桜吹雪
「薄紅の花弁が舞い散る様は、永遠のよう……」
一人のバードが歌うように何度もくりかえしては、そこで行き詰る。言葉の続きが思い浮かばないのか、光景を思い出しては感じ入っているのか。先刻からそれを繰り返すバードに、うんざりしたように溜息をつく男が一人。
プロンテラの細い路地の合間に無理に建てたような、小さな安宿の一室。その隅にひとつ置かれたベッドを占領している。いかにも学者然とした痩身は、今は寝巻きに包まれている。読み止しの本を閉じて膝の上に置く。
「お前が売れないバードだって理由がよくわかった。それに、第一、桜は儚さの象徴だと言われているそうじゃないか」
「そうは言うけどな」
指摘に頬を膨らませてバードはそっぽを向く。狭い室内をしきりに歩き回っていた足で、寝台に近付く。病魔の臭いがぷんと鼻につく。それに何も言わないのは優しさか、臆病か、それともただの慣れと諦めか。セージの体に合わせて緩い起伏を作る上掛けだけが奇妙なほど色鮮やかだ。
ベッドの端にバードが腰を下ろす。
「お前、桜の下に行ってみろよ。一枚一枚の花弁は目の前からすぐ去ってしまうのに、桜の花はずっと目の前を流れ続けてるんだ。いつまで経っても、次から次へ、終わりないみたいに」
「……いつかは終るさ」
「終ったら、また翌年咲いて……同じことをくりかえす。決して終わりはこないんだ。終ったって」
目を輝かせて語るバードに、セージは呆れ顔で髪をかきあげる。そのまま何も言わず、側の窓へ顔を向けた。冬特有の澄み切った光がセージの横顔に当たり、青白い肌に淡い紅を浮き上がらせる。
このセージは横顔が特に美しいと、バードは常から思う。遠くを見つめるような、同じ場所に立つバードには見えないものを見つめているような、切れ長の瞳。深海の色を写したそれを彩るのは、愁いと諦め。それを隠そうとするかのように、細い髪が額を覆う。間から見える白が艶かしい。
「桜は、永遠だよ」
「お前だけがそう思っていたって、伝わらない」
「君一人に伝われば、それで良いんだ」
「俺にも伝わっていない。……桜は、儚いよ」
「冬が明けて、あたたかくなったら一緒にアマツへ行こう。あそこの桜は、本当に綺麗だから」
バードに横顔を見せたまま、セージの白い指先が本の表紙を辿る。タイトルを冠していた箔押しは古びて剥がれ落ち、溝が虚しく残るばかり。早くに亡くなった彼の父親が残した本だという。父親もまた、セージだった。
不意に日がかげる。バードが立ち上がり、細く開けていた窓を閉める。微かに聞こえていた外界のざわめきがぴたりと止んだ。それを合図のようにセージは、起こしていた半身を再び敷布へ沈める。
「もうすぐ日が暮れる」
「また、酒場へ?」
「うん。歌を作るのは下手でも、歌うのは結構上手いんだ。こう見えても」
胸を張るバードを見上げ、セージは苦笑を口の端へ浮かべる。それからまた視線を窓へ向けた。冷たい風の名残を辿ろうとするようにゆっくりと。
浮かしかけた腰をベッドへ落ち着け、バードは手を伸ばす。少し乱れたセージの髪を指先で梳く。指の間に感じる僅かな抵抗が、胸を締め付ける。
「でも、今日は随分寒そうだから……行くの、止めよう」
「酒場の客を捉まえて、あたためてもらって来たらどうだ」
「酒の臭いは、好きじゃないんだ」
「薬臭い奴の側にいるよりは良いだろう」
「君の匂いは好きだよ……君の匂いが好きなんだ」
口にして感じるのは、長い台詞を一息で言った後のような喉の苦しさ。それが切なさなのか愛しさなのか、罪悪感なのか、バードにはわからない。わからないまま、好きだよ、とくりかえす。応えはない。
視線を向ければ目を瞑ったセージの顔がある。疲れ果てたような蒼白の顔に、雲間から差す光が零れて紅を散らす。ちらちら光が揺れて影がさわめく様は、花の舞い散るよう。少し乾いて白っぽくなった唇は、褪せてなお咲き誇る老齢の桜花のようだ。まだ彼は歳若いのに、とバードが目を細める。
時がセージの上に降り積もり、彼をその内へ閉じ込めようとしている。そんな幻影にバードは笑みを零す。鏡はなくとも、泣き笑いめいた顔をしているのだろうと想像がつく。
膝から滑り落ちた本が目に入る。拾い上げてみれば、古びた紙に掠れるインクで書き留められた細かな文字が続いている。見慣れない筆跡の合間に、よく見慣れた繊細な文字が書き込まれている。声なき父と子の対話がそこにあった。
そっと、本を枕元へ置いてやる。昏々と眠るセージの上に、淡く色づいた花弁が降り積もっていくのを、バードは確かに見た。冷たく白い額に、整った鼻梁に、ひび割れた朱の唇に、滑らかな首に、密やかな鎖骨の合間に。薄紅がちらつく。
頬に朱が差している。それが光の悪戯によるものだとしても、そこには確かに桜が宿っている。
桜は儚い、と断じるセージの声。
永遠なのだ、と反論する己の声。
どちらが本当なのか、一瞬惑う。
唇を噛み締めて視線を伏せる。永遠なのだとくりかえしながら、頬に触れる。指先からはざらついた熱が伝わってくる。なのに心には、冷たい、と印象が残る。
そっと、積もる花びらを払いのけるように指で触れる。額に、鼻に、唇に、首に、鎖骨に……。やせ細った胸へ指先を伝わせ、そこから先へは進めなくなる。病魔に侵される体を知るのが怖いから。触れる毎に彼の命を奪っていく気がして怖いから。何より――寝ていてなお辛そうな彼にも、欲情してしまいそうだったから。
「好きだよ」
口の中でくりかえす言葉が虚しく落ちる。セージは身じろぎひとつしない。呼吸しているのか不安になって顔を近づける。密やかな寝息が耳に届く。己の熱を分け与えるように口付けた。
冷たいぬくもりだけが胸に残る。
くりかえす度に冷たさが増す。
己が零した涙もまた冷たかった。
セージの身に宿る冷たさを全て、この身に引き受けられれば良いのにと願いを込めて、また唇を落とす。虚しさだけがまた胸に積もる。
好きなのに。
舌の上で転がした言葉が苦い。吐き出すことも呑み込むことも出来ず、代わりにまた涙が落ちる。好きなのに、何故、何もしてやれないのか。笑わせてやることひとつ出来ない。
打ちひしがれるバードの上に、眠り続けるセージの上に、古びた本の上に、病の染み付いたシーツの上に、ただ幻の花びらだけが降り積もっていく。
その花びらが示すのは、儚さか、永遠か。
答えを探せないまま夜が訪れる――
end
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