俺は料理まで芸術的だよ、いや本当。昔つきあってた人には、お前の料理は一度食べたらもう一年は食べたくないって言われたくらいだから」
「それって不味かったんじゃねえの……?」
「失敬な」
ちょっと待ってろと言い置いてメルヒオルは部屋を出て行く。後で聞いたところによるとメルヒオルの部屋は建物の二階にあって、一階に共同の浴室と台所があるらしい。
何はともあれ俺はその背中を見送ってからベッドに倒れこむ。何だか全身がだるいはずなのに、ほわほわ気持ち良くて、久々にあたたかい日差しの中をのんびり目的もなく散歩してみたくなる感じだった。こんな気持ちは、もうずっと忘れていて、もしかしたら初めてなんじゃないかと思うくらい、久しぶりだった。
新しい朝がきたんだと、俺は改めて思う。
昨日とは全然違う朝がきた。朝を迎えたら、昨日とは違う一日が始まる。そのことに昨日までの俺は気づかなかった。
メルヒオルが朝食の用意を整えるまでの間、俺はベッドに寝そべってあいつの匂いをかぎながら、胸の中にひとつ、あたたかな喜びが確かにあるのを聞いていた。
それはまだ歪で小さなものだったけど、少しだけ、あいつのうたに似ていた。
end
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