呪縛
テロが起きてから一夜が明けた。
昨夜は地獄かとも思われた大聖堂の広間にも、透明の光が惜しみなく注がれる。その明るさに励まされてか、怪我人たちの表情も少し明るい。その合間を回って朝食の世話をするアコライトや、治療の続きを行っていくプリーストたちの姿がある。
カインもまた怪我人を癒すべく列を回っていた。顔色は普段の健康的な白さとは異なり、蒼白だった。みっつ年上のプリーストに帰って休めと再三注意されたが、それを押し切って広間へ出た。怪我人を癒すための人手が少しでも必要だと、彼に説いた言葉も本当のものではあった。
弱々しく感謝の言葉を呟く老婦人の側に膝をつき、祈りの言葉を捧げる。モンスターに無残に引き裂かれた傷が少しずつ塞がっていく。冒険者ならいざしらず、普通に暮らす人々には、急激な傷の回復は負担になる。だから時間をおいて段階を踏んで、治療を重ねていく。
「貴女に、神のご加護があるように……」
立ち上がりながら呟くように祈りを落とす。老婦人が目を細めて笑みを浮かべ、何度も礼をくりかえす。それに軽い会釈を向け、隣へ。視線を伏せたままでいるのは相手の顔を見るためではなく、何かから視線を逸らすため。廊下へ続く扉に近付く度に体が強張っていくのをカインは感じていた。
帰らなかったのではなく、帰れなかった。
ローグが姿を消した後は血を吐く思いで、陵辱の後始末を一人でした。泣きながら枝を一本ずつ取り出し、傷を癒やした。こんな汚れた姿で広間へ行きたくはなかった。それでも、外へ出るのが恐ろしかった。何を考える余裕もなく、玄関から一番遠い部屋――司祭たちに開放されている控え室のソファを借りて一夜を明かした。
眠りは訪れず、ただ吐き気だけが定期的にやってきた。
寒さを感じていないのに体の震えが止まらなかった。隅に積んであった毛布を一枚借りて、肩からかけて蹲った。
闇が恐ろしくて灯りを消せなかった。
灯りに映し出される己の姿が嫌で堪らなくて、目を閉じた。目を閉じると今度はローグの視線を感じた。黒い瞳に捉えられる感覚に短い悲鳴をあげ、己の声でようやく我にかえる。
不意に目眩のように気を失っては、悪夢にうなされて数分で目を覚ます。目が覚めたところで悪夢の中にいる心地は変らない。
気の狂いそうになる長い、永遠に続くのではと思うほどの時間の後で朝が来た。息を切らせて駆けつけた馴染みのプリーストに顔色の悪さを指摘されたが、大丈夫だの一点張りで聖堂に居残った。
帰れと言われても、帰れなかったのだ。控え室を出て行けるのは、今は怪我人たちの治療にあたるために使われている、大広間まで。玄関まで続く廊下への扉に近付くことを考えただけで体が震える。心の隅に浮かべただけで涙が零れそうになる。
けれど、そんなことを他人に言えるはずもない。ただ曖昧な笑みを浮かべて残ると言い張るカインを、先輩にあたるプリーストは怪訝そうに見つめていた。
数人の治療を続け、疲労感と吐き気を堪えるように胸元へ手をやる。慣れ親しんだロザリオの確かな感覚が、今はそこにない。指先に触れるのは、布地越しの己の体温のみ。それを奪っていった手の存外高い体温を思い出して、身震いした。
不意に途絶えたヒールに、横たわった少年がきょとんとして見上げてくる。黒い髪と、黒い瞳。子どもらしい瑞々しさに溢れた色彩なのに、あのローグを思い起こさせる。目の前の少年はカインを心底心配そうに見つめているのに、そこにはローグのいやらしい笑みが重なる。
「司祭さま、怪我なさってるの?」
少年の幼い声が問う。幻影が消える。霧散したそれは風に乗って消えることはなく、カインの身を包む。それに乗じてローグが潜んでいるような錯覚が苦しい。
「具合、悪そう……」
「いいえ。大丈夫――心配をかけてしまったのなら、申し訳ありません。治療を続けましょう」
薄青の瞳に笑みを乗せて優しく言う。少年はまだ不安そうにしている。ちゃんと笑えているだろうかとカインを不安が苛む。幼い者は人の心に敏感に反応する。少年の大きな瞳がカインの不安を映しこんで瞬いている。
包帯を巻かれた少年の額を撫でてやりながら、昨夜から幾度も口にした癒やしを願う祈りを口の中で呟く。淡い白い光がカインの右手を包む。
穢れに染まらぬようにと作られた黒の法衣。けれど、それに包まれたカインの身は穢れた。頭では、穢れていないのだとわかっていても、心がそれを拒絶する。己の中の汚い欲望に負けた。不条理な力に屈した。あのローグの言葉に従った。そんな自分が穢れていないはずがないと、責める声が聞こえる。
己の祈りの声がぼんやりと聞こえる。少年は、傷が癒やされ痛みが引いていく心地良さに目を細めている。やがて寝息を立て始めた。それを確認してからカインは再び立ち上がる。
庇う声と、責める声。相反する声がカインの中で響きあい、増幅され、目眩をもたらす。足下が覚束なくてふらつくと、大きな手が細い肩を抱きとめる。喉の奥で跳ねる悲鳴を懸命に押し殺す。
「大丈夫か?」
頭上から降ってくるのは、穏やかで心配そうな声。身を強張らせたまま恐る恐る視線を上げる。その先には一人のプリーストの姿があった。簡単に後ろへ撫でつけた明るい金髪と、心配に厳しくなるライトブラウンの瞳。朝方、久しぶりに顔を合わせてからずっとカインに休め、と忠告をくれる彼は、カインの先輩にあたるプリーストだ。名を、ヴァレリオという。
「随分、顔色が悪い」
「すみません。大丈夫ですから、手を……」
「怪我でもしたか?」
手を離してくれと頼むカインに、ヴァレリオが首を傾げる。その素朴さにカインの体から僅かに力が抜けた。
「いえ。……同じことを聞くのですね」
「お前の様子が変だったから」
肩から離した手で、違ったのかと照れたように頭をかく。カインを気遣わせないようにとさり気なく外された手が優しい。
たったみっつしか違わないのに、いつでもヴァレリオはカインを弟のように気にかけてくれている。その自然さに、それが当たり前のことだと錯覚してしまいそうなほどだ。
「どちらにしろ、お前は一度休憩だ」
「私はまだ平気です」
「看病しないといけない奴が増えたら、俺たちにも、ここに来ている人たちにも迷惑がかかるんだぞ。自分の体調は、自分で管理しろ。自分がどれだけ顔色が悪いか、わかっているのか?」
ヴァレリオの説教はいつも、幼子に諭すように穏やかだ。変らない様子にカインは小さく身を竦める。こんな不器用な労わりの言葉にさえ、ローグの声が重なって聞こえる。
自分で汚したものは自分で綺麗にしろ、と投げつけられた冷たい声。ヴァレリオの柔らかい声とは似ても似つかないものだというのに。
「行くぞ」
ヴァレリオの手がカインの手を取り、そのまま強引に歩き出す。引きずられるようにして向かった先は、カインが震えながら一夜を過ごした控え室だった。
小さなローテーブルがひとつと、それを挟むようにして古びたソファがふたつ。大聖堂を訪ねて来た人々のために用意された細やかな品々が壁際に積まれている。他には簡単なお茶の用意をするためのスペースがある程度。
お茶の仕度なら自分が、と言うカインを椅子に座らせ、ヴァレリオがポットに茶葉を入れる。柔らかい光の中で鼻歌交じりに薬缶を持つ姿は、大柄ながらも柔和で、いかにも優しそうな印象を与えている。そんな彼を見ながらカインは手袋を外す。
ほどなくして狭い室内に紅茶の良い香りが漂いだす。ヴァレリオは白く飾り気のない陶器のティーセットを二組並べ、交互に茶を注いでいく。
「疲れてるときは、甘いものが良いって言うからな」
そう言うとヴァレリオは、いるか、とカインに尋ねることもせずに角砂糖をふたつ紅茶の中に沈める。茶色に染まった砂糖がすぐに溶けて拡散した。朝食にと出した残りのミルクをその中に注いで、カインの前に出す。
ひたすらにカインを心配する純粋な気持ちが、挙動の端々から伝わってくる。昨夜から張り詰めていた心が僅かにだけ、和らいでいくのをカインは感じていた。
「そういば、今度のテロの犯人」
「っ……」
自分用の紅茶にはミルクだけを加えがながらヴァレリオが切り出す。カインは小さく息を呑む。平静を装おうとしているのに、上手くいかない。手にしたカップが小さく震える。
「捕まり……ましたか……?」
掠れた声で問う。正面に腰を下ろしたヴァレリオがぎょっとしたような顔になる。よほど顔色が悪いのだろうと、先ほどの口ぶりからぼんやり思い出す。
「いや、捕まってはいない……どころか、足取りもつかめていないらしい。ただ、どこの誰かってことだけは、わかったみたいだ」
蒼白になった顔を見てもヴァレリオは何も言わない。尋ねれば、今よりも無理をして平気であることを示そうとするだろうから。
言葉で気遣う代わりに、甘いクッキーを一枚、カインのソーサーに添えてやる。カインは唇をきつく結んだまま目礼をする。けれど、手は伸ばさない。胃がずっとむかついている。固形物を口に入れることを想像するだけで、吐くもののなくなった胃から何か逆流してきそうだった。
「名は、何と……」
「伊吹。名前だけ見ると、アマツの出身みたいだな。……テロの犯人には、嫌な名だ」
温厚なプリーストにしては珍しく、吐き捨てるように言う。いつもならカインの冷たい感想を聞いて、宥める側に回るのがヴァレリオだった。
カインはただ黙っている。悔しさが心の内を占める。あのローグ――伊吹は、カインを人殺しの名と言った。実際に人を幾人も殺めたであろう本人の名は、あろうことか、伊吹。
神の祝福を一身に受けるようにと願ったか、神の祝福を他人に分け与える者になれと願ったか、そんな親の気持ちの篭った名前。
それを踏みにじる、彼の振る舞い。
許せない、と心の内に苦い思いが湧き上がる。
「無銘、という名のギルドに所属しているらしいが、こちらはまだ確定段階ではないそうだ。攻城戦には毎週出ているようだから、そこで確認出来るかもしれないという話だが」
聞いた情報を整理しながら言うヴァレリオの声が遠く聞こえる。心臓が早鐘のように響く。それでいて体中が凍りついたように冷たい。
不意に胸が熱くなる。
「おい、カイン!」
「……え」
慌しく名を呼ぶ声に我にかえる。右手が軽い。さっきまで、あんなに重く感じていたというのに。視線を落とすと、ミルクティが己の胸に零れて染みを作っていた。
「早くカップを置け」
立ち上がり、ローテーブル越しにヴァレリオの手が伸びる。カップを持ったままの手をそっと握り、そのままテーブルまで導く。
小さな音を立ててカップがカインの指を離れる。
「あ……。せっかく、淹れて頂いたものを」
「そんなことは良いから……火傷はしていないか?」
「熱……」
火傷、と聞いて胸元が熱いばかりでなく、僅かな痛みをもっていることにようやく気付く。放っておけば数日は痛むことになりそうな気配だ。
テーブルを回り込んでヴァレリオが隣に立つ。長身の彼だが伊吹よりも少し低い、と知らずの内に目測した。伊吹を基準にして考えた己に吐き気を催す。
「ほら、見せてみろ」
ヴァレリオが手を伸ばし、カインの首元へ触れる。襟は上まできっちりと留められている。外そうとする指をカインは反射的に打ち据えていた。瞳に浮かぶのは、見間違えようのない恐れの色。
「カイン……?」
決して人に触れたがったり触れられたがったりする性質ではなかったが、かといって触れられることに嫌悪を示すこともなかったと、ヴァレリオは不思議そうに首を傾げる。それにも気付かずカインは、彼の目から隠すように指で襟を掻き抱く。指の合間に濡れた布を感じる。指が濡れるのは気持ち悪い。湿った音が耳につく。
またヴァレリオが名前を呼ぶ。返事をしようにも凍りついたように声が出ない。昨夜の精液がまだ、喉を塞いでいるのだろうか。
厚手の布地の下に十字架がない。首からかけることを許されるよりずっと前から、あのロザリオにずっと支えられてきたというのに。どこへ行ってしまったのだろう。あれがなくては心が落ち着かない。自分でいられない。
身に着けていたものに己の中の何かを重ねて、カインは唇を噛む。重ねているものが何なのか、重ねていることにすら気付かないカインにはわからない。えもいわれぬ喪失感だけが身を包む。
「昨日……何かあったのか?」
「なに、何も……」
どもりながらもようやく唇から洩れたのは掠れた声。細い指で襟を掻く様は必死で、ヴァレリオもそれ以上は何も問えなくなる。白い指が力の入れすぎで震えている。それでいて、無理にすれば容易に引き剥がせてしまいそうなか細さがあった。
ヴァレリオの手が躊躇いがちにカインの頭を撫でる。もう良いから、と無言のまま伝わるような優しい動きだ。伊吹の触れ方とは違う。違うのに体は意に反して強張る。そのまま髪を掴まれて壁に押さえつけられるのでは、地面へ引き倒されるのではと身構えてしまう。
「何があったかは、まあ、聞かない。カインが話したいと思うときが来たら、勿論聞く。友人としてでも良いし、一人のプリーストとしてでも良い」
だから怯えなくて良いと言外に潜ませて、ヴァレリオは身を起こす。カインの前に置かれたカップを手に流しへ行き、僅かに残っていた茶を捨てる。
再びカインの前にカップを置き、新しく紅茶を注ぐ。カップに残っていたミルクが混じり、先のように澄んだ色は見えない。濁りをもった紅茶。そこから立ち上る湯気がカインの頬をくすぐる。
「俺は先に戻ってる。お前は最低でも夕方……夕食が終るまでは、ここで休んでいろ。治療や世話に出てくるのは禁止だ」
早口に告げてヴァレリオはそのまま広間へ戻っていく。カインの青白い顔に伝った涙を見て見ぬふりをした。精一杯の気遣いだった。それが本当に正しいのかと、広い胸に抱いていたのを、カインは知る由もない。
残されたのはカインと、その前に置かれた、薄く霞がかったように白く濁った紅茶だけ。濁りを隠すようにとカインはミルクを更に注ぐ。白く染まり交じり合っていく紅茶は汚れて見えない。けれど、澄んだ色も失っている。
座っているだけで、体の奥に枝の節ばった硬さが蘇る。それを一本ずつ引き抜く度、一本ずつ心を棘が貫いていくようだった。全身を舐めまわす伊吹の視線は、本人がいなくとも確実にカインを捉えている。
白く染まった紅茶の表面に雫が落ちる。ひとつ、ふたつと輪を描き、端へ行く前に消える。鋭い痛みが胸を刺すのに、その内は虚ろだった。それでいて身を焼くような苦しみがある。
きつく結んだ唇の合間から嗚咽が洩れる。小さな扉の向こうから時折笑い声が聞こえてくる。ヴァレリオと、幾人かの怪我人たちが冗談を言い合っているらしい。カインが守りたかったのはこうした光景。それは確かに守られた。だというのにカインの胸は晴れない。
心の内では認めたくない想いが渦巻いている。言葉にして自身の汚いところを見たくない。見たくないのに、見えてしまう。眼前につきつけられているかのように、まざまざと細部までが、よく見える。
『何故、自分だけがこんな目に……』
小さな声が心の中に木霊する。昨日の夕方頃からやってきたプリーストに今日はもう休んでください、と言われたとき大人しく従わなかったのがいけなかったのか。それとも、あのまま倒れるまで看病を続けて広間から出なければ良かったのか。あの時、伊吹に声をかけなければ良かったのか。大人しく怪我を治療してやれば良かったのか。皆を見捨てれば良かったのか。
いくつもの問いが心に浮いては消える。どの言葉も虚しさしか残さない。胸がやける。居ても立ってもいられないのに、動くのが怖い。動くとまた何か嫌なことが起きそうでならない。視線ひとつ動かせない。四方を人の気配が取り囲んでいるようで息苦しい。人とは、こんなにも重圧を与えるものだったか。
襟から落ちるようにして離れた指が、ミルクティに濡れている。汚したら自分で綺麗にしろ。自分で汚したんだろう。耳の裏で伊吹の低い声が響く。震える舌先が己の指を舐める。舐めて綺麗にしなければならない。綺麗にしなければ仕置きするぞと声が聞こえる。舌先に感じるのは砂糖とミルクの甘味。なのに、耐え難いほど苦い。
は、と息をついてようやく指から唇が離れる。唾液に濡れた指の冷たさに我にかえる。布地が酷く重たい。
立ち上がり、布を水に浸して胸元を軽く叩くようにして拭く。上から拭くだけでは拭ききれず、仕方なしに首元を寛げる。白い肌が僅かに濡れたのを拭き、裏から布地を押さえる。白い布に紅茶が染みを作る。
『こちらの方が似合う』
意地の悪い声がまた笑う。身じろぐ度、普通につけるよりきつく締められた首輪が肌を擦る。一部は擦り切れて赤くなっていることだろう。鍵がかけてあるわけではない。手を縛められているわけでもない。己の手で外せば良いはずだ。
それなのにカインがいくら外せと己に命じても指は動かない。外そうと思うだけで心が凍る。あの黒い瞳が、外そうとするのを見咎めるようで、動けなくなる。
人の視線が動きを縛り付けるとは知らなかった。ただの一夜で世界がこうも変るものなのか。陽光の眩しさが怖い。その隙間で息づく闇が怖い。つい先日までとは全く違って見える世界が怖い。
身の置き所がわからない。こんなことは今までなかった。昨日までの己の感情が、心の動きが思い出せない。世界に膜がかかったように遠く感じるのに、些細なことで心が波立つ。いや、波立つ間もなく凍りつく。
服を着替えなければならない。普通に振舞っていないと気が狂いそうになる。けれど普通には振舞えない。ヴァレリオにも、他のアコライトやプリーストたちにも迷惑をかけている。しっかりしなくては、しっかりしなくてはと、そればかりが心の内でくりかえされる。
* * *
どれほどの時間が経っただろうか。不意に、広間へ通じる扉が開く。弾かれるように振り向くカインの視界に、少し疲労を滲ませたヴァレリオの姿が映る。襟をきっちり留めなおしておいて良かったと安堵するカイン。襟元を緩めながら溜息をついたヴァレリオは、小さく笑う。
「何だ、着替えてくれば良かったのに」
「少し……ぼんやりしていたようです。何から何までお任せしてしまって……申し訳ありません」
「気にするな。昨日は出払っていて手伝えなかったから、せめてもの詫びだ」
向かい側に再び腰を下ろすヴァレリオが、申し訳なさそうに笑みを浮かべている。緩めた首元にロザリーの銀の鎖が覗いている。夕陽にきらめく様が眩しい。今のカインにはない光。黒い想いが胸を過ぎる。形を捉えることも難しいほど束の間、顔を覗かせた想い。しかしそれは確実にカインの心に留まっている。
膝の上で白い指をきつく握る。この指を切り落としてしまいたい。
「詫びなど……」
「自己満足と言われれば、それまでだけどな……。でも自己満足と言うなら、それはカインも一緒だ。何でも一人で抱え込むな」
お前も大変だろう、と何気ない労わりが素直に受け取られない。本当は何もかも知っているのに、素知らぬふりで接しているのではないか。陰で言い広めているのではないか。そんな疑心が生まれる。
「ありがとうございます。ヴァレリオも、何かあれば私を呼んでください。微力ではありますが、助力しますから」
平静な声のまま言う、この舌を切り取りたい。穢れていくのが耐えられない。これ以上汚くなる前に命が尽きれば良い。
カインのソーサーに手付かずのまま残されたクッキーを指でつまみ、ヴァレリオが息をつく。よほど疲れているのだろう。笑いにも翳りがある。ヒールのかけすぎで、というわけでもなさそうだ。ヴァレリオのことだから、怪我をした人々の姿に、時々聞こえる呻き声に、泣き声に、心を痛めてのことだろう。カインには、そのようなことはなかった。
心が痛むわけでもないのに、何故、彼らを守りたいと思ったのだろう。
「カインに助太刀してもらえれば百人力……どころか、俺がいらなくなるかもな」
「ご冗談を」
二人の小さな笑い声が洩れる。平和な光景だ。平和すぎて作り事のように思える。心が弾まない。元からさほどはしゃぐことのないカインではあったが、今は全く心が動かない。
水の底に沈んで、水面上で行われていることを見つめているようだった。流れのない、淀んだ水底に一人きり身を横たえ、外敵の影に怯える。光が揺らめくだけで怖い。いっそ光がなくなれば。そう思う己の心が、恐ろしい。
「やっぱりまだ、顔色が悪いな……」
「怪我をした方々の気にあてられたのでしょう。もう少し休めば治ります。私などよりも、貴方の方が……」
「俺も、あてられたかな」
溜息をついてヴァレリオがクッキーを頬張る。少し厚めの唇が上下に動くのをカインは見つめる。もう少しこの唇から品がなくなり、幅広くなれば伊吹のそれに似る。
唇の端にクッキーの小さなかけらがひとつ、ついている。
舐め取れ、舐めて綺麗にしろ、と伊吹の低い声が幻聴のように響く。どこまでが本当で、どこまでが幻なのかわからない。己の全てが、伊吹によって作られたような気にさえなってくる。
伊吹なら、そのかけらを舐め取れと命じるだろう。従わなければ通りすがりの人間を幾人か殺してみようか、と楽しそうに言うだろう。
「早く、捕まると良いな」
「――え?」
「テロの犯人……伊吹とかいったか。これだけの死傷者を出したんだ。仕事や家をなくした人たちもいる。いくら冒険者とはいえ、捕まれば処分は軽くはないだろうな」
「ああ……。……そう、ですね……」
捕まれば良い。そうすれば伊吹の影に怯えることもなくなる。物陰から彼が見つめているのではないか、その角から不意に手が伸びるのではないか。そう思わなくても良くなる。
なのに、ヴァレリオの言葉を聞いて浮かんだ言葉はひとつ。
捕らえられたのは私だ、と。
それを嘲笑うようにまた、伊吹の低い囁きが耳の内で蘇る……。
end
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