silver rain
その日は夜明け前から雨が降っていた。
激しさのない、すべてのものをやさしく包み込むような雨だ。まさに天の恵み。窓ガラス越しにギルドハウスの庭を眺めながらエマイユは溜息を落とす。
緩くみつあみにした銀の髪が黒い法衣の背によく映える。窓にうつる憂い顔の頬を、指先で撫でてはまた、溜息をひとつ。
「またカルミアを待っているのか」
「っ……」
不意にかけられた声にエマイユの肩がびくつく。
振り返らずとも、窓ガラスに背の高いアサシンの姿がうつっていた。赤い髪と対照的な冷ややかな表情と声が印象的な青年だ。
「イキシア……」
「何故いつも、カルミアを待つ」
「待っていたいからですよ」
「カルミアは待たないのに?」
イキシアの言葉が胸に突き刺さる。
カルミア。エマイユと出会ったときはまだバードだった。同じレベル帯の者が他にいなかったから。それだけの理由で毎日のように一緒に狩りへ行っていた。狩りの間も、終わった後も、あまり会話をしなかった。そのときから気づいてはいた。彼にはエマイユが狩り相方だという認識すらなかったのだと。
一ヶ月前にカルミアは一足先にオーラに達した。誰にも何も相談せず即日、彼は転生を果たした。そのときにはっきりと、つきつけられた。
それでも。
カルミアの声はエマイユの中にはっきりと残っていた。
エマイユがギルド加入したときの歓迎会で歌ってくれた歌声も。
まれに機嫌が良いときに口ずさむ微かな歌声も。
一見すると冷たいのに、含まれるものはどこか甘くやさしい。
そんな彼の歌声に、憧れた。
そんな歌声の彼に、憧れた。
「私が待ちたいから、待つのです」
「可哀想だ。そんなの。エマイユが」
「私が可哀想かどうかを決められるのは、私だけです」
それ以上の言葉を拒むようにエマイユはイキシアへ背を向け続ける。ガラス窓にうつるイキシアの表情が僅かに変わる。何かを堪えるような、それを表に出すまいとするような表情だった。
同じ表情をしている、とエマイユは苦笑を漏らす。
「申し訳ありません。貴方のご心配はありがたく受け取っておきます」
でも、と続けながらエマイユはようやく振り向く。
「私は待っていたいのです。……それしか、出来ないのだから」
「他にも出来ることはある」
「お茶の支度、しましょうか?」
「狩り。俺と一緒に。一昨日からエマイユと公平が組めるように、なった」
「え……、あ……。そう、なのですか?」
「やっぱり、気づいてなかった」
「申し訳ありません」
イキシアへ丁寧に頭を下げる。常に無表情なアサシンの顔へ僅かに動揺が滲む。視界の端に見えたその顔にエマイユの口元が緩んだ。イキシアはやさしい。たぶん、今の自分よりも。不器用ではあるが思いやりに溢れている。
ギルドメンバーのレベルにも気づかないほど、カルミアのことばかりを考えていたのだろうか。そう思うと情けなさに溜息が出るエマイユだった。
憧れと恋は似ている。
カルミアに対する気持ちが恋ではないと、わかっている。それなのにまるで恋したときのように、寝ても覚めてもカルミアのことが気にかかる。
「少し、頭を冷やしてきます」
「…………気をつけて」
僅かに気落ちした風な声でイキシアが見送る。
玄関へ向かっていた足を止め、肩越しにエマイユは振り返る。
「明日、イキシアさえ良かったら一緒に行きたいです」
言葉と共に微笑みかける。途端にイキシアの瞳が輝いた。
それを確認してからエマイユはギルドハウスの外へ出る。手には無地の白い傘が一本。雨を跳ね返す音が弱い。心の奥にまた靄がたまる。
外の空気は冷えていた。
法衣のズボンの裾を汚さないように心を配りながらエマイユは当てもなく彷徨う。南門や中央広場のあたりは露店が多い。賑やかな場所へ近づく気分にはなれなかった。
ギルドハウスに近い東門にもまばらながら露店が出ている。定番の消耗品の他にも、人形や宝石、珍しい食料品などが並んでいた。それらを眺めるともなしに眺めて時間をつぶす。
天候が悪いというのに商人たちは一様に明るい笑顔で出迎えてくれる。皆が皆、それぞれの時を生きている。自分ひとりが取り残されていく感覚があった。エマイユは視線を伏せる。己の表情を隠してくれる傘がありがたかった。
* * *
雨脚が強まってきた。
細い裏道へ足を踏み入れる。傘をさした人同士がすれ違えるかどうか、といったごく狭い道だ。ギルドハウスのある方角へ進みながら、意味もなく曲がった角の数を心の内で呟く。
ひとつ、ふたつ、みっつ……。
いつつめの角を曲がると、見慣れた背中が見えた。
まだ新しいクラウンの装束に包まれた広い背中。
明るい金髪の間から覗くサキュバスの角が本ものと見まごうほど。
全身を雨に浸したカルミアが地に膝をつき、俯いている。真白い首筋に貼りついた濡れ髪の一筋を見つけてエマイユは息を呑む。ぎゅ、と法衣の上からロザリーを指先でかき抱く。
やわらかな雨音にさえ消えてしまいそうな抑えられた歌声が聞こえた。赤子を寝かしつけるときに歌う、やさしい子守唄。
「カルミア……?」
呼びかけたはずの声は喉の奥に詰まったまま。
そっと背後から近づく。膝をついたカルミアの前には小さな木箱があった。その中には力なく横たわる薄汚れた子猫がいた。捨て猫だろう。
汚れの一部は雨に流され、元来の白い毛並みが覗く。灰色と白のまだら。投げ出された四肢と閉じられた瞳には、緩やかに訪れる死の気配。時おり思い出したように上下する薄い腹だけが微かに残る命を示す。
カルミアの長い指が子猫の喉元や頬を撫でる。心なしか、猫の目元が和らいだような。金の髪の先から、角の先から、美しい顎先から、雫が落ちる。消え始めた生命を悼むように。それは何故かしらカルミアの涙のように思えた。
後ろから傘をさしかける。
捨て猫に最期くらいはぬくもりをと思ったのか。
カルミアの想いも傘で隠してやりたかったのか。
何故そうしようと思ったのかは、わからない。ただ、そのまま彼らが濡れているのは無性に悲しかった。
傘の庇護を失うなり、全身へ細やかな雨が降り注ぐ。まだ冷たいばかりの雨だ。法衣が濡れそぼって重たくなっていく。髪の合間を伝い、首筋を流れる雨粒が背筋を震わせる。
突然に雨が当たらなくなというのにカルミアは猫を見つめたまま微動だにしない。驚くどころか、傘をさしかけられていることに気づいた様子もない。ただ子猫のために歌を歌い続けている。
どれほどの時が、経ったのだろう。
エマイユの体からは熱が奪われ、唇は色を失った。傘を差し伸べ続けたままの腕が痛む。
歌は途切れることなく続く。終わりまで歌うと、また最初へ戻る。その声に疲れが滲むことはない。一音たりとも外すことはない。
雨の音と、歌う声だけが静かに満ちていた。
永遠に続くかと錯覚するほどに長い間、ずっと。
けれど、不意に歌が途切れた。
「ゆっくりお休み」
ぽつりと、歌の続きのようにカルミアが呟く。
痛ましげに目を伏せエマイユも黙祷する。
物憂げにカルミアが振り向いた。鋭く冷たい眼差しは常よりもどこか、険しい。視線が合うとエマイユの肩が小さく震える。感じた寒気は雨によるものなのか、どうか。
「ずっとそうしてたの?」
切り込むような短い問い。
エマイユは辛うじて反応し、頷く。
眺めてくる視線は突き刺さるようだ。居心地の悪さにエマイユは身じろぐ。
全身から雫を垂らし、顔は血の気をなくして真白い。そんなエマイユを見て溜息をつくようにふっと、カルミアが笑みを漏らす。
「馬鹿じゃないの」
どこまでも冷たい、感情の篭らない作り物めいた笑みだった。嘲笑の色を見出すことすら難しい。
ある程度は予想していた。
カルミアは他人のこうした行動をまったく理解しないと。
共に狩りをしていたときに、それは嫌というくらい知らされていた。
それでも冷たく濡れた胸の奥が痛む。
きっと、己の愚かさを知っているから。
――私は待っていたいのです。……それしか、出来ないのだから。
――他にも出来ることはある。
イキシアの言葉を信じてみようと、思った。
イキシアがそう信じてくれているのならそれに応えなければならないと。
待っているだけではなく何か行動を起こしてみたかった。
なのに。
結局カルミアと会ってしたことは、傘をさしかけたまま、ただ待つばかり。
何て、愚か。
「退いて」
差し伸べていた手を引く。慌てた勢いに、傘についた雨粒が飛び散った。
カルミアの短い命令の言葉。狩りの間いつも、この声を聞く度に緊張していた。この声がいつ聞こえるかと緊張していた。最初の頃は気疲れで熱を出したことも。それなのに、それでも、この声に惹かれていった。
頭上から傘が退いたのと同時にカルミアが立ち上がる。雨に体力を奪われただろうに、長いこと同じ姿勢でいただろうに、疲労もぎこちなさも感じさせない動き。
雨に濡れ続けたエマイユへ労わりの言葉をかけることもせず、カルミアは歩き出す。ギルドハウスへ帰るのか、それとも別のどこかへ行くのか。
カルミアの気配の消えた路地で、エマイユはひとり呟く。
「自分でも、わかっているのですよ」
それでも。
「貴方のやさしさを、知っているから」
決して、人へは向かないものであっても。
自然や歌や、そうしたものへしか向けられなくても。
それでも彼は確かにやさしさをもっている。
知ってしまったから。知っているから。
「こんなにも惹かれる……」
何て、愚か。
呟いた言葉と共に涙が一粒、落ちた。
散々に雨に打たれたのにその涙だけが一際、冷たく感じた。
end
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