きみのうた
小さい頃、俺には十も離れた兄貴がいた。「小さい頃」とわざわざ断るくらいだから勿論今はいない。というか小さい頃の内に死んでしまった。
死因は確か、モンスターに襲われたときの傷だかなんだか。俺は小さかったから詳しいことはわかってなかったし、覚えていない。俺たちの住んでいた村はゲフェンの近くというかグラストヘイムの近くというかにひっそりとあって、その辺はどうしてもモンスターが多くなったから、まあ、ありふれた死でもあった。
俺がはっきりと知っていたことはひとつだけ。兄貴は死にたかったのだ。どうしようもなく悲しくて悲しくて悲しくて、悲しすぎてどうしようもなくなって、兄貴はふらりと村を出た。あてがあったのかなかったのか、とにかく歩いて行ってグラストヘイムの入り口にほど近いあたりでプティットたちに襲われて死んでいたところを、冒険者たちに見つけられた。
聞くも語るも顔色が悪くなりそうな状態だった兄貴の死体は一度ゲフェンの教会に収容された。身元探しが始まってから数週間して、ようやく村に連絡が入った。両親は俺が生まれてすぐ死んでいたから兄貴の身内は俺だけで、俺の身内も勿論、俺を育ててくれた兄貴ただ一人だった。
悲しいとは思わなかった。俺は幼心にも兄貴が何か、とても悲しんでいることを知っていたから、ああこれでようやく兄貴はその何かから解放されたのだな、楽になったのだなと思ったら、むしろほっとした。悲しいのを我慢して俺に気をつかって、優しく微笑まれる方がずっと悲しかった。
「可哀想にねえ」
「ご両親に続いて、お兄さんもでしょう……?」
「……でも、自分からモンスターに近づいたって……」
「じゃあ自殺?」
何だか知らないけれど兄貴がモンスターに嬲り殺されたという情報は、俺の耳に入る前に村中を三周くらいしていたようで、俺が知った頃にはもう、あちらこちらで井戸端会議が行われていた。教会に呼ばれて、村に二人しかいないプリーストの片方に手を引かれて道を行く俺の姿を見ると、皆ぴたりと口を閉ざす。その代わりに視線が俺の一挙一動に絡み付いてきて、俺は息苦しさに口をへの字に結ぶ。
急に話すのを止めたって断片的に聞こえていたし、それだけでもう、これから行く教会で何を言われるのか、大体わかっていた。俺は耳が良いし、頭だってその年頃にしては良い方だったから、それくらい訳なかったのだ。
主婦たちの視線が無言のひそひそ話を続けている。通り過ぎるまでの間がやたらと長く感じる。そんなに見るなよ。この村で終わるにはちょっと若すぎるくらいのプリーストが、俺を気にして困ってるじゃないか。
俺は人に好奇の眼差しを向けられるのが嫌いだし、この司祭さまのことはちょっと好きだったから、それを困らせる奴らというだけで、ちょっと主婦たちに反発をもった。
この一群を通り過ぎたと思ったら、今度はまた別のグループ。
何をどうやったらこんなに早く情報が村中を回るんだ。村がいくら小さいからって早すぎないか。噂に聞くペコペコの走る速さなんかより数倍早いに違いない。
俺は顔も知らない、情報をもってきた奴を恨む。
しばらく行ってやっと人のいない道に出る。なだらかな道をまっすぐ行けば小さな教会がある。更にその後ろに、もうちょっと小高い丘があって、そっちは葬式をあげる場所になっている。俺たちの村では死者は鳥葬に伏す。さっきおばちゃんたちの誰かが「残酷ねえ」とか言って嬉々としてモンスターについて喋っていたけど、鳥に食わせるのとモンスターに食わせるのと、どれくらい違いがあるのかと俺は馬鹿馬鹿しさに笑いさえこみ上げてくる。
兄貴が生きていたまま食われたとか、それはこの際問題じゃない。兄貴は死にたがっていた。でも自分では死ねない人だった。だけどどうしても死にたかった。あのまま家を出なかったら俺が殺してやっていたんじゃないかと思うくらいだった。どうしてかはわからないけど小さい頃の俺はそう思っていたし、今でも結構そう思っている。
「兄ちゃん、死んだんだね」
どうしたものかと困惑したままのプリーストを気遣って俺は、自分から声をかける。そうしたらプリーストはぼろぼろ涙を零しながら、膝を折って同じ目線の高さにしゃがんで、俺を抱きしめた。何で彼が泣くのか俺にはよくわからなかった。今となっては名前も思い出せない。ただ、彼の零した涙の、明るい日差しに輝きながら落ちてくる透明さだけ、よく覚えている。
その後は何がどうなったやら、気づいたら俺は村を出て、ゲフェンの街中で暮らすことになっていた。兄貴の死体を見つけた冒険者の家族がゲフェンに住んでいて、もしも良かったら、これも何かの縁だからと言ってくれたのだった。村を離れるのは、俺と手を繋いでくれたプリーストとも離れることで、俺はちょっと躊躇ったが、村の中で可哀想な子扱いされて、腫れ物に触るみたいにして接せられるのも嫌だったから、承諾した。
兄貴の死体が見つかってから丁度一ヵ月半してから俺はゲフェンに一人、引き取られていった。引き取られた先は老夫婦と、娘夫婦と、その子どもが二人いるちょっとした大家族だった。見知らぬ子どもに養子に来いといきなり言うだけあって、家も大きかった。
継子には辛くあたるという話をよく聞いたりもしていたし、実際、村でもらいっこだったシェリーは継母にいじめられていたようだったが、この家ではそんなことはなかった。俺はちょっと拍子抜けした。
拍子抜けはしたが、それとは別の辛さがあった。俺を本当の子のように思う、とことあるごとに言い聞かせるのは、まあ良い。だけど彼らもやっぱり俺を「可哀想な子」として扱うのだった。
「別に、何も可哀想なことなんてないよ」
首を傾げて俺が言うと老いた母が涙ぐみながら俺を抱きしめ、若い方の母がエプロンで顔を覆って台所へ駆け込む。抱きしめるがりがりの細い腕からはちょっとだけミルクの匂いがした。最近生まれた小さい方の子の世話を率先してやっているからかもしれない。
どうしてわかってくれないんだろう。
俺は次第にくさくさしだす。学校へ行くようになると今度は、同い年の子どもたちが養子で可哀想にね、みたいなことを囁きあう。いや別に養子なんて珍しくないだろうと俺は心の中でツッコミを入れるのだが、勿論そいつらに伝わるはずもない。中には露骨に俺に哀れみの視線やら侮蔑の言葉やらかけてくる奴がいて、何故か知らないけどそいつらは皆金持ちで、金持ちって皆こんなアホなのかと俺の中にヘンケンが出来上がる。まあ金持ちといっても、俺が世話になっている家に毛が生えた程度のもので、本当の金持ちたちは家庭教師つけてお屋敷に引きこもっていたが。
どうしてわかってくれないんだろう。
俺にとって俺の今一番可哀想なところは、何も可哀想なことがないのに勝手に悲劇の主人公だかなんだかに仕立て上げられていて、俺が何をどう言っても俺はもう「可哀想な子」の役回りしか演じることを許されていない、という一点にしかない。
可哀想、可哀想って馬鹿のひとつ覚えみたいに言うなら、可哀想って思うの止めてくれよ。と一度言ったら、きょとんとした後、皆して聞かなかったふりしやがった。それも、俺にはまだ錯乱状態になることがある、とか勝手な設定つきで更に哀れみだか侮蔑だかが強まった。もう好きにしてくださいと丸投げして、俺は周りを無視することに決めた。
この思いつきは思いのほか優秀だった。そうやって俺が無視を決め込んでいる内に、周囲の視線やら噂やらも次第に落ち着いていった。要するに俺の存在が珍しくなくなって、いるのが比較的当たり前になって、俺についてのあれこれで噂したり何かするのに飽きたわけだ。
その頃には完全に、俺は他人を拒絶するようになっていた。非行に走らなかっただけ俺は他よりちょっとだけマシだったと思う。大人や、ちょっと年上に会う度に「可哀想にねえ」とか「辛かったでしょう」とか言われながら撫でられたくもない頭を撫でられ続けたら、それだけでも捻くれたガキが育ちそうだ。よく我慢した、俺。
でも俺が非行に走らなかったのは何も、死んだ家族のためにも前向きに生きて頑張るだとか、立派になって周囲を見返してやるためだとか、罰が怖いからとか、そんな前向きな理由じゃなかった。
俺は単に、冒険者になって、最終的にはプリーストになりたいと思っていたのだ。何でそう思ったんだか、いつからそう思っていたのか、覚えていない。兄貴が生きていたときにプリーストになりたい、と言っていたのを聞いたからかもしれない。生まれ故郷でひっそりと子どもや年寄りを相手に教えを説き、病を癒しているだろうあのプリーストに憧れていたからかもしれない。よくわからないが俺は何となく、この道を選んでいた。
それは本当に「何となく」としか言えない理由だった。だからアコライトへの転職を許されたときも、プリーストへの転職を許されたときも、正直、嬉しいより前に良いのか?と疑念があった。その後にちょっとだけ、大丈夫かこの教会、と他人事ながら心配になった。更にその後で、いや俺もう他人事じゃなかった、と思い出して、それでようやく、少しだけ笑えた。
そんな感じで適当に何となく決めたプリーストの道だったから、タバコも酒も特に抵抗もなく受け入れて、気づいたら俺は酒をよく飲むようになっていた。タバコは抵抗はなかったが、気管支が少し弱くて吸うと咳きが出て息が苦しいばかりだったから、すぐに止めた。
プリーストに転職した頃から俺は眠れなくなっていた。眠れないといっても、ベッドで何時間も粘っていれば睡眠時間が細切れに手に入ったし、寝つきが悪いだけで寝起きは比較的良かったから、案外平気でいられた。毎日狩りだの、教会の手伝いだのして過ごした。
他人のために祈り続けて、教会でひたすら奉仕活動をして、その帰り道に浴びるほど酒を飲む。飲まずにはいられなくて気づいたら飲んでいて、それでも駄目なときは男色趣味の知り合いだの通りすがりだのの部屋に転がり込んで一晩中交わり続けた。
罪悪感だとか羞恥だとかは不思議となかった。俺は最初からどこかしら壊れていたのかもしれない。兄貴が死んだときだって悲しみだとか、大切なものを失ったときの虚無感だとか、そうしたものが何もなかった。その代わり、胸の内に澱のような目に見えない何かが積もっていって、その度に酒の量が増えたり、男と交わる回数が増えたりした。女は色々と面倒だったから避けた。
俺は丁寧に愛撫されて壊れ物みたいに大切に扱われるよりも、強姦よろしく力でねじ伏せられて痛みに気絶しても叩き起こされてそうやって何度も犯される内に何もわからなくなるのが好きだった。感じているのか気を失っているのかわからない内に眠って、気づいたら昼、というのが本当に好きだった。眠れないまま拝む朝日が大嫌いだった。
まさか一般人を誘うなんてことは出来るはずもない。騎士やクルセイダーたちは誘ったって応じるはずがないし、応じる奴らは大概ろくでもなくて死にかけることもあって、絶対に誘わないようになった。俺もまだ死にたくはなかったらしい。力でねじ伏せられたいわけだから、非力な職の連中も誘わない。で、自然と俺が誘うのはローグばかりになって、ローグには妙な繋がりみたいなのがあるようで、一人と寝るつもりだったはずが気づいたら数人に順番に何度も犯されていることもあって、そんな時には自分のそんな姿に吐き気がした。
カミサマなんて特別信じたこともなかった俺が何となくで選んだだけのはずのプリーストの道。そのはずだったのに、気づいたら溜まりに溜まった澱が固まって罪悪感になっていたみたいで、けれどそのときにはもう遅すぎていて、俺は余計に荒んでいった。ヒトを助けるためにある職だろ、自分が一番助けを求めててどうすんだよ、と独り言を言ってなんとか奮起しようとしては失敗して、その度にまた酒と男が増えて、その度にまた罪悪感が増えていく。
もう止めないとと思っていても俺はもう暴力じみた交わりの後でしか眠れなくなっていて、傷は全部自分で治せたものだから、余計にそれが加速していった。同職の中には俺のしていることを知っている奴もいて、その中には更に露骨に眉を顰める奴もいた。むしろそれだけで済んだのが驚きだ。俺自身が、俺に唾を吐きかけて蹴りつけて、罵って罵って、そのまま殺してやりたいくらいだったんだから。
今になって思えば、さっさと冒険者の資格だとか全部返してしまって、どこか山奥にでも引きこもれば良かったのかもしれない。が、その時の俺はとにかく、何ひとつ頭が働いていなくて、そんなことは欠片も思いつかなかった。ずっと考え込んでいるのに、そうしたことは何ひとつ考えられなかったのだ。
そんなある日の昼下がり、ぼんやりと薄暗い路地裏を歩いていたら、前に何度か寝たことのあるローグが俺に気づいて寄ってきた。「今からやろうぜ」「やだよ昼間じゃん」「昼だと駄目って、何か真人間っぽいこと言ってんね」ローグが馬鹿笑いをして言う。昼間ヤるとか明るいとか別にどうだって良い。どうだって良いが、今からやったんじゃ、夜中に目を覚ましちまう。それじゃあお前とヤる意味がないんだよ。
退けよ。何いきなり股間掴んでやがるんだ。もう片方の手ははだけた法衣の合間から胸に這って、そのまま胸の突起をいじくる。開発され尽くされた俺の体はそれだけで熱くなって、ローグは調子に乗って「今日はこのまま慣らさず突っ込んで良いよな」とか言い出した。馬鹿みたいにでかいこいつのを本当に無理に突っ込まれたら流石に死ぬかもしれないと慌てて抵抗する俺を、いつものように無理矢理して欲しいと思ったのか何度も殴って後ろ手に縛って転がして、服を半端に脱がして、俺に圧し掛かってきて、俺は激痛にそのまま気を失う。気を失ったと思ったらまた痛みに起こされて気絶して、それを何度も何度もくりかえしている間に俺は完全に意識を手放していた。
で、何十回目かに気づいたら何人かのローグが俺を取り囲んでいた。内の二人は見たことがある奴で残りは初めて見る顔だった。縛られたまま誰かに後ろから抱きかかえられて突っ込まれている俺の前にもう一人が立って、俺の口に突っ込んでいる。ぼやけた視界に小さく、最初のローグの姿が映っているから、今俺を犯してる奴は別の奴なんだろう、なんて痛みの中で考えている俺がいた。
何をされたのかも忘れるくらい何度も何回も何人もとヤらされて、終いにはたまたま通りかかった奴まで参加して、ようやく奴らが飽きたときにはもう夕闇が辺りを薄暗くしていた。
「汚ねえなあ」
「全身びしょ濡れだねえ」
「流石セイショクシャ」
「あ、俺今良いこと思いついた」
自力で身を起こすことも出来ずに縛られて精液まみれになった俺を見下ろして、ローグたちが口々に言う。何か他の職の奴もいた気がしたが、もう何職だって大差ない。
良いことを思いついたらしい一人が俺の髪を、汚いものでも触れるように乱暴に掴みあげて、そのまま壁にたたきつけるようにして座らせる。腰だかどこかが痛い。というか全身が痛い。法衣のズボンと下着はどこかへ行って、気づいたら靴も片方どこか行って、身に着けているのは羽織っているというか辛うじて両腕でひっかかっている法衣だけだった。これだって両手を縛られているから抜けなかっただけで、縛られていなかったら俺は今頃全裸だったんだろう。今更、大差ない気もするが。
ローグが何か、その辺に捨ててあった看板の割れた板切れか何かを拾ってきて、裏に文字を書く。ナイフか何かで無造作に板にふたつ穴を開けて、弓の弦に使うらしい細い糸を穴にそれぞれ通す。で、それを俺の首からかける。ぎり、と丈夫すぎる糸が俺の首の皮膚に食い込んで痛い。
「そんなに喜ぶなよ。淫乱プリーストさまに満足して頂けるように、俺たちがいなくなった後も楽しめるようにしてやるからさ」
良いことを思いついたらしいローグが得意そうに言う。痛くて呻いているのを知ってて言うあたり、本当に性格が悪い。板の重みで皮膚にどんどん糸が食い込んで、血が滲んで、次第に胸元にまで伝ってくる。
他のローグたちも看板に書かれた文字を見て口笛を吹いたり歓声をあげたりして散々はやしたてて、ついでに写真を何枚か撮ってから一人二人と姿を消していった。
最後に残った奴が手にしていたカンテラに火を灯して俺の側に置いてから去っていった。その火を頼りに看板の文字を見てみたら、みみずがのたくったような汚い字で『公衆便所。ご自由にどうぞ』だとか書いてあって、その発想の下劣さに俺はまた吐き気と戦い始める。そこに犯されたときの痛みと、進行形の首の痛みとが加わって、どうせなら殺していってくれよと乾いた笑い混じりに呟く。
体中にぱりぱり汚れが張り付いていって、俺の喉も張り付いてしまったみたいで、死にたくなるぐらいに長いこと犯されてみたのに気絶から眠りに入ることも出来なくて、これは何の罰だと涙が出そうになる。罰というならたぶん、どう考えても俺の生き方そのものにで、どうしてこんな生き方を選ばなければいけなかったかといえば、兄貴が死にに行ったのと同じように、もうこうするしかなかったからでそう思うと、死んだ方がましなくらい惨めな思いのまま俺は今の状況を受け入れてしまう。
通りすがりの酔っ払いが「うわ汚っ」と小さく叫んで、唾を吐きかけたりつま先で蹴飛ばしてから足早に立ち去っていく。その時向けられた視線と、幼い頃の俺を哀れんで向けられた視線と、俺には区別がつかなくて、俺は他人からこんな目で見られることしか出来ない奴なんだと再確認して、プリーストの衣装を着ていることが申し訳なくなってきて、むしろ生きていることそのものが申し訳なくて、とにかく吐き気を堪えるために唾を飲み込んだ。
何人目かの酔っ払いがまた俺を犯す。これ以上は何をされたって同じだと俺は目も閉じず、声も殺さず声もあげず、無感動にそいつを受け入れて、体内に精液を受け止めて、鈍い痛みと一緒に吐き気を飲み込む。「こんなことしているとお前まで汚れるぞ」とか見知らぬ酔っ払いに声をかけてやろうかと思ったら、おかしいくらいに笑いがこみ上げてきた。
そいつは随分溜まっていたのか何度か俺を抱いて、何度目かのときに俺は段々俺の意識が薄れていくのをぼんやりと遠くから眺めていた。意識の薄れ方が何だかいつもと違う感じで、ああ俺このまま死ぬのかなと思ったら不思議と安堵した。さっきまで結構、とりあえず何となく死んじゃ駄目だーと思っていたのに。
「何をしてる」
だからそんな声が降ってきたとき俺はその声を恨んだ。酔っ払いが俺から引き離されて、ごぽとか音を立てて酔っ払いのが引き抜かれて汚いものが俺から流れ出たとき、意識がまた戻ってきてしまった。霞んだ視界でそいつを睨みつける。
長い栗色の綺麗な髪を後ろで涼しげに高く結んだ、ちょっと長身めの男がいた。何の職だかその時はすぐにわからなかったが、手に楽器を持っているからたぶんその辺の酒場で歌でも歌った帰りのバードだと、おぼろげながらも思った。
しばらくバードと酔っ払いが口論をくりひろげて、俺はそれを遠くに聞いていた。酔っ払いが急に大声をあげてバードに殴りかかるのを、バードはひょいと事も無げにかわして、お返しにと楽器を逆手に持って酔っ払いを殴り倒す。いやバードなら楽器を大切にしろよと、死にかけているはずなのに俺はツッコミを入れる。
殴られた酔っ払いがそのまま倒れたらしい音がした。バードは俺の方へやって来て何かを言う。何と言っているのかよく聞こえない。わからないまま俺は何度も首を振る。ぎりぎりと首の後ろが痛んで、ぼたぼた血が首を伝ってくる。バードがまた何か言う。もう放っておいてくれ。俺はただひたすら首を横に振り続ける。血が流れ続ける。
ぶつっと音がして不意に首が楽になる。バードが板を持ち上げて、俺の首から糸を外してくれた。弦にじわじわ抉り取られた血と肉と皮膚がそれに少しくっついていって、新しく皮膚が剥がれたりもして俺は呻き声をあげる。
バードがしゃがみこんで俺の後ろへ手をやってごちゃごちゃ何かしている内に、俺の両手が自由になる。石畳の上に手をつこうとして力が入らなくて、俺はそのまま後ろに倒れる。首が痛い。両腕に少しずつ血が通っていく。痺れが広がってきて、ああさっきからこんなに痺れていたのかと感心する。
俺を覗き込んでいるバードの顔が見える。長い髪が何か無性に美しく感じて、顔もちょっと綺麗で、最期に良いものを見たと俺はちょっと嬉しくなる。目を閉じようとしたらバードが慌てて身を乗り出して何か言う。耳鳴りがしてよく聞こえない。
バードが何か緑色をしたものを口に入れてよく噛んで、それから俺の上にかがみこんで、口移しにそれを飲ませてくる。これを受け入れると死ねない気がして俺は舌でそれを拒む。バードの舌が入り込んできて俺の舌と絡みあって、そうしている間に俺は息苦しさに負けてそれを飲み込んだ。少し青臭くて苦い。口中どころか喉の奥まで苦くて俺は涙で視界を滲ませる。
その苦味が薄れていくと体の奥が少しだけ落ち着いてくる。何となくああ死ぬなあと思っていたのが、何となくああ大丈夫かもしれないと思うようになった。それがバードにもわかるのかバードはちょっと安心したみたいに笑みを浮かべた。狭い路地に切り取られた満月も凄い綺麗で、その下で微笑むバードもちょっと凄い綺麗で、何だかちょっと月の精霊っぽい感じで、お前自分のこと歌にしたら絶対売れるんじゃないのとか余計なことを思った。
「おいで」
何かたくさんバードが言ってて、その中の一言だけがはっきりと聞こえた。おいで。そう言ってバードが俺へ向けて手を差し出す。よくわからない悲しみとか愛しさとか切なさとか嬉しさとか怒りとか寂しさとか、色々なものが混ぜこぜになって俺は訳もなく涙を零す。まだ痺れたまま重い手で俺はバードの手に触れる。バードが微笑む。俺は気を失う。
暗転。
ほわほわした中に俺はいた。ずっと昔、小さい頃の情景が見えてくる。兄貴がおんぶして俺は夢うつつで夕焼けが綺麗で、すすきの穂が黄金色に輝いていて、赤とんぼが何匹か飛んでいた。兄貴の隣にはあのプリーストの姿があった。その頃はまだプリーストじゃなくてアコライトの格好だったような気がする。
俺を起こさないように二人は言葉少なに歩く。「これから、戻ったら転職なんだ」「やっと念願のプリーストか」「うん」「頑張ったな」「君のおかげだよ」「お前が頑張ったからだろう」沈黙。兄貴の足が止まったのが振動でわかる。薄目を開けたら二人が軽くキスしているのが見えて俺は慌てて目を瞑った。二人はまた歩き出して、家につくまで無言だった。
ああそうか。だからあのプリーストはあんなに泣いていたのかと、俺はようやく納得する。凄いすっきりした。友達ってだけじゃなくて、兄貴がとても大切で特別だったから、あの時あんなに泣いていたんだ。プリーストとしてではなくて、ひとりの人間として。そう思うと俺は凄く嬉しくて悲しくて、俺も涙を零す。
その零した涙の冷たさに俺は夢から覚める。煤けた感じの天井が目に入る。年季の入った天井板だ。感心していたらひょいとバードの顔が視界を塞ぐ。
「やっとお目覚め?」
悪いかよと文句を言いたいが声が出てこない。ちょっと身じろいだら首と体内に微妙な違和感があった。動かした感じでは首には包帯が巻いてあるようだった。体内の方はまあ、その内収まるだろう。あれだけ滅茶苦茶やってこの程度で済んだなら儲けものだ。
「あんまり酷い状態だったから断らずに後始末と手当てをさせてもらったんだけど、そんな状態だったから勿論俺はあんなこととかそんなこととか、してないからね。だから慰謝料請求とかは俺にしないでね。ああ見物料よこせって言われたら困るけど。っていうか俺貧乏だし」
真顔で言われても。真剣にそんなことを心配していたのか、こいつは。そういうことは心の中に閉まっておけよとツッコミを入れたいのに声が出ない。金はいらないから水をくれ。このままだと助かったのに乾ききって死にそうだ。
「でも明るいところで綺麗にして見たら君って結構、綺麗だね。今度モデルやらない? 俺、絵も描くんだけどさ、人物画ってあんまり描かないんだけど、君みたいな人なら描いても良いかな。こんな綺麗なのに素行は悪くてでもプリーストで、アンバランスさが良いよ。うん。芸術的な生き方だ」
いやそこは語るところじゃなくて、目覚めたばかりの俺を気遣って水を飲ませるところだろ。そもそも芸術性ってこんな爛れたものじゃないんじゃないのか。人物画は普段描かないけど君ならって何十年前のナンパだおい。色々とツッコミどころが多すぎて俺は呆れて、ちょっと眩暈がして、それから何となく腹が立ってきた。
腹が立ったら、ちょっとだけ力が湧いた。
で、声もちょっとだけ出た。
「み……、水……」
「ミミズ?」
「水!」
「砂漠のミミズが干からびて一言『み、水』!」
良いことを思いついたと言わんばかりの明るい笑みと共にバードが朗々と歌い上げるように言う。せっかくの俺好みの美声なのに内容がこれ。つか俺はミミズか?ミミズなのか?
危うく凍りつきそうになった俺を尻目に、何度も同じジョークを言っては嬉しそうに笑いながら、バードが水差しからコップに水を注ぐ。俺の口元に持ってきてくれて、俺がのたのた頭をもたげて飲むと、後頭部にそっとバードの手が添えられて、俺は心行くまで水を飲む。
えらいぬるい水だったが俺が今まで飲んだどんな水より美味しかった。むせて咳き込んで吐き出すと水が転々とシーツの上に散って、その丸い玉が吸い込まれていくまでの間のきらめきは、遠い昔のプリーストの涙みたいに綺麗で俺は少し嬉しくなる。
水を飲んだら俺は眠くなる。眠くてたまらないのに、眠り方を忘れてしまったみたいに眠れない。どうやったら普通に眠れるんだったっけ。性交しないで眠ろうとするなんてもう何年ぶりか思い出せないくらいで、もどかしくて、もどかしさに余計焦って眠れなくなる。
「眠らないの? もう少し寝た方が良いよ」
「……眠れないんだ」
「不眠症?」
「もうずっと前に、眠り方を忘れたみたいだ」
「ああ、それで君はああいうことばかりしてたんだね」
「知ってるのか」
「あの辺りの酒場はよく行くし、君のことも何度か見かけたことがあるよ」
「俺はプリーストだから、他の奴らを助けてやらないといけないのに、他の奴らなんて大嫌いで、でもそんなことおくびにも出さずに俺は他の奴らを助けたり、そいつらのために祈ったりして、笑顔なんて向けて、何かどんどん、自分が嫌になっていった……」
唐突に語りだした俺を驚いた様子もなくバードはただ見つめている。穏やかな眼差しが心地よい。見つめられるのなんて大嫌いだったのに、この目にならずっと見つめられていても良い、ずっと見つめられていたい。そう思った。優しい目だった。死んだ兄貴みたいな、死んだ兄貴を見つめていたあのプリーストみたいな目。
初めて会った奴なのに、今まで会った誰よりも話しやすい雰囲気で、俺はぽつぽつと言葉を落としていく。バードはそれを頷くでもなく言葉を挟むでもなく問い直すでもなく、ただ聞いている。聞き流している様子なんて全然なくて、こんなに他人の話を聞ける奴なら、むしろこいつがプリーストやった方が良いんじゃないかって思うくらい、話しやすかった。
俺の生い立ち、過ごしてきた時間、その時々で思ったこと、考えたこと、そんなことをとりとめもなく話した。過去にいっては今に戻り、また別の過去に戻る。自分でも酷くわかりにくいと思う俺の話を、バードは完全に理解しながら聞いたようだった。
俺が話し疲れるとバードがカンテラの火を消して、俺の隣に入り込む。部屋にベッドはひとつしかないし、一緒に寝るのは嫌でもなかったし、俺は黙って身を寄せる。誰かとベッドに入るなんてこの数年の日課みたいなもので慣れているはずで、それは荒みにも似た情欲の匂いの漂うもののはずなのに、そいつからは全くそんな匂いがしなくて、それが逆に俺を落ち着かなくさせる。柄にもなくどきどきしてきた。
バードが腕を伸ばして軽く俺を抱く。幼い子どもにするみたいにそっと、とん、とん、と指先で一定のリズムをとって俺に触れる。気持ち良い。今まで受けたどんな愛撫よりも、この触れ方が気持ち良い。無理矢理瞑っていた瞼を開けて、俺はバードを見つめる。バードがやわらかく微笑む。
指先のリズムに合わせてバードが小さな声で歌を紡ぐ。低い、やわらかい、あたたかな、やさしい声だった。小さいときに聞いたことがある。何だっけ。思い出せない。悲しみにも似た懐かしさが胸を締め付ける。ああ、これは兄貴が俺に歌ってくれた歌だった。幼い子どもを寝かしつけるための子守唄。
とろとろと俺の意識がまどろんで、バードの歌声が遠く近く揺れて聞こえて、余計に心地よい。体が少しずつ眠るってことを思い出していくみたいに少しずつ、俺は眠りに落ちていく。
完全に眠りに落ちる直前、バードの歌が途切れて、俺に口付け囁いた。
「明日になったら君の歌を書くよ」
end
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