虹のしたで君と
我輩はペコペコである。
名をフロックスという。
父も母も、ルーンミドガッツ王国きっての名ペコペコとして活躍していた、生粋の騎士ペコだ。
騎士団での厳しい訓練にも耐えた。時には反抗したくなることも、まあ、ないわけではなかったが、これも立派な騎乗用ペコペコになるためと思えば、苦でもなかった。
長い訓練期間を終え、我輩の仕える主も決まった。
我輩の主殿は駆け出しの騎士である。どっしり構えていることが出来ず、絶えず動き回っている。若干落ち着きがないのが玉に瑕だ。技巧の面でも、我輩を訓練してくれたベテランの騎士には、勿論及ぶはずもない。
宿舎で隣り合う他のペコペコたちから聞いたところによると、主殿はあまり優秀というわけでも、高名な家の出身というわけでもないようだ。
その所為かよく騎士仲間から、主殿に使われる我輩がかわいそうだと声をかけらる。何と無礼な連中か。突きまわしてしまいたい衝動を呑み込むのが一苦労だ。主殿の良いところは、我輩がよく知っているのである。まったくもって、余計なお節介だ。
これだから人間は、と我々魔物の間で嗤われる所以である。
主殿は本当に気立ての良い人間だ。
異様な勘の鋭さで、我輩のささやかな欲求だとか、気持ちだとかを的確に汲んでくれる。中には最低限の世話すらしてもらえないペコペコもいる中で、破格の扱いと言えよう。
主殿の住まう宿舎は騎士団のもので、我々ペコペコのための小屋も完備されている。主殿はいつか独立した家を持ちたいようだが、なかなか我輩のための場所を確保できないようだった。申し訳ない反面、何とも嬉しくなる。
さて、狩りから帰ってきた主殿は、真っ先に私を小屋へ連れて行く。これはまあ、どの騎士でもそうだろう。主殿はその後が違う。我輩につけていた騎乗用の器具をすべて外し、濡れタオルで綺麗に我輩の羽やくちばしを拭いてくれる。そしてブラッシング。すぐに新鮮な水と美味しい餌とを用意してくれる。合間合間に羽を撫でながら労わりの言葉までかけてくれるのだから、たまらない。
父がよく「良い騎士は自分のことよりも真っ先にペコペコの世話をするものだ」と言っていた。主殿に仕えるようになって、よくわかる。大切にされていることを感じると、我々ペコペコも、主殿のためにもっと頑張ろうと思うものだ。
今日は特別に遠くまで行ったからと、我輩の大好物のリンゴを餌箱に入れてくれた。与えられた褒美は勿論だが、主殿の輝かんばかりの笑みとねぎらいの言葉こそが、我輩の一番のよろこびであり、誇りである。プロンテラからアルデバランまでを往復するのはさすがに骨が折れたが、その疲れも吹き飛ぶというものだ。
我輩は生涯をかけて主殿に尽くそう。
主殿をおいて他に優先すべきものなどない。
そう思っていたのだ。
あの日までは……。
* * *
あれは、とても綺麗に晴れた日のことだった。
ルナティックの毛のように真白くやわらかそうな雲の配置までが芸術的で、完璧だった。
主殿は恋人のプリーストと湖へ出かけていた。勿論、我輩も一緒である。主殿が見初めるだけあって、そのプリーストも好感のもてる人柄だ。あたたかい笑みは主殿に少し似ていて、とても素敵だ。主殿がこのプリースト殿と恋愛関係にあると気づいたときには、いささか驚きもしたが……それはまた、別の話である。
主殿とプリースト殿が中睦まじく語らっているのを、我輩は少し離れたところから見守っていた。足元の土をいじくってミミズがいないか探してしまうのは、本能だからいたしかたあるまい。今日は非番なのだし、それくらいは多めに見て欲しいのだ。
主殿たちに何かあれば、すぐに駆け出せるよう、意識は配っている。とはいえこの辺りにはポリンやルナティックなど、平和な魔物しかいないが……。
歓談する声を聞きながら我輩はミミズを見つけた。丸々と太った良いミミズだ。道理で青々と草がしげっているはずだ。この良いミミズを見つける、というのは我輩の密かな自慢である。実際、訓練時代にも他のペコペコたちから賞賛と尊敬を集めたものだ。
ミミズを美味しく頂いたところで、我輩は妙な気配を感じた。
同族の気配。
野性味が強い。が、この辺りは我々の好んで住む土地ではない。かといって誰かに飼われているペコペコの気配とも、また違っている。
何というか、そう……中途半端なのだ。
立ち上がって何気なく視線をめぐらせてみる。我輩の背後の茂みから、鮮やかなオレンジ色の羽が覗いている。日光を跳ね返して艶やかで、なかなか手厚く世話をされていた様子が伺える。なんといっても、主殿に丁寧に世話されている我輩と同じくらい美しい羽だったのだ。
そう、ほんの気まぐれだった。
我輩はいつもなら、主殿が我輩から降りられた場所から、一歩だって離れたりはしない。だから、本当にその日はたまたま、偶然、気まぐれを起こしたのだ。
茂みの向こへ足を踏み入れてみた。
どんなペコペコがいるのか、見てみようと思った。
低木に紛れるようにして、ぽつりと白い石が置かれていた。我輩は知っている。あれは墓石というものだ。以前一度だけ、主殿とプリースト殿に連れられて、大聖堂の裏で見たことがある。鳥頭だの何だの言われているが、我輩、こうしたことは忘れないのである。
白い石は少し汚れていて、足元にはもう雑草が生え始めていた。手入れとやらをしていないのだろう。その前には蹲るペコペコが一羽。弱り気味のようだった。我輩が近づいても顔をあげもしない。
『もし、そこの』
小さく鳴き声をあげてみたが、そのペコペコは身じろぎをしない。鳴き声ひとつ返さない。失礼な奴だ……とは不思議と、思わなかった。それぐらい、悲しそうにしていた。
更に数歩、近寄ってみた。
茂みに近い方に墓石があったのだから、当然、そちらから近づくことになる。我輩が石へ近づくと、そのペコペコはさっと立ち上がり、我輩を睨みつける。やはり弱っているらしく、踏ん張る足が震えていた。
それで我輩は理解する。
ああ、ここは彼の主の眠る場所なのだと。
我輩は敵意がないことを示すためにその場に座り込み、首の羽毛へくちばしをつっこんでみせる。まだ警戒を見せてはいるが、彼もまた墓石の前へへたり込んだ。
『腹が減っているのか』
『……放っておいてください』
『餌を』
もらっていないのか、と尋ねかけて我輩はくちばしを噤む。彼は鞍だとか何もつけていなかった。羽はまだ艶やかではあったが、間近で見れば所々に汚れが見えた。
『いつから?』
『貴方には関係ないでしょう。ご主人様のところへ戻ったらどうですか』
『主殿はまだ歓談中だ。しばらくは二人の世界であろう』
『………………』
顔を逸らされた。
まあ、我輩も気持ちはわからなくもない。あの二人の会話というか、求愛行動というか、何もかもがすごすぎるから……。我輩としては主殿が幸せそうにしていれば、それだけで良い。とはいえ、そう、これが本当の「かたはらいたし」である。
墓石の前のペコペコはじっとくちばしを閉じている。
地面へ向けられたくちばしのなだらかな曲線は、騎士団にいるペコペコにもあまりいない、見事な美しいカーブだった。勿論、野生のものにも、こう美しいものはなかなかない。
話しかけられる雰囲気ではなかった。
仕方なく我輩もくちばしを閉ざして我慢の子である。
どれほど時間が過ぎたであろう。
青かった空はアルギオペ色に染まっている。
遠く聞こえていた主殿とプリースト殿の情事の声も、既に聞こえなくなっていた。初めて聞いたときは、人間も外でするものなのかと、若干驚いたものだ。案外人間も……、いや、この先は考えなかったことにしよう。我輩は主殿を筆頭に、人間へ忠誠を誓ったペコペコである。
野良ペコペコはあれから微動だにしなかった。見上げた根性である。厳しい訓練に耐え抜いた我輩でも、それは難しい。見たところ、訓練を受けたペコペコには思えない。街中で時折見かける、ペットのペコペコであろうか。
一般に知られている以上に我々ペコペコは主への忠誠心が強い。それはもう、デザートウルフの仔など問題にはならないくらいに。とはいえ、彼のようにいつまでも主の墓の傍を離れないというのも珍しい。よほど彼が大切にされていたのだろうと察せられる。
『そろそろ日が暮れる』
『まだ、いたんですか』
『悪いか?』
『別に……』
彼の視線は、彼の主の墓石を揺らぐことなく捉え続けている。我輩は、それが妙に気にかかる。主殿はもう少し日が沈めば、帰ろうとするだろう。我輩も勿論それに付き従う。だから、そろそろもとの位置に帰らねばならない。騎士ペコとしての勤めである。
なのに動けない。
ストーンカースをかけられたときのように。
スタンしたときのように。
あるいは、罠にかかったときのように。
まったく、動けない。
その場で立ち上がることすら思いつかない。
『早く、帰ったらどうですか』
『まだ……、時間はある』
座り込んだままのペコペコの瞳は黒く潤んでいる。
まだ、生命の灯は残っている。
なのに彼はこのまま、ここで死のうとしている。
それが酷く悔しかった。
『戻れる場所があるうちに、戻るべきです』
『……お前にはもうないのか』
『私の戻るべき場所は、ご主人様のお傍だけでした』
ここ以外、どこへ行けと。
そう鳴き声を漏らして彼は俯く。
我輩はどうすれば良いのだろう。
彼をつれていくのが無理なら、主殿をこちらへ連れてくるべきなのか。それとも、放っておくのが良いのだろうか。我輩は悩んだ。短いペコ生の中で、こんなに悩んだのは初めてだ。
『ほら、ご主人様が呼んでいますよ』
『…………』
『貴方も野良ペコになるつもりですか』
『名を』
『……』
『我輩はフロックス。お前にも、主につけられた名のひとつもあろう』
『……ご主人様が土の下へ埋められたとき、私の名も共に埋めました』
死にゆく身に新たな名もいらない。そう、言外に告げられた。我輩はそれがいたく気に食わない。が、何と返せば良いのかわからない。訓練に、こういったことは含まれていなかったのだ。訓練されていないことに関しては対処しがたい。それは我輩の弱点のひとつである。……などと、意味もなく自己分析を進めてしまった。
我輩たちの鳴き声を聞きつけたのか、主殿が茂みをかきわけてやってきた。
主殿。
御髪が少し乱れております。ああ、襟元も少し……。我輩、主殿のそういったあけすけなところを少し心配しております。騎士の方々は特に礼節だとか貞操だとか、そうしたことを重んじるわけで。それが主殿の良いところとわかっていても心配なのです。
いやいや、今は主殿の心配は置いておくのだ。
「あ、いたいた。フロックス。そろそろ戻……、あれ?」
もう一羽のペコペコに気づいた主殿が首を傾げている。この辺りに自生しているペコペコはいないし、他の人影もない。故に、他のペコペコがいるなど、完全にイレギュラーなことである。
驚いていた主殿も墓石に気づいた様子。
ゆっくりと彼に近づいて、主殿が手を伸ばす。首のところの羽毛を撫でようとした手を、彼はくちばしで打ち据える。主殿はさすがに騎士だけあって痛くはなかったようだ。ただ、ペコペコに反抗されたことがややショックだったのだろう。ぽかんと口を開けて彼の方を見ている。
主殿はこう見えて……いや、素朴な人柄故か、我々をはじめ、様々な種族に好かれている。それは主殿に仕えるペコペコとして実に誇らしい。くちばしも高々である。
故に、普通よりもショックだったのであろう。
が、すぐに笑みを取り戻す。立ち直りの早さも主殿の良いところなのだ。
「ごめんごめん。知らない人間に触られるのは嫌だよね」
我々ペコペコにもこうして隔てなく話しかけ、気遣ってくれる。こんな人間はなかなかいない。……というよりも、ここまで的確に我々の気持ちを汲める人間が、そうはいないのだ。
そんな主殿の言葉にもかのペコペコは鳴き声も返さない。ふいと顔を背けたままでいる。主殿は怒るでもなく、ただ心配そうにしている。何とはなしの事情を察したのだろう。
「行くところがないなら、俺たちと一緒に来ないか?」
ああ、それは良い案です、主殿。
出来れば我輩も、そう出来ればと思っていました。
主殿の寵愛が他のペコペコにも向かうのは我輩、少し寂しいですが、我慢します。
しかしながら彼は沈黙したままである。
「そっか……、ここの方が良いのか……」
主殿もいつになく沈痛な面持ちをして立ち尽くす。主殿は基本的にいつも笑顔なため、これは非常に珍しい表情といえよう。
茂みの向こうからプリースト殿の声がする。
主殿は少し迷ってから、我輩の手綱を取る。我輩はゆっくりと足を踏み出す。一度だけ、彼の方を振り向いた。彼はまたじっと、主の墓を見つめていた。
夕闇の中でも彼の羽の色は鮮やかで、その色彩は我輩の心に深く刻み込まれたのである。
* * *
翌日も我輩は、主殿に伴って狩りに出かけた。
騎士ペコたるもの他のことを考えて主に迷惑をかけてはならない。
だというのに我輩の頭からはどうしても、あのペコペコの姿が離れないのであった。あるいは我輩が主殿と死別することを連想してしまう所為かもしれない。あるいは、単に同族が悲しんでいるのを見過ごすのが嫌なだけかもしれない。
「フロックス? 疲れてるのかな……」
主殿にこうして声をかけらるのはもう五回目である。疲れているわけではないのだが、どうしても意識が逸れてしまうのだ。我輩がこうして主殿といる間、あのペコペコは一羽きりでいるのだろうか。そんなことを、考えてしまう。
今日はもう戻ろうか。主殿が呟くのを聞いて、我輩は申し訳なさに項垂れた。きちんと勤めを果たせないなど、騎士ペコにあるまじきことだ。というのは抜きにしても、主殿のお役に立てないのは我輩の恥である。ここでひとつ名誉挽回したいところであるが、こうも集中出来ないのではそれも主張しがたい。
「今日はゆっくり休もうね」
主殿は優しく言ってくれる。我輩はますますくちばしを下げて反省するのである。こうも行きずりのペコペコが気になるようになるなど、誰も予想出来ないではないか。それも発情期のメスではなく、オスのペコペコになど。
こうして今日はあまり芳しい成果をあげることが出来なかった。
ペコペコの小屋で我輩は餌をついばみながら、知らずの内に溜息をついていた。今頃、あのペコペコは何か食べているだろうか。夜露に濡れていやしないか。
気になって仕方がない。
このような気持ちのままでは主殿に迷惑がかかろう。
その要素を取り除くのも、騎士ペコの務めである。
……そう己に言い訳をして我輩は立ち上がる。
扉をくちばしで開けて(我輩は意外と器用なのである。やらないだけだ)、納屋の外へ出る。ぽつりぽつりと灯りのともった宿舎の窓が、少し寂しい。
夜の濃い闇の中では、我々ペコペコは少々歩きづらい。が、今はそんなことを言ってはいられない。夜の道でも主と共に歩けるようにと訓練されているのである。
普段と同じ道だとは思えない。この道がどこへ続いていくのか、それさえもわからなくなりそうで、我輩はぶるりと羽毛を震わせる。
暗い空を仰げばそこには青白い満月がぽつりと浮かんでいた。少し、眩しかった。星は見えない。夜空を見上げる機会は我々には少ない故、多少の面白味があった。
時折、街灯や壁にぶつかりはしたが、我輩は街の外へ出ることに成功した。人間に見られることがなかったのは幸いだ。我々騎士ペコが一羽きりで歩いているのを見つかったら、すぐに騎士団へ連絡されてしまう。それだけは避けたい。
蛇行しながら、どれだけ進んだだろう。
ようやく遠くに水音が聞こえてきた。
それと同時に微かに感じる、同族の気配。
茂みをかきわけていくと、昨日と同じようにそこに蹲るペコペコがいた。
『やあ』
『……また貴方ですか』
『まだ、ここにいるつもりか』
『言ったはずです。他に行く場所はないと。放っておいてください』
身じろぐこともせず冷たい鳴き声だけが返ってくる。
しかし我輩はこれくらいでめげるほど根性無しではない。主殿にお仕えするため、その障害になるものは何でも取り除くのである。決してムキになっているわけではない。ないのである。
彼の隣へ座ってみた。
顔を背けたきり、彼は動かない。もしかしたらもう立ち上がるだけの元気もないのかもしれない。何とも嫌な想像である。我輩はまた羽毛を逆立てた。
『餌を、食べていないのであろう』
『食べても仕方がありませんから』
『我輩がとってやろう』
『結構です』
『こう見えても我輩はミミズとり名人と呼ばれたペコペコだ』
任せておけと首をもたげて請け負ってみせる。彼は興味もなさそうに顔を背けている。空回りが少し寂しくもあるが、まあ、それは気にしないでおく。我輩は立ち直りが早いのである。
早速、足元の土をくちばしでつつく。暗くてよく見えない。勘だけが頼りだ。いつもならすぐ見つかるミミズが、なかなか見つからない。我輩は少し焦る。
元来、失せ物というものは、なかなか見つからないように出来ているようだ。我輩はいつになく苦戦を強いられた。しかし天は我輩を見捨ててはいなかった。我輩のくちばしの先がついに丸々と太ったミミズを捕らえたのである!
誇らしさに胸を張りながらくちばしを高く掲げて見せる。彼はじっと我輩のくちばしへ視線を注ぎ、数秒の後に我輩の顔へ向け、最後には地面へと伏せた。
虫の声だけが聞こえる。秋の頃ではないが、なかなかに食欲をそそる鳴き方である。しかしながら我輩は虫を探しに行ったりはしない。彼にこのミミズを渡すことこそが優先事項である。我輩は我慢強い。日頃の訓練の賜物といえよう。
さて、彼は不意にくちばしを浅く開いた。くちばしの先は下へ向けたまま、ゆるゆると首を振る。人間でいうところの「笑う」という仕草である。
『我輩は何もおかしなことなどしていないはずだ』
『ああ……、貴方があまりに得意そうにするものだから……』
『ミミズを見つけるのは我輩の特技なのだ』
『特技……』
彼の特別黒く見える瞳が我輩を凝視し、それからまた、顔が俯く。くちばしの先を胸元の羽毛へ埋め、片足で真下の土や草をひっかいている。そこまでおかしいのだろうか。さすがの我輩も、いささかムっとしてしまうのを止められない。
『ミミズを見つけるなんて、野生のペコペコなら誰でもしていることですから』
『騎士団では……』
『騎士団のペコペコだったから、特技になったのでしょうね』
『…………』
そう言われては我輩、黙るしかない。
少しばかり恥ずかしいというのも、ある。
餌を与えられることに慣れすぎていて、生まれたときからそれが当然で、我輩は野生のペコペコの生活を失念していたのである。人間のペットになるペコペコも、元々は野生のもの。つまり、彼もそうした生活をしてきたわけだ。
恥じ入った我輩は足元の草をくちばしでグイグイ引っ張って、気まずさを誤魔化そうとする。なかなか上手くいかない。つまりは、我輩が己のあやまちをはっきりと自覚しているからである。
『……せっかく採ってくれたのだから、頂きますよ』
虫の音も止んだ頃、ぽつりと彼が鳴き声を漏らす。我輩は驚いて顔を上げる。ちょっとぐったりし出したミミズが揺れた。
『同族の恩を無碍にするのはペコペコ道にもとりますから』
我輩の反応に、念を押すように彼が弱く鳴く。
あるいは、自分の行動を言い訳するようにも。
我輩は嬉しい反面、妙に寂しくなる。仲間を、同族を大切にするのは我々にとって当たり前のことである。だから我輩は彼のことをこんなにも気にしているはずだし、だから彼も(渋々であろうが)ミミズを受け取ろうとしている。
なのに、何故だか、妙に悲しい。
けれど、それが何故かわからない。
わからないまま我輩はくちばしを彼の方へ向ける。
彼もまたくちばしをそっとこちらへ向ける。
親が子へ餌を与えるときのようにそっと、我輩は彼のくちばしへと餌を落とす。彼は黙ったままそれを飲み込む。それきり我々は黙りこくる。
いつからかまた、虫が鳴き出した。けれども、もう、食欲はわかない。ずっと昔、我輩がまだ雛と呼ばれてもさしつかえないくらいの頃、ブリーダーにこっぴどく叱られたときのように、食欲がなくなった。彼の悲しみがうつったのかもしれない。
『……雨か』
くちばしの付け根へぽつんと落ちてきた冷たい雫に鳴き声を漏らす。彼はうずくまったまま動かない。我輩は立ち上がり、彼の上で羽を広げてやる。彼は首をもたげ、我輩の羽を払いのける。
我輩は二歩後ろへ下がってから羽を畳む。打たれた羽の痛みより、拒絶された痛みの方が強かった。
『もう、戻ったらどうです』
『雨が……』
『戻ってください。貴方には、ご主人様がまだいるのでしょう』
主を大切にせずに騎士ペコが務まるのか。そう、冷たく突き放される。
我輩は黙ってまた俯く。彼の言うことの方が正しいのだ。
わかっている。
我輩はただ引き返せなくなっているだけなのかもしれない。
『それに』
黒い空を見上げながら彼が薄くくちばしを開く。我々の上に降る雨は次第に強くなってきている。自慢の羽毛はまだ雨粒を弾いているが、それもいつまでもつかわからない。
そう、出来ることなら小屋へ戻って、雨が上がるまで、主殿のことを考えながらぬくぬくと過ごすのが一番良いのだ。我輩は何故それをしないのだ。
我輩の内心など勿論知るはずもなく、彼はぽつんと呟く。
『……万が一にも私の幸せを願っているのなら、このまま放っておいてください』
『しあわせ……』
『貴方になら、わかるでしょう』
『ああ……、……』
我輩はもはや意味のなさない嘆きを漏らすことしか出来なかった。もはや何ひとつ、言えることはなかった。我輩は彼を理解してしまった。いや、最初から理解していたことを認めたくなかっただけかもしれない。どちらにしても、もはや同じことである。
我輩は項垂れながらその場から立ち去った。
よろよろと、雨に濡れて悪くなった道を、行き以上に苦戦しながら帰った。とぼとぼ、という形容が実にふさわしい。自分でも驚くほどである。……そんなくだらないことを考えていなければいられないほど、我輩は消沈していた。
誰にも気づかれることなく我輩は小屋の、自分の仕切りの中へ戻った。元通りに扉を戻すことも忘れない。寝床として入れてもらったワラに埋もれて我輩はくちばしを下げる。
屋根を打つ激しい雨音だけがいつまでも続いていた。
* * *
夜が明けても雨は降っていた。
主殿は雨の中、傘もささずに我輩のところへやってきて、「今日は出かけるのを止めようね」と言って、いつも以上に我輩の世話を丁寧にしてくれた。それはとても嬉しい。しかしながら我輩は、今ははしゃぐ気分ではなく、主殿の手に僅かばかりの頬ずりを返すに留めた。
主殿の心配そうな顔を申し訳なく思いながらも、それ以上のフォローが出来ずにいる。そんな我輩が情けない。しかし、止めようもない。
「ゆっくり休むんだよ。嵐が来ているみたいだけど、心配しなくて、大丈夫。この小屋は絶対に壊れないからね。食事もちゃんと、時間通りにとれるようにするから」
何度も我輩の首筋を撫でながら主殿はいたわりの言葉を下さる。それだけで、いつもなら、たとえ病気をしていたとしてもすぐに回復してしまうくらい元気になれる。なのに、今は……。
雨の中で一羽いるだろう彼のことが気にかかる。
もう、気にしても仕方がないのに……。
雨があがったのは四日後のことだった。
主殿はその間ずっと狩りを休んで、相方のプリースト殿と過ごしていたらしい。途中からは我輩のところへ毎回、どれだけ遅い時間にも必ず二人で来ていたから、たぶんそうなのであろう。会話の端々からも、そんな言葉が聞こえていた。
そういうわけで、主殿は雨上がりもとてもご機嫌だった。
さっそく狩りへ行こうか、と我輩のところへ主殿がやって来る。我輩は勿論、と一声大きく鳴く。主殿はまた心配顔になる。我輩は、そんなにわかりやすい態度をしているだろうか。こうしたとき、主殿のペコペコの心をわかってしまう人柄というか、そうしたところは、少し困る。
「リハビリも兼ねて、少しだけ、散歩に行こうか」
我輩がまだ消沈しているのを汲んでか、主殿が明るく言う。我輩はクエ、と短く鳴いてみせる。地面へ僅かにかがんで主殿が背に乗りやすいように構える。主殿は、そんな気遣いの必要性を感じさせないくらい軽やかに我輩の背へ乗る。
ぐっと、背へ重みがかかる。この瞬間が、我輩は一番好きかもしれない。大切なものの重みを直に感じられるのだから。騎士ペコやクルセペコだけに許された特権である。
雨上がりの濃い匂いを胸いっぱいに吸いながら我輩は走り出す。
「今日はフロックスの好きなところへ行って良いよ」
主殿のお言葉に甘えて、我輩の足は例の、彼のいた水辺へ向かう。主殿は制止しない。この心遣いが、騎士ペコの我輩などには申し訳ないほどにもったいなくて、我輩は少しばかり胸のつまりを感じた。
曲がり角をいくつか過ぎていく内にやがて、きちんと踏みならされた道はなくなっていく。代わりに、僅かに人の歩いたような跡が薄っすらと続いている。
眩しい日差しの下で、雨粒に輝く樹があった。
我輩は一瞬、平衡感覚を失いかけ、慌てて踏ん張る。主殿を地面へ振り落とすわけにはいかない。それだけは、何があっても絶対に避けたい。
緑の影の下には白い墓石がぽつりと、あの日と同じようにある。
その前には数枚の、鮮やかなオレンジの――
「あのペコペコ、いなくなってしまったね……」
主殿の声が遠く聞こえる。
我輩はくちばしの先で一枚、彼のものであろう羽を拾い上げる。雨に打たれたおかげか汚れがとれていて、とても美しかった。もしかしたらそれは、我輩の羽よりも。
彼は、我輩が最後に会ったときでさえ、かなり弱っていた。だから、つまり、そういうことなのだろう。この辺りには、あまり人は来ないようである故、無理に連れて帰ろうとする人もいないはずだ。
そう。
我輩はとりたてて、死が悲しいなどとは思わない。
生きるものはすべて、いつか必ず死ぬのである。
当たり前のことなのだから、悲しいはずがない。
だから、おそらく、これは……
彼がいなくなったことが、悲しいのであろう。
あるいは、安心したのかもしれない。
彼が、最も愛する主の元へ行けたことが。
彼がもう、一羽きり、待たずに済むことが。
そう。
我輩は、知っている。
一度主をもったペコペコは、その主を失うことほど辛いことはない。
主を失ったペコペコの一番の幸せは、主の後を追うことである。
我輩も、考えたくはないが、主殿を失えば間違いなく彼と同じ道を選ぶだろう。
そう。
だけれども――
「あ。フロックス、見てごらん。虹だよ……随分はっきりしてるね、珍しい……」
主殿に言われて我輩も空を見上げる。
悲しいほど美しい虹であった。
彼も今頃、彼の主と共にこの虹を見ているであろうか。
それとも、あの虹の向こうにいるのであろうか。
どちらでも構わない。
彼はもう、主に会えない苦しみから解き放たれたのだから。
そう、
だけれども、
もしも我輩の願いがひとつ叶うのならば、
この晴れ渡る空にかかる虹を、彼と並んで見たかった。
我輩は、虹が消えるまでの短い時間、主殿のことを忘れていた。
end
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