転職 Side K
山から一羽の真っ白な鳩が、プロンテラの大聖堂をめがけて一直線に飛んでくる。小さな翼と、力強い羽ばたき。それは、新たにまた一人、神に仕える道を選んだという知らせ。神を讃え、人を祝福する彼らを密かに祝う最初の天使。
だから、そんな鳩を見つけたら心の中で「おめでとう」と祝っておあげ。そう言ってこの話を締めくくるのが亡くなった祖母の癖だった。
近所では評判の悪ガキだった俺だが、一番お気に入りの寝物語は、この鳩の話。普段とのギャップを笑われるのが嫌で俺からねだることはなかった。幼い俺の、精一杯のプライドだった。それを知っていたから祖母は何を聞くこともなく、ただ、この話を他より少し多くしてくれた。
良い人ばかりではない世の中で信仰を保ち、教えを実践することは、将来何を目指すにしても、それだけで困難だ。だから、苦難の道を行くであろう彼らに、ささやかな祝福を。そんな祖母の言葉と微笑みが、俺は話以上に好きだったのかもしれない。
温和で、いつでも優しく笑みを浮かべていた祖母が冒険者だったと知ったのは、彼女が死んだ後。今からは想像出来ないくらい無茶ばかりする人だったと、葬式に駆けつけた老齢のプリーストが懐かしむように呟いていた。特別愛しいものを見るようなその眼差しに、彼が祖母の相方だったのだろうと知れた。
そんな昔を思い出したのは、山の方からプロンテラのある方角へ向けて飛ぶ、一羽の白い鳩を見たから。おめでとう、と呟いた後、どうしてそう呟いたのかを考えていたわけだ。記憶力の悪い俺でも、一言一句間違えずに思い起こせるのではと思える、祖母のゆっくりとした語り口調。
あたたかい胸元に抱き寄せられて、頭を撫でてもらいながら聞いた、いくつもの短い話。寒い夜には暖炉で薪がはぜる音がしていた。少しだけ漂う古びた匂いは嫌なものではなくて、むしろ、俺の好奇心を駆り立てる未知の輝かしいものだった。
その懐かしさに誘われて俺はプロンテラの北へ向かった。旅に出てすぐの頃には恐ろしかったポリンやルナティックも、今となっては可愛いもの。軽く撫でるように叩く程度で流して、森の方へ。
ずっとプロンテラには寄り付かないようにしていたから、勿論こっちにも来たことがない。見慣れない地図のページを開いては、時々立ち止まっては方向を確認する。自慢じゃないが俺は道に迷いやすい。それもあって、あまり新しい場所に行くのには積極的じゃなかったのだが……。
ふと、前方の茂みが揺らぐ。モンスターかと身構える俺の前に現れたのは、華奢というよりはガリガリといった方が合っていそうなアルケミストだった。山道を歩いてきたからか、カートは引いていない。初対面でこんなことを言うのもあれだが、片目眼鏡が似合いすぎていて嫌味ったらしい。
「あ……、すみません。ちょっと良いですか?」
「……ん?」
「カピトーリナ修道院の方に行きたいんですけど……道、こっちで合ってます?」
「ああ……」
顔の半分を陰気臭く前髪で隠したアルケミスト。口を開けば、見た目以上に無愛想だった。いかにも面倒だと言うように、さっき自分が出てきた茂みの方を指した。
「ありがとう」
俺が礼を言う頃にはもうプロンテラの方へ歩き出している。気分を切り替えるために溜息をひとつ意識してつく。とりあえず道が合っているとわかっただけでも良い。
茂みをかきわけると、なるほど、確かに道が続いていた。獣道じみた、細い線にも似たものだったが、巡礼に来る聖職者たちが踏み固めていったのかと思うと、少し愛しい。
春もたけなわといった風の日差しも、この森の中までは殆ど届かない。穢れを身に着けてそれを浄化することで、より神聖なものを得る……そんな錯覚を思い起こさせる、暗い場所。ここをユリウスも通ることになるのか。それとももう、通ったのか。
そんなことを考えながら細い道を行く。地図は小さく畳んで片手に持つ。しんとした森の中に緊迫感が漂いだす。空けたもう片方の手は、腰に下げた剣へいつでも伸ばせるように保つ。この緊張が嫌いだと言っていた奴もいたが、俺には心地良い。生きるか死ぬか、そのぎりぎりの境界に立っている感じが、とても好きだ。
(ん……?)
僅かな甘い香りを鼻先に感じた。思わず眉根が寄るのは、俺がこういった臭いが大嫌いだからというのもあるが、それ以上に。
「っふ、あ……。――く……、ふ……」
少し離れた茂みから苦しそうな声が聞こえてきたから。モンスターの気配が濃厚になったから。……聞こえてきた声が、ユリウスのものに酷似していたから。
あいつでなければ良いと願いながらも、剣を抜く。茂みから時折、ピンク色をした醜悪な舌のようなものが覗く。マンドラゴラだ。舌打ちをひとつして地を蹴る。
まずは枝葉を切り下ろすべく横に一閃する。派手な音と共に視界が晴れ、モンスターが姿を現す。
「っ…………」
背筋を悪寒が駆け抜ける。茂みから現れたのは、確かにマンドラゴラだった。数体のマンドラゴラが所狭しと重なり合うようにして生えている。その中央には、触手に絡めとられた一人のアコライト。そうでなければ良いと思っていた、ユリウスの姿があった。
気を失っているのかぐったりと力なく項垂れている。自信なさそうに青白かった顔には朱が上り、うなされるようにくぐもった声を漏らす唇には、数本の触手が侵入している。露出した白い足の合間にも幾本もの触手が蠢いている。その触手たちの先端がどこへ消えているのか……それを確認するのを反射的に拒んで、視線を俯ける。
地面にいくつか、空き瓶が落ちていた。使用済みのものらしくてラベルが貼ってあるのが見えた。たぶんそこに製作者の名前が書いてあるのだろう。誰かがここでマンドラゴラを召喚したのだと直感した。
「……っふ……」
「ユリウス?」
気がついたのかと、恐る恐る声をかける。それに反応して、焦点が合わずにぼんやりと彷徨っていた視線が俺を捉える。涙に煙る青い瞳が、はっと見開かれた。嫌がって暴れるユリウス。それを留めるように、触手に力が入ったようだった。ユリウスが苦痛の呻きを漏らす。
早く助けようと思いながらも咄嗟に動けなかったのは、けばけばしい桃色の触手に嬲られるユリウスの白さに心を捕らわれたから。酷い言葉をかけたらどうなるだろうと、一瞬だけ誘惑に心が揺らいだ。
「……待ってろ。今、助けてやるから。じっとしてろ」
耳の奥でくりかえし囁かれる誘惑を断ち切るように宣言して、剣を構えなおす。声が低く掠れたのを悟られないように願いながら、マンドラゴラを見据える。奴らは、俺に気づいた風もなく、野生のものにはない甘い香を撒き散らしながらユリウスの体を蹂躙している。
体の奥で熱のはぜる気配があった。それが何なのか自分でもよくわからない。わからないが断ち切って、マンドラゴラへ近付く。一匹だけ俺に気づいたのか触手がこちらへ向かう。先端が腕を掠めていく。さほど痛くないのは、これまでの修行の成果か。
ユリウスに絡みつく触手の数本を纏めて斬り捨てる。残った触手が一気に俺の方へ向かってくるのを剣でいなし、本体へ上から一刀両断に斬りつける。緑色の体液が周りに飛び散った。ユリウスの白い衣装にも、鮮やかな緑の染みがつく。
「悪ぃ!」
ユリウスの顔が泣きそうに歪む。見てる俺の方が泣きたくなるような、悲しそうな顔。だからつい、普段なら口にしないような詫びの言葉が咄嗟に出た。
細い体を戒める触手を引きちぎるようにして斬る。
「ひ、ぁ――……!」
支えをなくしたユリウスの体が揺らいで、下へ沈む。ぐちゅ、と水の音がした。痛みを堪えるような、やるせないような、何ともいえない声が耳に届く。今まで聞いたこともないような種類の声だった。
今にも途絶えてしまいそうな細い息。だから、せめて呼吸だけでも楽にしてやりたくて、先に口へ繋がっている触手を斬り捨てる。奥まで入り込んでしまっているのか、もうそれを吐き出すだけの力もない様子だ。
向かってくる触手を剣で払いながら、片手で、その太い触手を口から引き抜いてやる。
「……っ。は……、……」
咳き込むことさえ上手く出来ずに身を折る様に、何ともいえない思いが生まれる。どうすれば良いのかもわからない、もやもやした気持ち。それを何と言い表すのか探すように、それから逃れるように、剣を振り続ける。緑の飛沫が顔にかかっても気にならない。
触手が脇腹を浅く薙ぐ。焼ける痛みの上に感じる濡れた感触。だが、動きを止めるほどでもない。一匹、また一匹とマンドラゴラを斬り倒していく。
最後の一匹と対峙する頃には流石に息が上がり、傷の痛みをあちこちに感じていた。持ちなれた剣も少し重い。それでも切っ先を下げる気にはならない。ここで俺が引き下がるわけにはいかない。そう思えば不思議と力が湧いてくる。
気合と共に、渾身の力を込めて剣を振り下ろす。緑の血が断末魔の代わりに上がり、やがてマンドラゴラは動かなくなった。青臭い臭いが甘い芳香と交わって、やりきれない。袖口で頬についた液体を拭いつつ、地面に倒れたユリウスへ視線を移す。
「大丈夫……か?」
「……ぅ……、……」
仰向けに倒れたユリウスの足の合間に、まだ幾本かの触手が入り込んだままでいるのが、立てた膝の間から見える。斬られたショックの名残か微かに蠢く触手。薄く色のついたユリウス自身にもまだ、細い蔓が絡み付いている。
人には決して見られたくないだろう姿を見てしまった気まずさ。白く穢れないものが汚された快感。こんなモンスターをわざわざ作って放したであろう、アルケミストへの憤り。微かに震えるユリウスの細い肩に煽られる情欲。
一瞬の内に胸に過ぎったのは、一言では言い表せない感情ばかりだった。じっと見つめる俺の視線にユリウスが両手で顔を隠す。喉の奥から小さな嗚咽が漏れている。
「体、拭いてやる」
「っ! ……や……」
反射的に上がったのは、嫌がるような泣き声。その声に思わず、近付きかけた足さえ止まる。男同士なんだから恥ずかしがることもないだろう、とは言えなかった。
同じ男のはずなのにユリウスの姿はあまりに俺と違いすぎて。華奢なつくりの体だとか、変声期を終えても変らず柔らかい細い声だとか。時折びくりと震える体が艶かしい。
喉が焼けついたように、言葉が出てこない。
仕方がないから無言で背負っていた荷物を下ろす。剣は腰に。常に持ち歩いている白いタオルと水筒を取り出して、ユリウスの側に歩み寄り、膝をつく。
「ズボン、脱がすぞ」
絞り出した声を短くかけて、返事も待たずにベルトに手を伸ばす。前を緩めるだけにして、閉じさせられていた膝を解放してやる。薄い腹についた赤い傷跡が痛々しい。
下ろした荷物の中から短剣を取り出す。出来るだけ事務的になるように、無造作にユリウス自身に触れる。この真っ白な体のどこにこんな熱があったのかと思うほど、熱い。
そっと傷つけないように、絡みつく蔓を切り捨てる。それでも刃物が触れる瞬間にユリウスの体が強張った。怯えた、蒼白な顔が視界の端に入る。
「危ないから、動くなよ」
安心させるように言いながら慎重に刃先を動かし、絡みついた触手を全部取り除く。敏感な箇所を傷つけた様子はなくて、ほっと安堵の溜息をつく。
俺はこんなに繊細だっただろうかと頭の隅で苦笑の気配。
熱く張り詰めたそれが苦しそうだったが、あえて触れずに手を離す。苦しげな吐息がに俺まで胸が苦しくなる。それを噛み殺すように奥歯を噛み締め、短剣を収める。ユリウスはあまり刃物を好きではなさそうだったから。
ユリウスの体内に潜り込んだまま微弱に蠢いている触手を一本掴んで、軽く引っ張った。
「あ……。ん、ふ……っ」
小さな声が弱々しく洩れる。必死で堪えようとしているのがわかるだけに、居たたまれない。が、このままにするわけにもいかない。心を鬼にしてそのまま一息に引き抜く。
「ふぁ、あ……ああ――……!」
悲鳴かと思うような声が細く長く響く。背を反らしながら、腰が揺らいでいる。元々自制心なんてそんなに強くないから、誘惑に負けそうになる。むしろ誘惑してるんじゃないかと一瞬、思ったりもした。
そんなことを僅かでも思い浮かべた自分に罪悪感が生まれる。せめてもの詫びにと、触手を一本ずつ、今度は丁寧に引き抜いていく。その度にユリウスの嬌声が上がる。耳を塞いでしまいたいような、もっと啼かせてみたいような、危ういところで心が惑う。
「……よし。これで全部だ」
懸命に平静を保とうとしながら言う。心の乱れがすぐ声に出る。掠れた声が、俺の声じゃないみたいだった。出来るだけ逸らしていた視線を戻したら、いつのまに腕がどけられていたのか、ユリウスの青い瞳が俺を捉えていた。
涙に霞んでなお青く澄み切った瞳。今は熱に潤んでいて、淡く色づいた唇が誘うように開かれていて、息は荒くて……。頭の中できんと何かが張り詰めるような感覚。一瞬だけ、そのままどこかに引き込まれそうになった。
慌てて首を振って、煩悩を振り切る。
そんなことをしたいわけじゃ、ない。
「待ってろな。拭いてやるから……。ああ、先に水飲むか?」
「んん……」
いらない、と注視しないとわからないくらい僅かに首が振られる。頷き返して水筒の蓋を取る。タオルを水で湿らせて、まずはユリウスの尻の合間へ。
痛みを与えないようにゆっくりと入口を拭う。どうせ俺しか使わないんだからと、安物の粗いタオルを持ってきたことを後悔した。吸水性だけは優れているからすぐに汚れを拭きとってはくれるだろう。
厚いタオルの向こうに、さっきまで触手を咥え込んでいた窄まりがある。タオルがなければこのまま俺の指を呑み込みそうな収縮を感じる。俺はあえて気付かないふりをする。気にしてはいけない。これ以上こいつを傷つけたくない。自然とそんな風に思えたのが、不思議だった。
その後は、顔。唾液と粘液とが交じり合ったもので濡れた唇だとか、顎を拭ってやる。俺がマンドラゴラを斬ったときについた緑の液体も、丁寧に拭う。目の端から零れ出る涙をタオルで拭くのは可哀想で、少し躊躇った後に指で触れた。そっと壊れ物の表面を拭うように、涙を掬い取ってやる。
「他に気持ち悪ぃところとか、ないか?」
「ぅ……、あ……。んふ……」
涙を浮かべた瞳が俺を見つめている。その目が何を訴えているのかわかる。わかるけど、わかりたくない。気付かないふりを続けて、タオルを畳みなおす。不意に俺の手首に何かが触れる。またマンドラゴラかと思って視線をやれば、力の入らない白い指先が懸命に捕まっていた。
それは、言うまでもなく、ユリウスの細い指。縋りつくような必死さを、微かに伝わってくる震えに感じる。だから振り払えない。抗えない。そのまま、導かれるまま、形を成したユリウス自身へ触れる。
「…………。今から、するのは」
口を開いたユリウスの言葉を遮って先に切り出す。今にも泣き出しそうな顔のこいつに何かを言わせたりしたくなかった。それが何なのか、漠然とした予感でしかなかったが。
「俺が無理矢理すること、だからな」
「え……」
「嫌だったり辛かったりしたら、殴ったって良い」
細い息の合間に、戸惑いの声が上がる。それ以上の問いを封じるように重ねて言う。頼りなげに揺れる眼差し。俺自身の欲望は呑み込んで、そっとユリウスのそれへ指を絡める。
所々に緑の汁がこびりついている。それを拭い取るように指を動かしていき、まずは根元へ。きっと長いこと戒められていただろうそこを労わるように、何度か撫でる。手の内で、熱が増した。
指先で濡れた箇所を辿っていくと、透明の露を滲ませる先端に辿り着く。周囲に立ち込める甘い香りなんてわからなくなるくらい、甘い声が耳に届く。
「っふ……ああ、……。んぅ……」
次第に声が高まっていく。自分でするときよりも丁寧に、傷つけないように手を動かしていく。指の合間に先走りの露が絡む。出来るだけ水音を立てないように動かすが、それでもやっぱり音は立つ。
親指の腹で先端を軽く弄ると、それだけで面白いように細い腰が揺らぐ。苛めたくなるのを堪えて、ただ快楽を与えることだけに専念する。
「……ん……っ!」
びくんと白い体が強張る。放出を促すように何度も先端を扱いてやる。躊躇いにも似た僅かな間の後、俺の手の中に精が放たれた。
零れる精がユリウスにつかないよう、タオルですぐに手を拭う。それから今度は先端をそっと、軽く触れる程度に押さえて拭いてやる。俺の手が動く度に、まだ甘い吐息が零れていたが、懸命にそれを無視する。よくもまあ、誘惑に流されやすい俺が耐え切ったものだと思う。
べたべたした手を、水筒から零した水で軽く洗う。そのついでに、力を失ったユリウスのそれも軽く濡らしてやる。その後でまた乾いた布で拭いて、大体綺麗にしたところで、やっと一息つく。
ユリウスはといえば、まだ力なく横たわったまま、荒い息を整えようとして薄い胸を上下させている。ズボンを直してやろうかと視線を下ろせば、目に入るのは白い足。目の毒だと、少々手荒にズボンを引き上げてやった。
「すみませ、ん……。ごめんなさい……」
整いきらない息の合間に洩れるのは、嗚咽でもなく、俺への謝罪。何度も何度もくりかえされる謝罪。聞いてる俺の方が謝りたくなるような、そんな謝罪の言葉だった。
この間と同じように、白い額を指先で弾く。
「お前は被害者なんだから、もっと堂々としてりゃ良いんだよ」
「で、も……。サーシャさん、汚しちゃった……」
「もう綺麗になった」
「怪我、だって。僕の所為で……」
言われて初めて、怪我のことを思い出した。そういえばそんなものもあったな、程度なんだから、気にされる方が困る。それをどう言ったら伝わるのか俺にはわからなくて、仕方なく、そっぽを向いてぶっきらぼうに口にする。
「こんなもん、かすり傷なんだから舐めときゃ治る」
お前の方が痛そうだ、とは、俺の口からは言えなかった。ユリウスが怪我していること自体、俺から触れてはいけない気がして、口を噤む。俺はいつだって、本当に言いたいことが言えない。
もそ、とユリウスが身じろぐ。懸命に起きたがっているようだったから、手を貸してやる。俺の手を頼りに起き上がるか細い姿。それは懐かしいもので……少し胸が痛んだから、目を逸らした。
「どうした?」
「じっと、して……」
尋ねる俺にもたれかかるようにして、ユリウスが何とか座る。まだ座るのも辛そうなのに、俺に軽く掴まりながら首を伸ばす。儚げな唇が近付いて来る。
何をするのかと思っていたら、舌を伸ばして俺の頬の傷を舐め始めた。驚いて固まったまま、何も言えないでいる。そんな俺を尻目に、頬の傷から腕の傷、最後には脇腹の傷を舌先で丁寧に舐めていった。
そっと目を伏せて一心に舐め続ける様は、これまた扇情的で目のやり場に困った。あらぬことまで考えてしまって、咳払いをいくつか。ユリウスがきょとんとして顔を上げたのを契機に、離れろと軽く肩を押す。
「んなこと、しなくて良いんだよ」
「でも……」
「大体、アコライトになったんだから、ヒールすれば良いだろうが」
「…………あ……」
俺の指摘に、言われて初めて気づいたという風に目を瞬かせるユリウス。そうしていると、さっきまでの色気めいたものは消えうせて、幼い子どものようで……不覚にも少し、可愛いと思ってしまった。
納得してくれたようなので肩を押し返すのは止める。自力で上体を支えるのが辛そうなのに、横になる気はなさそうだったから、仕方なしにまた、抱きとめてやる。仕方なしと言いながら、ずっとこうしていられれば良いと、少しだけ思った。
こいつの髪からは微かな甘い香りがする。さっきのマンドラゴラが放っていた、醜悪とも言える臭いではなくて、どちらかといえば、テーブルに活けてある花のような、清楚な甘さ。
「それにしても、転職が済んだってのに、何でこんなところに……」
「その……、あの……」
問われて俯くユリウス。自然と抱きしめている俺の胸に顔を埋めることになる。それに気付いて、慌てて顔を上げると、今度は俺と目が合って顔が赤くなる。顔を隠そうとして俯くと、また……。それを何度かくりかえして、ようやく落ち着いたらしい。ぐったりと俺にもたれかかる。
つい手癖で髪を撫でてやりながら、促すでもなく答えを待つ。
「神父さまに、転職出来ましたって、お礼を言いたくて……」
微かに掠れた小さな声での回答を聞いて、なるほどと思い切り納得してしまった。黙っている俺を不安に思ったのか、ユリウスが上目にこちらを見ている。だから、ぽんぽんと頭を軽く叩くように撫でて、安心させる。
「なのに、こうしてサーシャさんに、ご迷惑を……」
「ごちゃごちゃ煩い。迷惑なんて思ってないから良いんだよ」
「…………すみません……」
俺の胸に顔を埋めたまま、小さく何かを呟くユリウス。何かと思って耳をそばだてると、礼の言葉のようだと何とか聞き取れた。
溜息をひとつ。それから、ユリウスの顎先を掴んで上向かせる。
「あの……。やっぱり、怒って……」
当惑した様子で尋ねてくるのを無視して、その唇に自分の唇を重ね合わせる。それ以上の言葉を奪うように。それから、俺の傷を舐めてついた血を回収するように。舌を差し込んだりはしない。ただ、触れるだけのキス。
時間にしたら、ほんの数秒。それなのに、触れている間は時が止まったかのように、長く感じられた。ユリウスが大きな瞳を見開いて俺を見つめている。気まずさに顔を逸らした。
「悪い……」
思わず口をついて出た言葉。何故だろう、こいつには謝ってばかりいる気がする。こいつが謝ってばかりだから、それがうつったんだ。そうに違いない。
俺の謝罪を聞いて、ユリウスは一瞬だけ悲しそうに目を伏せ、それから首を振った。やっぱり、気にしているだろうか。大して面識もない人間にキスなんてされたら、それは気にするか……。
そんなことを考えていたら、軽く逃げたくなった。こいつに嫌われるのは、何と言うか、とても嫌だ。そう思っている自分がいることに、また驚いた。
「…………罪滅ぼしってわけじゃないけど。神父のところまで、護衛していってやる。俺だって、大した腕じゃないが、まあ、お前一人で行くよりはマシだろ」
気まずさを誤魔化すように申し出る。俺を見つめる視線が、驚きの色を宿した。……そんなに悪人っぽく見えるんだろうか、俺は。少なからずショックを受けたが、それはスルーする。
「あの、……そんな……。良いんですか? 僕なんかに、つきあって……」
「良くなかったら、わざわざ言うわけないだろ。馬鹿」
「あ、えと……。ごめんなさい……」
「とりあえず、少し休憩な」
「僕なら、もう……」
大丈夫、と言おうとしたのだろうユリウスへ、再びデコピンを食らわせて黙らせる。
「俺が疲れた」
溜息をついて、手近な幹に背を預ける。きょとんとしていたユリウスだったが、やがておずおずと笑みを浮かべて頷く。唇が小さく動いて、「ありがとう」と紡いだようだった。目を閉じて、それに気付かないふりをしてみせる。昔から狸寝入りは得意なのだ。
寝たふりのつもりが、いつのまにか本当に寝ていたようで……目を覚ましたら、ユリウスの寝顔が腕の中にあって、えらく驚くことになったのだが、まあそれは別の話。
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