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手負いの獣を拾った。 獣といってもまあ、いわゆる比喩というやつで実際にはちゃんとした人間なんだけど。紫の髪に、日に透けると金色っぽく見える薄い茶色の瞳。人間離れした綺麗な姿なのに本人はちっとも気づいてなくてただ、触れられることに怯えていた。誰も信じたりなんてしないと威嚇する様は獣めいていて、けれど誰かを信じたくてたまらない様子は人間で、初めて見たときからずっと、それは変わっていなかった。 初めて彼を見つけたのはいつだっただろう。 その日も俺は、行き着けの酒場で弾き語りなどしてその日の食事にありついて、ちょっとした虚しさなど感じたりもしていた。 皆、友達やら仲間やらと来ては騒いでいる。俺があんな風に騒いだのはいつ以来だろう。そんなことを考えていた気がする。 わいわい楽しそうな声が靄みたいにぼんやり、タバコの煙と一緒に酒場に立ち込めていた。その向こう、狭いカウンタ席に一人だけぽつんと座っているのが急に目に留まったんだった。この酒場にはちょっと珍しい、プリーストの衣装を着た、華奢な印象の男。 オンザロックの酒を思い出したように飲んでは、またぼんやりと遠くを見つめている。何を見ているんだろうと気になった。が、俺が椅子を立つより前に酔っ払いが近寄って行って、三言ほど囁いてからそのプリーストの腰を抱いて外へ姿を消した。 恋人には見えなかったし、脅されている風でもなかった。ただ、俯いた横顔は何も感じていないようで、疲れきったようで、どこか泣き出すのを堪えるようで、それだけが気がかりだった。 彼が誰なのかはすぐにわかった。 あの酒場のある界隈で最近有名になってるらしい、「男に抱かれるのが大好きで一晩泊めてやりさえすれば何でもさせてくれる」プリースト。酷い言われようだ。 「そうは見えなかったが」と教えてくれたローグたちに言うと、そいつらは「お前も誘ってみろよ。強引にされるのが好きらしいから、力のない奴は相手にされないみたいだけど」と嘲笑を残してまた酒を飲み始めた。俺はそれ以上何かを言うのを諦めた。 そうは見えないのに、何故そう思うのか俺には上手く言えない。 あえていうなら雰囲気と、瞳。 酒を飲みながら何かに耐えるようにじっと、バーテンの肩越しに壁を見つめている、あの横顔。世界のすべてを拒絶するようで、今にも寂しさに折れそうで、そのアンバランスさが俺を惹きつける。 俺が歌を歌っても、彼は決して身じろがない。自慢じゃないけど俺が歌うと、酩酊状態の奴だってこっちを向いてから眠りにつく。酔っ払い同士の争いやモンスターの猛りを歌で鎮めることだって出来なくもない。 俺の歌が彼の耳に届かないことがプライドに障ったわけじゃない。ただ俺は彼に興味があって、彼が抱えている憂鬱や悲しみを少しでも歌で癒したかった。紛らわせるだけでも良いんだ。彼が自分の中のそれと再び戦えるようになる、そのときまで。 だけど彼が俺の歌に耳を傾けることは絶対になかった。彼の行動はずっと変わらず、ただ疲労と悲しみだけが増していっているようだった。 彼のことが気がかりながらも久しぶりに狩りへ行ったのが一昨日。 グラストヘイムの方まで行ったものだから、プロンテラに帰ってきたのは夜もだいぶ更けた頃だった。酒場で軽くつまんで帰るかと裏路地を歩いていたら、か細い悲鳴が聞こえてきた。どう聞いてもそれは喘ぎ声で、その中には常と違う色が潜んでいた。 死の気配。まだ、だいぶ薄いものではあったけれど、放っておいたらそのまま死んでしまいそうな弱々しさが確かにあった。 角をいくつか曲がった先で絡み合う人影を見つけた。大柄の男が、華奢なプリーストを四つん這いにさせて背後から犯していた。雲が流れて月光が狭い路地にも降り注ぐ。照らし出されたのは、紫の髪。彼だ、と直感する。 心臓がひとつ、大きく跳ねた。 怒りを押し殺す間もなく俺は二人へ歩み寄っていた。 「何をしている」 「あ? 何だテメエ。人が楽しんでんのを邪魔するなよ」 「楽しんでいるのは君だけだろう?」 「お前知らないのか? こいつはこうやって犯されるのが大好きなんだよ」 「……何にしろ、やりすぎだと思わないか? このまま続けたら死ぬぞ」 死ぬぞ。自分で言った言葉なのに背筋が寒くなった。彼をこのまま死なせたくない。男の襟を掴んでぐいと後ろへ引いて、彼から引き離す。粘ついた水音が耳障りでつい顔を顰めてしまう。 邪魔に入った俺に腹を立てて酔っ払い(だろう、たぶん。顔が異様に赤くなっていた)が大声をあげて殴りかかってくる。それを脇へ避け、足元がふらついたところで男の後頭部をバイオリンで殴りつける。派手な音を立てて酔っ払いはゴミ箱に頭から突っ込んで倒れたきり、動かなくなる。 ふ、他愛もない。……などとひたる余裕は勿論ない。酔っ払いは放置して彼の側まで行く。彼は黒い法衣の上だけ腕にひっかけていて、首からはロザリーと一緒に看板が下げられていて、その看板には『公衆便所。ご自由にどうぞ』などと書いてあって、誰がしたのか知らないがふつふつと怒りが湧いてきた。 「大丈夫かい?」 「……」 「もし良かったら、俺の家で手当てを……」 「……」 「ああ、ここからすぐ近くだし、何もしないから安心して」 「……」 「このままじゃ君、死んでしまうよ」 「……」 俺が何を言っても首を振り続ける彼に焦りが強くなる。ふと項垂れる彼の首が目に入る。看板を吊っているのはやたらと頑丈そうな糸で、弓も使う俺には一目で弦だとわかって、また怒りがこみ上げてくる。こんなもので重たい板を下げさせるなんて何を考えているんだ。 刃物は持っていなかったから仕方なく、看板をそっと持ち上げて弦を彼の首から外してやる。彼の呻き声が聞こえて少しだけ安心する。まだそれだけの力は残っているみたいだ。両手が縛られているのも解いてやる。力の入らない彼はそのまま石畳の上に倒れた。 月光の中に倒れた彼は、ぼろぼろに犯された後なのに凄く綺麗だった。思わず見とれかけて、それから彼が目を閉じようとするのが見えて慌てて側に膝をつく。荷物の中からイグドラシルの葉を取り出し、軽く咀嚼してから彼に口移しでそれを与える。拒もうとする舌に俺の舌を絡めてあやしながら、無理に飲み込ませる。ようやく全部を飲ませ終わったときには、冷たかった彼の唇に俺の熱が移ってあたたかくなっているくらいだった。 「連れて帰るよ。手当てをしないと……このままじゃ君は自力で戻れないし、構わないね? ねえ、俺のところへおいで。俺はまだ、君に歌を聴いてもらってない……聴かせたい歌があるんだ。だから、おいで」 まだ焦点の定まらない様子の彼へ囁くように告げて、抱き起こそうと手を差し出す。首を振る以外は身じろぎひとつしなかった彼が不意に、俺の手に指先を触れさせた。 それが嬉しくて俺は微笑む。彼はそのまま気絶してしまったけれど、もう死のうとしている風ではなくて俺は安心して、自分のマントで彼を包んで抱き上げて、家に連れ帰った。 で、そんな手負いの獣みたいな彼を拾って、三日がすぎた。 余計なことをするなと殴られるかと思ったらそれもなくて、気力が戻ったらそのまま自分で傷を治してさっさと出ていくんじゃないかと思ったらそれもなくて、俺は大変満足していた。 アウレーリエと名乗った彼は、俺の名を綺麗だと言った。それだけで俺は彼のことを好きになる。まあ好きか嫌いかで言ったら、最初にリエちゃんが視界に入ったときから、ずっと好きだったってことになるんだけど。 リエちゃんは何故か、自分で傷を治したりしないまま、今日も首の手当てを俺にさせてくれる。細い首筋に触れられるのが、手当てをさせてもらえるのが、何故だか妙に特別扱いされているようで、俺はついつい、白ポーションを使わずに手当てをしてしまう。それを使えばすぐに怪我なんて治るのはわかっている。だけどリエちゃんも何も言わないから、もしかしたらリエちゃんもここから出ていきたくないのかなとか、一瞬だけ自惚れたりした。 ねえリエちゃん。 この包帯がとれるまでの間で良いから、もっと俺に甘えてよ。 君のための歌はもう出来ているのに歌う勇気が出ないよ。 リエちゃんが後一歩、俺に歩み寄ってくれたら、そうしたら勇気が出せるのに。 ……なんてことをリエちゃん本人に言えるはずもなく、俺は今日も鼻歌で誤魔化しながらリエちゃんの包帯を換えて、着替えを出してやる。 早く怪我が治ると良いね、と言いながら心では、ずっとこうしていたいなんて思うんだから俺も相当性悪だと思う。もう数日もしたらリエちゃんは礼だけ言って姿を消すんだろう。そう思ったら俺は急に寂しくなって、後ろからリエちゃんを抱きしめていた。共同浴場で同じ石鹸を使ってるから、同じ匂いがする。なのにこれは俺とは違うリエちゃんの匂いで、俺はまた寂しくなる。 抱きしめてから数秒。数秒したら、驚いた?と笑って、冗談にしないと。冗談に出来るかな。出来るはずだよね、俺はバードだもの。日ごろのジョークで鍛えているんだから、大丈夫なはず。 気持ちを告げてリエちゃんを困らせるなんてしたくない。 ちゃんと冗談にする。 ……だから、この数秒だけは、抱きしめさせてください。 end
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