いらだち
喧嘩を、した。
喧嘩といっても別に殴りあったとか、罵りあったとかじゃない。なのに、どんな傷よりも痛くて、どんな言葉よりも悲しくて。大切なものをなくしていくような感覚が何よりも堪えた。
発端は、ほんの些細なことだった。マンドラゴラに襲われているユリウスを助けて、一緒にルバルカバラ神父のところまでお礼参りに行った後のこと。経験の差がありすぎてユリウスとすぐには一緒に戦うことが出来ないことがわかった。
差がありすぎて、といっても数日頑張ればすぐに埋まる程度のもの。手伝おうかと言う俺の言葉をユリウスは頑なに拒んだ。「でも、出来れば見守っていて頂きたいです」と小さな声で言う姿にこいつなりの想いを感じて、俺は快諾した。人に頼らず自分の力で成長したい。その想いは、俺にもよくわかるから。だから、それだけなら良かった。
なのにユリウスは、俯きながら謝罪を呟いた。いつもより小さな、微かに震える声で。何か重大な罪でも犯したかのように項垂れた姿を見て、俺は言いようのない思いに囚われた。あえて言葉にするなら、そんなに俺が恐ろしく見えるのか、とか。そんなに俺のことが信用出来ないのか、とか。何も悪いことなんてしていないのに、何でそんなに怯えているのか、とか。俺が何か悪いことをしただろうか、とか。
だけど、そんなことで言い表せる思いでもなくて、余計に苛立たしい。苛立たしさをぶつけるように「何で謝るんだ」ときつい口調で言ったのが、つい半刻ほど前。
気付いたら俺は、プロ南で一人ぼんやりと座っていた。側にユリウスの姿はない。俺があんまりむすっとしたまま動かないから、いたたまれなくなったんだろう。俯いて唇を噛んで堪えるようにしていた表情が、どれだけ追い払おうとしても頭から離れない。
あらかじめ組んでおいたパーティがあるから、ユリウスが今どのあたりにいるかは、大体わかっている。姿を消した後にパーティからも抜けるかと思ったら、継続されたままで、そこには一縷の望みがあるようで、それだけが少し、嬉しい。
悪いのは俺だ。どう考えたって俺だ。八つ当たり以外の何ものでもない。一番腹が立つのは、気持ちをうまく言葉に出来なかった俺なのに、ユリウスに怒りをぶつけた。でも、あいつだって少しは、と、子どもじみた言い訳がすぐに出てきて、それが余計俺をへこませる。
辺りでは、幾組ものグループが思い思いに寛ぎながら話をしている。ぽかぽかとあたたかい日差し。暢気そうに通りかかるポリンの跳ねる音や、ルナティックの草を食む音が時折聞こえて、のどかそのものの光景だ。
空はどこまでも澄み渡る青。なのに心は晴れない。空は、ユリウスの瞳のように、すべてを包むような優しい薄青。だから心が晴れない。
謝らないと、いけないのに。
今すぐにでも謝りたいのに。
体が動こうとしないのは、俺のつまらない曲がったプライドの所為だ。あんなに悲しそうな顔をさせたのにどうして謝ること……どころか、追いかけることに躊躇しているのか。叱咤しても立ち上がる気になれない。今から追いかければたぶん、日が暮れる前には追いつけるのに。
「ねえ、君」
ちゃんと一人でもやっているだろうか。変な奴らに絡まれたりしていないだろうか。また何か、危ない目にあっていないだろうか。そんな心配ばかりが心を占めている。
でも、どんな言葉をかければ良いのか、どんな顔をして会えば良いのか、わからない。追いかけていってもし拒絶されたら。不安で堪らない。
「そこの君だよ、君。剣士の君」
「ああ?」
しつこくかけられる声に渋々顔を向ける。ウィザードであることを示すマントが、まず視界に入る。そのマントの上からでもわかる、筋肉とは無縁そうな細い体。深い青の髪が顔を半分隠している。この間マンドラゴラの森の手前で会ったアルケミストに少し似ているが、あいつみたいに嫌な感じのしない、明るい雰囲気をしていた。
断りもなく俺の隣に腰を下ろし、親しげな笑みを投げかけてくる。ウィザードに支給されているらしい手袋を外して、もう寛ぐ気満々といったご様子だ。
「君、もしかしてサーシャ君?」
何だこいつは。警戒心も露に睨む俺を見ても、たじろぎもせず笑顔のまま。その様子は天然だとかお人よしだとかではなく、単に人の評価を気にしない性質といった印象だ。
「やだな、そんな怖い顔しないでよ」
「何か用か」
「用ってほどでもないけど、まあ、弟のことが気がかりでね」
「俺に兄はいない。詐欺るなら他の奴を当たってくれ」
「僕も、君みたいなごつい弟はいないなあ……」
少し嫌そうな顔で俺を見てくるウィザード。見かけによらず、もとい、見かけ以上に失礼な奴だ。そんな思いの所為で余計眉間に皺が寄る。そんな俺を見てか朗らかに笑いながらウィザードが懐からタバコを取り出す。
内緒だよ、と声を潜めて俺へ言い、タバコを口へ運ぶ。そのまま口をもごもご動かすことしばし。タバコの先端から細く煙が立ち上った。たぶん術の応用か何か。不審者の上に無精者だ、こいつ。
「あ。……ユリウスのことか」
「ご明察。ユリウスから君のことは聞いているよ。いつまで経っても修練所を出たときのまま、戦闘ひとつこなせないと思って心配していたら、ある日僕のところへ来てね、何て言ったと思う? 今までお願い事なんてしたことのないユリウスが『アルカージィさんさえ良ければ、側についていて頂けませんか』って。見守るだけで良いなんて、本当健気だよね」
「はあ……」
「誰かに見守ってもらうってことで精神的に安定するっていうのもあるけどね、それだけならたぶんユリウスは僕に頼みに来たりしないと思うんだよ。ああ、そういえばアルカージィというのが僕の名だ。略して呼んだりしないように。ちなみに理由は秘密だ」
「ええと。それは」
「理由は言わないと言ったばかりだぞ。人の話はちゃんと聞いてくれ」
あんたが人の話を聞いてくれ。
いるよな、無駄に喋るタイプの奴……。少しで良いからその饒舌さをわけて欲しい。そうしたら、もうちょっとユリウスにも必要なことを伝えられる気がする。いやでも無駄に喋っているんだから、やっぱり重要なことは伝えられないんだろうか。
「まあ、そんなことはどうでも良いんだよ。ユリウスがそうやって付き添いを頼んだのはきっとね、見られていることで少しでも自分を追い込もうとしてたからじゃないかな」
「自分を、追い込む……?」
「そう。一人だけじゃ、どれだけ頑張ろうとしても途中で『少しくらいなら良いかな』と思って休んでしまうけど、自分からお願いして付き合ってもらっている人がいれば、その人に悪いからって、ぎりぎりまで頑張れる。でもね……それが兄と一緒に冒険するためじゃなく、君のためだなんて知った日にはもう、僕は嫉妬で狂いそうだよ」
嫉妬どころか負の感情とも無縁そうな、底抜けて明るい笑みで言われても。全く邪気がない台詞。悪意や嫉妬といったものすら感じられない声。なのに何となく本気っぽいというか、本意が知れないというか、逆に怖いものがある。
「って、俺の……ため……?」
「ああ、うん……。ユリウスが無事に修練所から帰ってきた後と、……数ヶ月くらい前かな? ポリン島から帰ってきたときだね。友達が出来た、初めての友達だ、って言って、嬉しそうに写真を見せてくれたよ」
写真、撮ってたのか……。ぼんやりしているように見えて、意外と抜け目ない奴なのかもしれない。いつの間に撮っていたのかと疑問はあるが、そんなに喜んでいたのなら、悪い気はしない。別に撮られて困ることをしたわけでもないしな。
繊細そうな指先でタバコを挟み、口から細く煙を吐き出すウィザード。言われてみれば横顔が少しユリウスと似ているかもしれない。そのまま指の合間でタバコを揺らす様が板についている。
「何とかいう神父のところへお礼参りに行ったときも、途中から君が護衛してくれたんだって? あの子があんな風に笑うのは初めて見………………」
自分のことのように弾む声で言っていたのが途切れ、気付けばウィザード(アルカージィとかいったか)がタバコを握りつぶしている。火がついたままのはずのそれを、表情も変えずに。……笑顔を張り付かせたまま握った拳が震えていて、何というか端的に言って、怖い。
「うー……あー……、ええと。心中お察ししま、す……?」
「何を言っているんだサーシャ君。君に僕の気持ちがわかるはずがない」
何となく悪いことをした気分になって謝ってみれば、笑顔のままさらっとつっぱねる返答。うわむかつく。謝り損があるとしたら、絶対に今だ。
「大体ね、どうしてそんな君が一人でいるんだ?」
「それは……。その」
「ああ、こんなところにいた」
返答に窮する俺の言葉を遮るように別の声が降ってくる。穏やかな、少し低めの声。辿るように顔を上げたら黒と赤の衣装が目に入る。ともすれば威圧感を与えそうな長身と体格だが、くすみがかった金髪と柔らかい笑みを浮かべる顔が、それを打ち消して余りある。プリーストの衣装なんて着ていなくても、ああプリーストなんだなとわかりそうな、そんな感じの。
ユリウスが春の雪解けなら、このプリーストは夏の木陰みたいな。何かあっても多少のことなら大丈夫なんだろうと思わせる頼もしさと、心安らぐ感じがある。
そんな柔らかい視線が最初に捉えたのはどうやら、ユリウスの兄を自称するウィザードの方。言葉からしてこいつの知り合いなんだろう。俺の知り合いではない。
「……ヴァレリオ」
「弟が巣立っていって寂しいのはわかるが、そうやって初対面の人を怯えさせるんじゃない。そちらの剣士さんも困っているだろう」
軽く眉を寄せて注意をする声は責める風ではなく穏やかなまま。なのにどこか逆らいがたいような威厳めいたものがある。その所為かアルカージィも不貞腐れたように口を噤む。
そんなウィザードを見やってから、今度はプリーストが俺を向く。
「すまないね、連れが迷惑をかけてしまったようで」
「あー……いえ、別に」
「普段はもっと冷静で大人しいんだが、どうも弟のことになると見境がなくて」
「弟思いと言ってくれ、弟思いと」
「アルは口にチャック」
素っ気無く言い放つヴァレリオ……さんの言葉に、ウィザードは渋々といった風に口を閉ざした。アル、と無造作に呼ばれた愛称が耳に馴染まない。ぷいとそっぽを向いたアルカージィを見て、略して呼ぶな、と言っていた理由が何となくわかった気がした。
反対の方向を向いているくせに、ヴァレリオさんのことを何よりも気にしているのが、よくわかる。ほんのちょっとの会話だけでも憎たらしいと思ったのに、その様子を見ていると可愛いとすら思えるから不思議だ。
「ユリウス君のお連れさんかな? 俺はヴァレリオ。こっちは、俺の連れのアルカージィ。ユリウス君のお兄さんだ。……いくら何でも、素性くらいは明かしているだろうな」
「……話した」
ヴァレリオさんの最後のところは、アルカージィへ向けてのもの。むすっとしたまま答えているアルカージィの手が、何か隠すように後ろへ行って……それを目ざとく見つけたヴァレリオさんがその手を掴む。
「な、何もしてないぞ」
「嘘をつくんじゃない。まったく……」
体力の差か、体格の差か。きつく閉じようとする指を、ヴァレリオさんが無理にこじ開けた。手のひらを見て顔を顰めている。そこにあるのはたぶん、どう考えてもタバコの吸殻と、火傷の跡。
「禁煙すると言ってからまだ二時間も経っていないぞ。大体、人の多いところで吸うんじゃないと、何度言ったらわかるんだお前は」
「弟を思うあまり、口寂しくなってな……」
「飴でも食べてろ。クッキーだってあるだろう」
「刺激が足りない」
俺を置き去りでぽんぽんとテンポ良い台詞の応酬が繰り広げられている。口喧嘩といっても手馴れた感じのする、見ていて微笑ましくなるような雰囲気のものだ。
刺激が、と口にしながらヴァレリオさんを見上げるアルカージィの目が一瞬、身震いするほどの色気を覗かせた、ような。それを感じたからかどうかヴァレリオさんが僅かの間口を噤んで、それから溜息をひとつ。
片手でアルカージィの手の甲を下から支え、もう片方の手で、手のひらに触れる。指先で軽く撫でやりながら唇を小さく動かしている。聞き取れないほど小さな声で紡ぐのはたぶん、癒やしを願う祈りの言葉。火傷の跡を撫でる指の動きは愛しいものを慈しむようで、見ていて少し、照れくさい。
アルカージィから手を離して、ヴァレリオさんが俺の方を向く。少しかがんで顔を覗きこむように。俺の中にあった拗ねた心が少し和らいだ気がした。
「これからユリウス君を迎えに行くのかな?」
「行かないと言うなら今からPvに」
「アルは口にチャック」
再び黙らせられるアルカージィ。項垂れた姿は、やっぱりちょっと可愛いかもしれない。そう思うのはユリウスの面影を見たからか、それともユリウスの縁者だと聞いたからか。
この二人を見ていたら、むっつりと引き結ばれていた唇が、気付いたら笑みの形になっていた。
「ええ。行って……ちょっと謝ってきます」
「そうか、良かった。気をつけて行っておいで」
「ありがとう」
立ち上がりながら二人に――主に、ヴァレリオさんに向けてだが、とにかく頭を下げて短く言う。相当ぶっきらぼうだっただろうに、アルカージィもおう、と短く応えてくれる。
ヴァレリオさんも立ち上がって、何をするかと思ったら、そっと俺の肩に手を置く。励ますようなあたたかさがじんわりと染みとおってきて、心地良い。
「謝るときは上手く言おうとなんてしなくて良い。自分の気持ちを、ちゃんとまっすぐに見せてくれば、それだけで構わないはずだ。力みすぎずに行っておいで。……君に神のご加護があるように」
送り出すように俺の肩を押す、力強い手。どんな言葉よりもその手に勇気付けられて俺は走り出す。体がいつもより軽く感じるのは、かけてもらった術のおかげだけじゃなくて、きっと言葉の力もあるんだろう。
二人から遠ざかる折、「ところで彼は何をしたんだ?」と尋ねているヴァレリオさんの声が聞こえた。
駆け続けてどれくらい経ったか、喉が乾いて痛むくらいになった頃。俺はようやくポリン島まで来ていた。砂漠を大慌てで越えてきたから、髪やら唇やらがじゃりじゃりしている。いつもならその辺で水浴びをと決め込みたいところだったが今はひたすら先を急ぐ。
途中でヴァレリオさんにかけてもらった術が解ける。それでも精一杯の速さで進む。それでも、いくつかの橋を渡る頃にはもう日がかげりかけていた。一度足を止めて額を流れる汗を拭う。ユリウスは今どの辺りにいるだろうと再び位置を確認して……溜息をひとつ。いつのまに移動していたやら、気付いたらあいつもポリン島に来ていた。
パーティメンバーなのだから、離れていても会話は出来る。が……声だけで謝るというのは、何となく嫌で、気配を頼りにユリウスの真白い姿を探して回る。
「あ」
「……サーシャさん!」
茂みの向こうに白いものがちらついたと思ったら、先にユリウスが声をかけてくる。たった半日ほどなのに声がひどく懐かしく聞こえる。ぱたぱたと俺の方へ駆け寄り、切らした息を整えるように肩を上下させて、しばし沈黙。
俺が何か言おうとするより早く、ユリウスが顔をぱっと上げる。じっと俺を見つめる瞳はやっぱり空の青を写した淡い青。
「すみませんでした。ごめんなさい、勝手に行ったりして……。あの、一人に、なりたいのかなと、思って……その……」
最初の一声は、顔を上げる勢いにつられたように力んだ声。語尾へ行くにつれて小さく途切れていく声も、今は愛しい。
俺が黙っているのを怒りととったのかユリウスの瞳が僅かに潤む。涙を零すまいと奥歯を噛み、俯くようにして謝罪の言葉をくりかえす。その白い頭にそっと手を置き、撫でてやる。きょとんとした瞳が俺を上目に捉える。
「謝らないといけないのは俺の方だ。……その、何だ。何も言わずにいきなり不機嫌になったりしたら、驚くっつーか、……嫌だよな。悪い……」
頭を下げる。慣れない動作だが、精一杯心を込めて。ついでに、俺の中のガキっぽい嫌なところが全部出ていってくれないだろうかなんて、途方もない望みを抱きながら。
そろそろと顔を上げてみれば、ユリウスの困惑したような顔が出迎える。まるで、自分が謝罪を受けることが信じられないといった様子。謝るばかりで、謝られることに慣れていないのだろうか。
「お前が何か悪いことをしたわけじゃ、ないんだ。ただ……」
「は、はい……。何でも、言ってください。あの、僕……言ってもらえたら、出来るだけ直すように、しますから……」
殴られる覚悟を決めたときみたいに、ぎゅっと目を瞑りながらユリウスが言う。小さく吹きだしながら俺はまた、白い額を指先で弾く。
「お前が何かある度すぐに謝るのを見るのは嫌だ。そんなに謝らなくても、俺は気にしないし……嫌いになったり、しない。何気ないことでお前が謝っているのを見るのは――……何だ、その、な……、……悲しい」
悲しいから嫌なんだ、と。最初に悩んでいたのが不思議なくらい、自分の気持ちにぴったりとくる言葉が口をついて出た。ああ、こう言いたかったんだ。項垂れるようにして身を小さくして、泣きそうな声で謝る姿を見るのは、胸が締め付けられて悲しくて、それが嫌で、腹が立つ。
あんまりぴったりしすぎた言葉で、口にしたのが恥ずかしくなってそっぽを向く。そっぽを向く、なんてさっきのアルカージィみたいだ。あいつもさっき、こんな気持ちだったんだろうか。自分の言葉が相手にどう伝わったのか気になって堪らないのに、返答を聞くのもきっと怖くて。
それにしても沈黙が長い。
気配はすぐそこにあるからいなくなったわけじゃない。そもそも、手の下にはまだユリウスの髪の柔らかい感触がある。仕方なしに視線を向けてみた。ぼろぼろと大粒の涙を零して立ち尽くしているユリウスの姿があった。
「お、おい……!?」
「あ、う……。ごめんなさ……い。き、嫌われたわけじゃないんだって思ったら、何だか安心して……」
「悪かったのは俺の方だって」
頬を伝う涙を拭ってやろうとして手を伸ばしかけ、グローブがだいぶ汚れているのに気付いて手を下ろす。ユリウスの白い手が、幼い子どものようにごしごしと目を擦っている。
「……擦るな。腫れる」
言って、手首を掴んで止めさせる。涙をたたえ、軽くしゃくりあげているユリウス。視線が真直ぐ俺を見つめている。夕陽にきらめく涙に誘われるようにして顔を近づけ、唇で優しく目元に触れる。僅かな身じろぎ。ちょっと様子を伺うが、それ以上の応えはない。
悪かった、すまない、と呟くようにそっと舌先で涙の跡を辿り、口付ける。ユリウスの瞼が閉じる。長い睫に涙の溜まる様が朝露めいて美しい。抵抗がまったくなくて、逆に不安になる。不安になって、そろそろと顔を離した。
唇を離すのに少し遅れてユリウスが瞼を開ける。はにかむような微笑が零れる。ほっとして、溜息をひとつ。ユリウスが小さく鼻をすするのが聞こえて、俺も笑みを浮かべる。
「そろそろ、戻ろう。明日は俺も一緒に行く」
「え。良いんです……か……?」
「当たり前だ」
「すみません……」
項垂れて小さく呟く声。それから数秒の後、またユリウスが顔を上げる。どこか躊躇いがちに笑みながらそっと口を開いた。
「……ありがとう、ございます」
「ん。…………行くぞ」
微笑みに照れて無愛想になる俺に、ユリウスは零れんばかりの笑みを返す。何となく手を差し伸べてみたら、少しの戸惑いの後、ユリウスがそっとその手を握った。
どちらも何も言うでもなく、視線を交わすでもなく、ただゆっくりと歩き出す。
繋いだ手は離さない。
end
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