チョコレート
二月十四日。
どれだけ女性が世に出るようになって、告白の日に拘らなくなってもやはり特別な日。世の男性たちが何とはなしに落ち着きをなくし、女性たちは想いを伝えるべく奮闘する日。
聖バレンタインデー。
けれど、戦うのは何も女性ばかりではないのだ。
プロンテラの一画。
閑静な住宅街に建つ一軒家でもまた、一人のプリーストと一人のアコライトとが悪戦苦闘していた。二人ともそれぞれの職を示す衣装の上から、清潔な白のエプロンをつけている。
くすんだ金の髪を後ろへ撫で付けたプリーストはヴァレリオ、柔らかな銀髪をした大人しそうなアコライトはユリウスという。筋肉隆々という風ではないが、二人ともれっきとした男性である。
「じゃあ次は、取り分けておいた卵黄を加えながら混ぜて、次は粉を……」
「あ、あの……。こう、ですか……?」
「ああ……もう少し力を抜いて、手早く混ぜると良いかな。あまり混ぜすぎてもいけないから」
「は、はい!」
「うん。ユリウス君はだいぶ筋が良いね」
「だろう? さすが僕の弟だよね」
台所に立つ二人の後ろから口を挟むのが、深い青の髪で顔を半分ほど隠したアルカージィだ。こちらもウィザードの衣装を身につけている。見物を決め込むつもりか、エプロンはせずに椅子に腰掛けて二人を眺めている。
不慣れながらも懸命にボールの中身をかき混ぜるユリウスは、はにかんで目を伏せる。ヴァレリオはそれを微笑ましげに眺めてから、相方のアルカージィを振り向く。
「アル……。別に俺につきあってここにいる必要はないんだぞ」
「一人で狩りに行ってもつまんないもん。それに、ユリウスの勇姿もしっかり見届けないとね」
「あう……」
「緊張しなくても大丈夫。手順通りにやれば、絶対に失敗なんてしないからね」
「は、はい。ありがとうございます……」
アルカージィの言葉にプレッシャーを感じるユリウスの頭を、ぽんぽんと撫でてやりながらヴァレリオが優しく微笑む。ほっと肩の力を抜いてユリウスも微笑みを返す。
「あ。……そろそろかな。そうしたら今度は、それを型に入れて……。そうそう。上手だよ。焼いたら膨らむから、あまり入れすぎないように。うん……ひとつに入れるのは、それくらいかな」
言葉少なながらもリラックスした様子のユリウスに、丁寧に指導していくヴァレリオ。その二人のやり取りを見つめながらアルカージィは一人、嬉しそうに笑みを浮かべている。大切な弟と、大切な相方兼恋人とが仲睦まじくしている光景は、見ているだけで十分にアルカージィへのバレンタインのプレゼントになっているようだ。
兄であるアルカージィよりもヴァレリオの方に親しんでいるのは、少しだけ寂しい気がしなくもない。が、それでもユリウスが笑っているなら良いかなと思う兄馬鹿のアルカージィだった。
「型をオーブンへ入れたら、焼いている間に簡単に片付けをしておこうね。スポンジが出来てしまえば、後は仕上げまですぐだから」
「はい。……お菓子作りって、大変なんですね……」
「そうだね……。でも、作業に手間がかかる分、気持ちを込める時間も多いから。サーシャ君に渡すんだろう? きっと伝わるよ」
「え……。ど、どうして……」
動揺して顔を赤くするユリウスにヴァレリオは笑みを零し、「見ていればわかるよ」とだけ答える。知らぬは本人ばかりとはこういうときに使うのだろう。後ろを見やればアルカージィも吹きだすのを堪え、俯いて肩を震わせている。
アルカージィとヴァレリオはもう既に通り過ぎたポイントへ、今から行こうとする二人の様子はもどかしくもあり、微笑ましくもある。あまり急かしたり茶化したりせず、気取られないよう見守ろうとはヴァレリオの言。ユリウスをことのほか大切にするアルカージィは一も二もなく賛同した。
「男同士だし、ただの狩り相方、だし。サーシャさんには迷惑になるかも、しれないけど……」
「大丈夫だと思うよ。……それにね、ユリウス君。サーシャ君は、誰かが心からの想いを伝えたときに迷惑だと思うような人かい?」
「……ううん。きっと、どんな人からでも、断るとしても、まずはお礼を言うんだと思います」
優しい人だから、と俯いて呟く声は、どこか嬉しそうで聞く者まで嬉しくさせる。銀の細い髪をそっと撫でてやってからヴァレリオは手を離す。
「さあ、まずはケーキを完成させないと。夕方には帰ると言って来たんだろう?」
「あ、……はい。えっと、オーブンへ入れて……」
「そう。火加減は……うん、それくらいかな。具合を見ながらだけど、二十分くらいだ」
器具を洗って片付け、次に使う器具を出す。その手際の良さにユリウスは感嘆の溜息をつく。ヴァレリオが照れたように笑むと、他の二人も微笑む。賑やかさこそないが穏やかで幸せな時間だ。
やがてスポンジケーキの焼ける良い匂いがキッチンに漂いだす。甘く香る中には薄らとチョコレートの香りも混じっている。ユリウスが慣れない手つきで取り出したのは果たしてチョコレートのスポンジケーキだった。
ハートの型でスポンジケーキを型抜く。初めての経験に緊張気味のユリウスの肩をぽんと叩き、ヴァレリオが励ます。真剣な面持ちでユリウスが型抜くと、端の方がやや崩れはしたものの、スポンジは無事にハート型に切り抜かれた。
「ふう……」
「はい、お疲れ様。次は余った生地をザルで裏ごしするんだが……」
「味見ー。味見したい」
「……言うと思った。一口だけだぞ」
身を乗り出して挙手するアルカージィに溜息をつきつつヴァレリオが承知する。ユリウスに断ってからほんの一口分だけを指先で千切り、アルカージィの方まで持っていく。
手渡そうとするヴァレリオに首を振り、無言のままアルカージィは口を開けて上向く。ヴァレリオもまた無言のまま見つめ返すこと数秒。やがて諦めたようにヴァレリオは、その口へスポンジの欠片を落としてやる。ユリウスが見ている側だからと油断していたところへ、指に残った欠片を舐めとる舌の感触。
薄らと頬を赤らめるヴァレリオを尻目にアルカージィは余裕の笑みを浮かべている。
「うん、美味しい。これならサーシャ君もいちころだね」
「え……。う……。い、いちころって……」
「もし不安なら、ウルに言って惚れ薬でも入れるか?」
「ほ、惚れ薬なんて……僕、そんな……」
「本人はかなり怪しいけど、製薬の腕は確かだよ。それ以外はあれだけど」
「ウラジーミルさんも、えっと、怪しくはないんじゃないかなと……」
「こら、アル。変なことを勧めない」
ヴァレリオがげんこつで、こん、とアルカージィの頭を小突く。アルカージィはそれを大げさに痛がってみせては笑みを零す。心の中では、怪しい奴扱いしたことを双子の弟に謝ってはいたのだけれど。
気を取り直してヴァレリオがユリウスの側へ戻っていく。
「仕上げまで、後少しだからね」
「はい。……頑張ります!」
意気込むユリウスに笑みを浮かべつつヴァレリオは、慣れた手つきでスポンジの一部をクラムにしてみせる。アルカージィに似たのかユリウスも飲み込みが早い。ケーキクラフト作りをユリウスに任せる間にヴァレリオは、次のガナッシュ作りの用意をしている。
湯を沸かす間に、板チョコレートを刻んでいく。ユリウスは刃物が苦手だとアルカージィから聞かされていたから、そこはサービスだ。ユリウスが申し訳なさがる時間もかからず、手早く刻み終わったチョコレートを、ヴァレリオはボールへ入れる。それと同じ頃にユリウスも作業を終えた。
「うん。綺麗に出来てるね。じゃあ、次は湯せんでチョコレートを溶かして……」
「は、はい。えと……こう、ですか?」
「そう……上手上手。お湯が入らないようにだけ、注意してくれれば大丈夫」
「あ……。そっか」
「沸騰しかけたら生クリームを入れるから、よく見ておいて」
寒いからと閉め切っていた部屋も今は、オーブンの熱で薄らと汗ばむほどだ。アルカージィが立ち上がり、小さな窓を細く開ける。僅かに入り込む冷たい風も今は心地良い。
その帰りにアルカージィが背後からユリウスの手元を覗き込む。
「生クリームも良いけど、その中にトマトソースとか入れたら斬新で良くない?」
「…………アル。頼むから大人しく座っていてくれ」
「えー。絶対、美味しいって」
「ユリウス君も、ソースの缶を探さないで」
「えと……せっかくだから試してみようかなあって……」
「たぶんサーシャ君、びっくりしちゃうから」
普通に作って渡すのが一番だよ、と溜息混じりにヴァレリオ。アルカージィの肩を押しやって椅子へ座らせる。飲み込みも頭も良いのに、味覚が微妙にずれているのが困りもののウィザードだった。
* * *
ユリウスが完全にケーキを仕上げた頃には、日が沈みかけていた。
箱を大切そうに抱えてアルカージィとヴァレリオの住まいを後にした。サーシャとユリウスが住む家までは、ゆっくり歩いても三十分程度。けれど気の急くユリウスは少しでも早く家へ着こうと裏路地へ入る。夕日のあまり入り込まない路地は薄暗く、何とはなしに薄気味悪い。
進めば進むほど、知らずの内に早足になっていく。
後ふたつ角を曲がれば帰る家のある大通りへ出る。そこまで来て、ユリウスは背後からの足音に気づく。大股で忙しない歩き方だ。急いでいるのだろうとユリウスが脇へ寄るも背後の人物が追い越そうとする気配はない。
仕方なしにまた歩き出すと、背後の足音もまた歩き出す。嫌な予感に足を止めてみれば背後の足音も止まる。背筋を悪寒が走った。上体を前へ倒すようにして半ば小走りに道を行くと面白がるようにして背後の足音が速くなる。
「っ……!」
不意に背後から肩を掴まれ、つんのめりかけながら足が止まる。緊張に強張る顔をそろそろ後ろへ向けてユリウスは首を傾げる。
「あの……、えと、……僕に何か……?」
たどたどしくも健気に尋ねる声に返るのは耳障りな笑い声だ。ユリウスの細い肩を掴んで引き寄せるのは、大柄な騎士だった。ペコペコには乗らずにいるが小柄なユリウスには、それでも男が山のように大きく見える。
「こんな遅くに一人で歩くと危ないぞ?」
「え、あの……。もうすぐ、家につきますから……」
「そうか? じゃあそこまで送っていこう」
「えと、……大丈夫ですから、あの……」
いやらしい手つきで腰へ腕を回されるのを厭ってユリウスが身じろぐ。それを意にも介さずに騎士は大きな手をユリウスの臀部へと這わせる。
同じ抱きしめるでもサーシャの腕はとてもあたたかくて心地良いものだった。この見知らぬ騎士の腕からはそれが感じられない。ユリウスの意思を無視してすべてを進めていくような強引さだけが伝わってくる。なおも身を離そうとするユリウスに、騎士は途端に目を細めてユリウスの頬を張る。
「……っ」
「そんなに嫌がるなよ。失礼だな」
「あ……」
痛みと衝撃とに瞑っていた目をそろそろ開ける。足元には、取り落とした箱がある。中のケーキはきっともう潰れてしまっているだろう。さして甘いものが好きというわけでもないサーシャのためにと、ヴァレリオに頼んで特別にレシピを作ってもらった、ビターチョコレートケーキ。
初めて、自分の手で作ったものだった。それをサーシャに渡せたら、食べてもらえたら、それだけで良かったのに。ヴァレリオやアルカージィの言うように想いを伝えられなかったとしても、それだけで。
端の方のひしゃげた箱を見つめる内、ユリウスの薄い青の瞳にじわりと涙が滲みだす。
「痛かったか? ごめんなあ……お前が大人しくしていれば、もう痛いことはしないよ」
「や、……だ……」
涙を何と勘違いしたか騎士が猫なで声で言う。グローブに包まれた大きな手がユリウスの顎を持ち上げる。強い力に抗うことも出来ずにユリウスは顔を上げる。
人相の悪い騎士の顔が近づいてきた。ユリウスは咄嗟に目を瞑って顔を背ける。それを許すまいと騎士が手指に力を込めた。痛みに呻く声を封じ込めるように騎士の唇がユリウスのそれに触れる。もがく体をもう片方の手が強く抱き寄せた。
生暖かい弾力のある舌が口内を這いずり回る感覚にユリウスは涙を零す。震える舌が男のそれに応えて動くのは、無意識のもの。嫌で嫌でたまらないのに体は、覚えこまされたそれを勝手にくりかえす。ようやく逃れたと思った呪縛に今もまだ縛られている。
ごつい手が淡いベージュのアコライトの衣装の襟元を緩めてくる。媚びるように揺らぐ腰に、己の体ながら吐き気がこみ上げてくる。また、嫌と言うことも出来ずに良いようにされるのか。自責してはみるものの体格差では敵わない。
懸命に目を閉じて何も感じないようにしようとする。前は出来たことが、今は上手く出来ない。目を閉じた闇の中に、サーシャの顔が浮かんで離れない。その幻を見ていると悲しくて苦しくて、見知らぬ男に触れられるのが嫌でたまらなくなる。
(サーシャさん……。サーシャさん。……サーシャさん……っ)
それだけが唯一許されたこととばかり、ユリウスは相方の剣士の名を心の内で呼ぶ。呼んだところで届くはずがないとわかっていても、今はそれしか縋るものがない。
サーシャに出会うまではただ、終わるまでの時を神に祈ってやり過ごすだけで耐えられた。今は祈ることすら思いつけない。
人は神の子として生まれてきて、恋をして人になり神の御許を離れる。そう寝物語に聞いたのはいつのことだったか。幼いながらも「そんなことはない」と思ったあの頃からは想像もつかない、今の自分がいる。こんなにも誰かを愛しく思えるなんて知らなかったのだ。
騎士の手がおざなりにユリウスの胸元を撫で、すぐに腰に触れる。ベルトを抜き取り、そのまま手がズボンの後ろへ差し込まれる。片手はがっちりとユリウスの背を抱えたままでいる。息苦しさにユリウスが首を振るとなおのこと騎士の舌が深く侵入してくる。
「ん、……っふ、……ぁあ……」
後孔へ指が触れると喉の奥から切なげな声が漏れる。耳に届くその声にユリウスは泣きそうに眉を顰める。どれだけ逃れようとしても己の身にこうしたことはついて回るのだろうかと、諦めが首をもたげたそのとき、不意に唇が解放された。ユリウスは俯きながら咳き込む。
細い体を片腕の内に閉じ込めたまま、騎士がユリウスの頭越しに道の向こうを見ている。殺気すら混じるその視線に怯えながらも、ユリウスは視線を巡らせる。夕暮れの薄闇を透かして見えたその姿に、ユリウスの瞳が大きく瞠られる。
「サーシャ、さん……。どうして……」
「お前、何してやがる」
「何って。このアコが先に誘ってきたんだぜ」
なあ、と耳元で囁かれて背筋にまた悪寒が走る。涙を零して首を振ると今度は、露になった首筋に口付けられる。ちくりと鈍い痛みと共に、赤い印がいくつも散る。
それを厭って首を振ると騎士が再びユリウスの頬を張る。サーシャはそれを見るなり激昂して地を蹴る。目標にしていた騎士の中にこのような人物がいるのかと、情けなさと悔しさで頬が熱い。片手に抜いた剣が鈍く光る。その切っ先には、自分よりも上位の職に就いた者と対峙する畏怖も躊躇いもない。
騎士はそれを見るなり争うのは面倒とばかり、ユリウスの体をサーシャの方へ突き飛ばす。構えた剣を慌てて引いたサーシャが、その体を片手で受け止め、たたらを踏んで体勢を整える。その数秒の間に騎士は路地の向こうへと姿を消していた。
追うかと迷う前に、ユリウスが震える腕でサーシャに抱きつく。声を押し殺して泣く様にサーシャも胸が苦しくなる。何を言うことも出来ずにただ背を撫でてやる。
「っ……ぅ……。サーシャさん……」
「悪い。……ちゃんと迎えに行けば良かった」
「ごめ、……ごめんなさい……」
「お前は何も悪いことなんてしてないだろ。謝らなくたって良いんだ」
普段は無愛想な顔を和らげてサーシャが何度もくりかえし囁く。なだめるようにしてユリウスのやわらかな髪や小さな背を撫でてやる。
路地の闇が濃くなった頃、ユリウスがようやく涙に濡れた顔を上げる。
「サーシャさんに、と思って。……作ってきたのに、壊れ、ちゃった……」
「……うん?」
先ほど箱を落とした方へ行きたがるユリウスに、サーシャがそっと腕を解く。ふらふらと覚束ない足取りで歩み寄り、膝をついて底の潰れた箱を取り上げる。
細い指がそっと蓋を開けると、予想通り、中のケーキはぐちゃぐちゃになっていた。それを見て新たな涙がユリウスの頬を伝う。サーシャが何事かとユリウスの側に立ち、肩に手を触れさせる。
「ケーキ……?」
「……チョコ、レート……。今日、バレンタインだから。サーシャさんに、いつもの感謝と……ううん……、本当は、言いたいことが、あったのに」
言えなくなっちゃった、と語尾は涙に詰まって消える。
眉を寄せてサーシャは考え込んでいたが、ついと手を伸ばして、潰れたケーキを一欠けら摘み上げて口に運ぶ。きょとんとした様子で見上げるユリウスの前で咀嚼して、サーシャは慣れない笑みを浮かべてみせる。
「ユリウスが作ってくれたんだろ?」
「はい。……あの、ヴァレリオさんに、色々と手伝って貰ったけど……」
「美味いよ」
「う、嘘……。だって、落としちゃった、し……潰れて……」
「馬鹿。潰れたくらいじゃ味なんて変わらないんだよ」
「でも、……」
「本当に、美味いから。お前も食べてみるか?」
もう一欠けらを取り上げて差し向けるも、ユリウスは首を振るばかりだ。仕方なしにサーシャはそれを己の口へ放り込む。ほのかに苦みのある甘さはサーシャの好きな甘さ加減だった。
俯いて首を振り続けるユリウスの肩に触れると、そろそろと白い顔が上向く。艶やかに濡れた唇を隠すようにしてサーシャはそっと口付ける。驚いたようにユリウスが瞬いた後、そっとやわらかく瞳を閉じる。舌先で押し込むようにしてケーキの欠片を与えると、ユリウスは恐る恐るそれを受け取る。舌先が僅かに絡む間にチョコレートケーキはそのまま飲み込まれていく。
余韻を味わうようにサーシャの舌が軽く舌先を舐める。ユリウスが僅かに身じろぐと、慌てた様子でサーシャが身を離す。目と目が合うと互いに頬が赤らむのが何故だかおかしくて、ユリウスは涙を残したまま僅かに微笑む。サーシャもどこか力を抜いて笑み返した。
「……な? 美味かっただろう」
「……ん……」
頬を赤くしたまま俯くユリウスの頭を、いつもより乱暴に撫でて照れくささを誤魔化すサーシャだ。髪の毛の先にくすぐられて、ユリウスが笑みを零す。
「ずっと、初めて会ったときから、サーシャさんのことが好きでした。友達としてだけじゃなくて、えと、その……特別、な意味での……好き。伝えたくても、伝えられなくて。……でも、今日はバレンタインだから。だから、頑張って伝えたくて」
顔を上げたかと思えば不意の告白に、サーシャが目を瞠る。まっすぐに見つめてくる薄い青の瞳は、気弱げで、それでもどこか、力の宿った瞳だった。
「えっと、迷惑かも、しれないですけど。でも、返事が欲しいとかは、ないですから。ただ、伝えたくて。サーシャさんには迷惑かもしれないし、気持ち悪いかも、しれないけど……」
次第に俯きながら、好きです、とか細い声でユリウスが付け加える。
夕闇の中に溶けて消えてしまいそうな小さな声に、サーシャは溜息をひとつついて後ろ頭をかく。その手を下ろしながら、また溜息をひとつ。不安そうに肩を落とすユリウスの頬へ手を触れ、顔をあげさせる。
「何でこう、お前は……臆病で自分のこと何も言わないと思ってたら、急に大胆になってくるかな……」
「ご、ごめんなさい……」
「俺が、言うのを迷ってたのに」
「……え……」
「臆病者の方が勇気があるって、本当なのかもな。俺に出来なかったことを簡単にするんだから」
「サーシャ、さん……?」
睫の合間についた涙の粒さえ見えるほどの距離へ顔を近づけ、サーシャが囁く。ユリウスにしか聞こえない小さな声の告白に、薄い青の瞳が涙を零す。今度は、心からの嬉し涙を。
頬へ伝う涙を舌先でそっと舐めとりながらサーシャは「泣き虫だな」とからかう。その声さえも優しくて、ユリウスは頬を赤らめながらもまた涙を零すのだった。
* * *
その頃、アルカージィとヴァレリオは。
「ねえ、ヴァルが食べさせて〜」
「…………はいはい」
「ちぇ……。たまには口移しが良いよー」
「…………」
「ごめんなさい嘘です。食べさせてもらえるだけで、すっごく幸せです」
「まったく」
呆れ顔のヴァレリオにフォークで一口ずつ食べさせてもらって、アルカージィは至福の表情だ。口では文句を言いつつヴァレリオも満更でもなさそうな表情でいる。単純に、自分が作ったもので誰かが喜んでくれるのが嬉しいというのもある。が、それ以上にやはりヴァレリオも、最愛の人へこうして何かをすることが出来て嬉しいのだった。
ケーキを食べ終わったアルカージィは、ヴァレリオへじゃれつくようにして抱きつく。
「ね、これ、僕用のレシピでしょう?」
「……普通の人は、ここまで甘くしたものだと食べられないからな」
「でもこれ、ユリウスの作ってたのと同じお菓子だよね」
なんてお菓子?と耳元で囁くと、ヴァレリオが小さく息を呑んで身じろぐ。それが面白くてつい何度も息を吹きかけては怒られるアルカージィだ。
「スイートバレンタイン。今日にぴったりのケーキだろう?」
「ユリウスも、今、ちゃんと幸せかな……」
「……大丈夫だよ、きっと。サーシャ君は良い人みたいだし。きっと今頃、二人で仲良くしていると思うよ。あまり心配はしないで……」
今は俺のことだけを考えれば良いと、頬を染めながらの珍しい言葉に、アルカージィは目を丸くする。驚いてヴァレリオを見つめた後、にやりと目を細めて笑う。今夜は寝かせない、と古典的な口説きを耳孔へ吹き込みながらの不敵な笑いに、早まったかと少し後悔するヴァレリオだった。
* * *
幾度も口付けを交わし、互いの頬や額にキスをしあって、ようやくユリウスが泣き止んだ頃には、夕日の姿も見えなくなっていた。照れたように笑いあって、最後にもう一度、触れるだけのキスをした。
既に月の昇り始めた帰り道。
ぎこちなく寄り添う二人が、闇に紛れてそっと手を繋いだことを、まだ誰も知らない。
end
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